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「のどぐろ」君と再会
「久しぶり、香坂さん。……何年ぶりだろ。七年くらい?」
彼は相変わらず、眠気を帯びた目と語気をしていた。私の記憶と違うのは、彼が甘やかに目を細めて笑った事。そんな顔できるなんて知らなかったから。端麗になった顔つきもあって、一瞬誰だか分らなかった。目を見開きフリーズする私に、彼が笑みを深くして告げた。
「……覚えてるかな。俺、赤井睦なんだけど」
「…………う、ん。覚えてる、……」
喉に物が詰まったような、苦し紛れの言葉を返した。
同窓会の会場であるホテルのバンケットルームに、何故か赤井君がいた。有休を入れたとかなんとか。何それ聞いてないんだけど、と千春の方を見やる。しかし彼女は既に何人かのグループになって盛り上がっていて、私の視線など気にも留めていなかった。
後で覚えてろよ、と心の中で呪詛を吐きながら目の前の赤井君に視線を戻す。紺色のテーラードジャケットと黒のテーパードデニムが、体のシルエットをすっきり見せていた。シンプルな白シャツもあってか、清潔感のある印象だ。かつての重たそうな学ランに身を包んでいた赤井君は見る影もない。雰囲気の変わりぶりに茫然としていると、また彼が話し始めた。
「香坂さんは、今なにやってるの」
「えっと……ファッション雑誌の、編集者。……赤井君は?」
「俺はシェフ。レストランで、一応料理長やってるんだ」
「料理長、……ってそれすごいんじゃないの?」
「いや。最近なったばっかだから、全然。……あ、香坂さんの作ってる雑誌、知りたいんだけど。名刺とか今持ってる?」
「う、うん。ちょっと待ってね、……」
持っていたクラッチバッグから、名刺入れを取り出した。自分の名刺を彼に渡しながら、存外普通に彼と会話で来ている自分に驚いていた。彼が昔より分かりやすくニコニコしているからだろうか。でも話し易さというか、会話の広げ方は仲が良かった頃のままだと思った。彼は不思議な打ち解けやすさを持つ人だったから。だから当時の私は彼と交流してすぐに心をゆるしたのだと、今更思い出した。
後は二人だけでとんとん拍子に話が弾んで、私は徐々に例の「のどぐろ事件」の事を忘れてしまっていた。それくらい彼と話すのは楽しかったし、他の同級生達も赤井君の事を一度も「のとぐろ」とは呼ばなかった。きっとあのあだ名の事は、皆忘れてしまったのだろう。なんだか自分ばかり神経質になっていた気がして、ちょっと決まりが悪くなった。
赤井君とのやりとりが楽し過ぎて、彼につられて二次会に参加してしまった。同窓会参加者のうち、半数程度で二次会は執り行われるらしい。私達は居場所を宴会場からホテル内のカラオケルームに移した。参加費用を幹事に集金して、それから各々好きな場所に腰を下ろす。私と赤井君は、自然な流れで隣に座った。しばらく経つと、暖色ライトの下では級友達の流行り歌の熱唱が部屋に満ちていた。
二次会ともなると皆そこそこ酒が入り、羽目を外しすぎる人も当然出てくる。赤井君の級友もその類だったらしく、唐突に彼に絡んできた。
「のどぐろ~お前全然酒飲んでねぇじゃん! もっと飲めよぉ」
級友君が、赤井君の肩を抱いてお酒のグラスを勧めた。酔って真っ赤になったその顔は、酷く愉快そうに笑っている。のどぐろ、という言葉を聞いて、私は一瞬動きを止めた。それから、すうっと脳裏が冷えていくのが自分でも分かった。――なんだ、結局皆忘れてなんか無かったんだ、と。見限るような赤井君の笑顔が、思考にフラッシュバックする。在りし日のように、心が不穏に軋めくのを聞いた。
持っていたドリンクのグラスをテーブルに置いて、そっと目だけで隣の赤井君を伺う。赤井君の怪訝そうな顔が、飲酒する意思のない事を既に物語っていた。飲めよ、と言われてグラスを押し付けられていたけど、赤井君はいらないと一言で一刀両断していた。
「お前なんで飲まねぇの?」
「悪いけど俺、車で来てるから」
「はぁ~? つまんな! あ、じゃあ香坂さん飲む?」
なんで私に飛び火した?! と少し焦った。目を白黒させながら、適当にあしらう。
「だ、大丈夫。私下戸なんだよね」
「ちょっとだけだから平気だって! あ、もしかして香坂さんも車?」
「……電車だけど、本当にお酒は苦手だから、」
「ちょっとだけだってぇ~! ささ、どうぞどうぞ」
級友君はけらけらと笑いながら私の隣に座り直して、持っていたお酒を口元の方へ押し付けてきた。頬が引き攣るのを自覚しながら、手で制して拒否を続ける。下戸なのも電車で来たのも、お酒が飲みたくないのも本当の事だ。
