退職します

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退職します

やっと今日このマフラーを返せる時が来た。 17歳のあの日からもう10年。そろそろいいよね。 ちゃんと私、もう自分で言える。 「三上さん、よろしくお願いいたします。」 私は退勤の時、退職願とずっと返せなかったマフラーを三上さんの机の上に置いた。 「橋本さん、これ退職届じゃない?いきなりだよね?それにこのマフラー何?」 「三上さんからお預かりしていたマフラーです。覚えてませんか?高校の時、自転車で三上先輩が帰られるとき、落ちたのを拾いました。」 座っている三上さんを立っている私が見下ろす形になってしまう。 「覚えてたんだ?盗ったって聞いてたけど」 「拾っただけです。」 心臓の辺りがチクリとする。 「何であの時、そう言わなかったの?」 辛かった日々が思い出される。私の黒歴史。何度も言った。何度も。 「あの頃、私、人の前で説明することが苦手で。噂のほうが広がってしまって。それより退職願のほうを。入社よりお世話になりました。ありがとうございました。」 「それにしても急じゃない?事前相談とかなしなわけ?」 三上さんは客観的に見ても、私にだけ入社以来厳しかったと思う。高校が同じだったこととか口が裂けても言えない雰囲気で、きっとこのマフラーのことをずっと怒ってるんじゃないかと思ってた。だからきっと何を相談しても無駄なんじゃないかと思えた。 高校時代、2つ年上の三上先輩は結構人気があって、バスケ部で頭も良くて、私もちょっとだけ憧れてた。だから私もバスケ部に入ってみたりして、話せる機会があればいいなって。新人戦の試合に出て、一度だけ先輩に褒められたことがあって、すっごく嬉しく。でもそれから間もなくだったと思う。男子バスケ部のマネージャーから何となくだけど目をつけられたような気がしたのは。 そしてあの日。マフラーを拾って、ちょっとだけマフラーを抱きしめて、先輩の匂いを感じた学校帰り。 翌日には私が先輩のマフラーを盗ったとか、私がマネージャーたちの陰口を言っているとか、ちょっとバスケが出来るからって他の部員をディスっているとかいろいろ言われるようになった。私が何か言おうとすれば、言い訳してるようにしか受け取ってもらえない。やっぱり盗ったんだ、ひどいことするんだね。そんな噂は瞬く間に広がった。そんなこんなで私はバスケ部にいられなくなり、バスケという共通項がなくなると、わざわざ三上先輩にマフラーを返しに会いに行くのも憚られた。いつ、どこで誰が見ているかわからないし、私自身が周囲の人間を信じられなくなったから。三上先輩の卒業式の時も、そのマフラーは私の鞄に入れたままで。どうやって返していいのか、あの時の私には考える気力さえなくなっていたのかもしれない。 大学受験を控えた時も、学校の推薦枠を他の生徒と競った時があって、結局あの時の噂が心証を悪くしたらしく、最終審査で落とされたと後で知った。先生に状況をちゃんと説明したけど、無駄だった。何度も捨てようと思ったあのマフラー。でもマフラーを見るたびに思った。私のこの黒歴史が終わるときに三上先輩にきちんと返そうと。 だから受験勉強は必死だった。高校とは遠い所。そうなると一人暮らしになるから、私立は親に負担をかけてしまう。選択肢は国立一本ということで人生で一番勉強した。 そしてどうにか合格。実家を出るとき、どうやって三上先輩にこのマフラーを返そうかと再度思ったけど、先輩の住所もわからないから郵送は出来ない。通っている大学はわかったけど何百人もいる学生の中から先輩を見つけ出す自信もなかった。だから引越しで実家を出るときにクローゼットの片隅に箱に入れて置いてきた。そしてずっと忘れてた。忘れようとしていたのに。 それでも大学生活は楽しかった。高校時代の黒歴史から解放された喜びは何にも代えがたい。就職も大学のある神戸に本社のある会社を選んだ。また就活の時に黒歴史が掘り返されたりしないように気を配ったつもりだったのに。 それなのに、配属先にいたのは三上先輩だった。就職した会社は大企業と世間では言われている企業で実は二本社制だったらしい。実家が東京だというのがあったからか、配属は東京。4年ぶりに実家に戻ることになった。そして埃をかぶった箱、私の黒歴史との再会が待っていた。よりにもよって三上先輩とまで6年ぶりに会うことになってしまうなんて。 三上先輩は高校時代のように皆に好かれる明るいキャラというより、所謂仕事の出来る男系になっていて、私にはドSに接してきた。三上先輩は直属のチューターでもあったから、毎日が緊張の連続。それでも必死に頑張ってきた。でも、いい加減、メンタルよりも私の体の方が悲鳴をあげ始めた。 毎年の健康診断では胃腸の再検査が指摘され、昨年末には駅のホームで倒れたりした。もちろん、その間、異動願いを何度も出した。
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