どうしたものかと困っていたら、赤井君が級友君からお酒のグラスを奪うように取った。私も級友君も一瞬ぽかんとして、グラスを持つ彼を見つめる。すると赤井君のぼんやりとした瞳が、ちらりと刹那的に私を捉えた。あ、と思った次の瞬間には、彼はお酒を一気に飲み干してしまっていた。グラスを呷った赤井君の喉元が、ごくりごくりと上下する。飲み終えた彼は尚も眠たげな目つきのまま、平然と空のグラスを置いた。石化している私をよそに、赤井君は級友君に向かって言った。
「……これで満足?」
「お……おう……」
「あのさ。……無理に酒を勧めるの、良くないから」
「……すんませんした……」
赤井君の冷ややかな声に威圧されて、級友君の声が尻窄みになっていく。……これはきっと、私を助けてくれたのだろう。いやでも、赤井君は車で来てるのに大丈夫なのだろうか。いや大丈夫じゃないはずだ。助けてくれたお礼といっては何だが、後で運転代行サービスの分のお金を渡してあげようかな。そんな事を考えながら、級友君に滔々と説教を続ける彼を見つめていた。
*
お開きとなった二次会のカラオケルームは、先程の喧騒が嘘のように静まり返っている。私と赤井君以外は誰もいなくなって、あとは二人で退出するだけ。赤井君は座って項垂れた姿勢のまま動けないらしい。耳や首元まで赤くなった様子から、酷く泥酔している事が伺える。私は解散する前にもらっておいたお冷を手に取って、彼に勧めた。
「赤井君、ほらお水飲んで」
「…………ごめん……」
「気にしないで。吐き気とかは無い?」
「ん、……無い……」
「そっか」
赤井君のか細い声を聞きながら、その背中を摩っている。彼はゆっくりと顔を上げたが、その頬や目元すらかなり紅潮している。目はとろんと蕩けていて、彼も相当な下戸なんだと察した。私のせいで無理をさせてしまったな、と自責の念が募った。
赤井君はお水のグラスを受け取ると、ちびちびと水を飲み始めた。私は依然その背を摩りながら、そっと告げる。
「赤井君、車で来てるんだよね?運転代行のお金は私が払うからさ。お水飲んで落ち着いたら、ここ出よっか」
私の言葉に、口をグラスから離して赤井君が口を開いた。その言葉は呂律が回っていなくて、少し痛ましい。
「……お金、いらない……」
「でも助けてくれたから」
「お金の、変わりに、……ずっと聞きたい事があって……」
「? うん……何?」
赤井君はお冷のグラスをテーブルに置いて、据わった目でこちらを見て言った。
「香坂さん、なんで昔、俺の事避けてたの」
「……え、……」
「俺、変な事したかな、……」
縋るような赤井君の目と視線が合って、私はひゅっと息を呑んだ。私の罪の温床である過去を問い詰められて、彼にまっすぐに見つめられて。追い詰められた私は口を間抜けげに開けて、はくはくと音にならない言葉を発した。情けない様子の私に、赤井君の懇願に似た声が追い打ちをかける。
「俺、香坂さんに、嫌われてたかな」
「っちが、」
「じゃあなんで、……」
「……だって…………私、赤井君に変なあだ名つけちゃったし、それなのに赤井君は全然怒らないし……」
あぁ、――言ってしまった。妙な気まずさが腹の底で煮えて、私を俯かせる。赤井君の背を摩っていた手を止めて、引っ込めようとした。……でもその手首をすかさず赤井君に掴まれて、つい肩が跳ねた。酔って熱くなった彼の手が、酷く弱々しく私の手を握っている。矢庭に走り出した心拍が、距離の近さを物語っている。
「……俺、アカムツってあだ名、香坂さんだけに呼んで欲しかったんだ」
なんで、と掠れた私の声が、水を打ったような部屋に溶ける。
「他の友達が俺の事アカムツって呼ぶのは、嫌だったから、……香坂さんだけの、特別なあだ名にしたかったから。じゃあアカムツの別目はのどぐろだし、みたいな感じで……そう呼ばれる事になって」
舌のもつれた赤井君の声色が、どんどん熱を帯びていく。
彼の言葉が、全て真実だとして。それは私に自惚れを宿らせるには充分だった。だって特別とかそんな言葉、彼の口から飛び出るなんて思ってなかったから。もしかして、私は何年もの間勘違いしていたのだろうか? そんな風に錯覚してしまいそうで。動悸の激しさが、手首の脈から伝わってしまいそうな気がした。
赤井君の言葉が止んで、カラオケルームに沈黙が冴える。私はすっかり気が動転して、そっと彼の顔つきを確認した。
「――俺、香坂さんが初恋だったよ」
目が合った瞬間、そう告げられた。焦がれるような色が、赤井君の虹彩に射している。記憶の中の赤井君の瞳は、もっと靄のかかった穏やかなものだったはずなのに。いつの間にこんな目をするのようになったのか。過去が現在に上塗りされていくのを感じながら、私はまた視線を膝に落とした。
初恋だった、とか。その言い方は狡かったと思う。私が彼にそう愚痴を漏らすのに、一年かかった。彼から婚約指輪を受け取った日の事である。
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