白と黒は色ではない

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白と黒は色ではない

小学五年生のあくる朝、目が覚めたら布団が白くなっていた。おかしい。私はピンクの掛け布団を使っていたはずだ。 その日の朝食はトーストで、母がホットミルクを出してくれた。私の使っていたマグカップはピンクだったのに、白になっていた。 登校したらサエちゃんがとっても可愛いスカートを履いていたから、「そのスカート、真っ白で可愛いね」と言ったら、キョトンとされた。「マシロちゃん、私のスカートはピンクだよ?変なの〜」と笑う。 この日、私の世界からピンクが消えた。 ピンクが消えた日を境に、私から色が消えていった。毎日一色ずつ、朝起きると色が見えなくなっている。なんでかは分からない。次第に視界は真っ白になっていった。 医者には行かなかった。誰にも言わなかった。最初は困ることもあったのだが、「好きな色」と訊かれたら答えるような、スタンダードな色は早い段階で消えた。すると色が浮かび上がるようになったのだ。 例えば、店先に赤いTシャツがあるとする。もちろん「赤いTシャツです!」なんて書いてあるはずはない。だが、Tシャツの上にじんわり「赤」という字が浮かび上がるのだ。これのおかげで、私は色を間違えることはなかった。記憶を駆使して美術を乗り越えることもしばしばである。どう考えても色が文字として見えるなんて特異だから、やっぱり医者には行かなかった。 しかしまぁ、中学一年生になった頃にはもう色を見かけなくなってしまった。どこを見ても白、白、白。そして色を表す黒い文字。輪郭線があるのが幸いだったけれど、街に行こうものなら大量の文字に目が回った。聞いたことのない色の方が圧倒的に多いから、どんな色なのだろうと何度思ったか分からない。 私の視界は本当に真っ白だ。文字は黒だから、モノクロの漫画か映画の世界に来たみたいだった。 そして現在、私は24歳の社会人である。そこそこ大きな会社で、デスクワークをしている。もう完璧に色は見えない。全てが白だ。だから会社で花見をしようと、強制参加の社員旅行で沖縄に連れて行かれようと、上司と帰り道を遠回りしてイチョウを見ようと、街がクリスマスで色づこうと、つまらないだけだ。 「……情緒もクソもない」 「なんて?」 「いやなんでも。加藤さん、帰ったらどうですか。お子さんいるんですよね」 「うーんでもねぇ…」 「クリスマスイブですよ、今日。やっときますよ」 「…そう?じゃあ、お願いして良いかな」 「はい、全然。もう定時ですし」 隣の席の先輩を帰して、残業をして。いつもそうだった。22時半くらいに会社を出て、気まぐれでコンビニで売れ残っているケーキを買った。全部真っ白なわけだから、生クリームだけでよく作れたなぁなんて馬鹿みたいなことを考えながら帰る。 今日は寒いなぁ。ハイヒールの音がコツコツ虚しく響く。早く帰りたい。うちの会社、スニーカーOKにならないかしら。なんて考えながら下を向いて歩く。 「なっ…なぁ!」 急に肩を掴まれた。えっ、と思って振り返る。人気のない路地だ。変な人だったらどうしよう。というか、足音しなかった。今すれ違った?怖いな。 しかし意外なことに、私の肩を掴んでいるのは女性だった。 「……え…………」 驚いた。自分でも顔が強ばるのが分かるくらいだ。 その女性は真っ黒だった。髪と服と靴、爪や睫毛。肌は他の人のように白だけれど、「黒」と文字は浮かび上がっていない。ちゃんと黒く色づいている。 そして一番驚いたのが、彼女の瞳だった。色があるのだ。何色とは言えない。紫のようなピンクのような青のような黄緑のような…。 「…湯本マシロ、さんか?」 色が見えることに混乱しているままなのに、訊かれて更に戸惑った。 「え、名前、なんで知ってるんですか…?誰」 「私は神代クロナだ。…覚えてないか」 聞き覚えのある名前だった。ただ誰かは思い出せない。 「…聞いたことはあります」 「そうか…。私は級友だよ。盲目の奴が同学年にいただろう」 「…………あぁ!」 いた。目が見えない子。小学校と中学校も少しの間一緒だった。 「え、神代さんなの…?……見えるの?」 「あぁ。…事情があって、もう見える」 「そうなんだ。良かったねぇ」 ニコ、と笑うと神代さんは泣きそうな顔で笑った。 「…また会ってくれないか。お茶でもしよう」 「え。う、うん、いいよ。あ、LINE交換する?」 「ぜひ」 少し驚いたが神代さんとLINEを交換して、「じゃあまた」と言って別れた。 神代クロナ…さん。小学校高学年のときクラスが一緒だった。目が見えないから友達がいなかった。支援学級だったし、クラスにいることは少なかったけれど、可愛い子であった。黒髪をおさげにしていて、六年生のときから盲導犬と一緒にいた。 昔はクロナちゃんと呼んでいた。少し仲が良かったから。昔はああいう話し方ではなかった。まぁ成長すれば色々変わるわな、などと思っていたら家に着いた。 □ それから数日すると連絡が来て、カフェで落ち合ってお茶をすることになった。 「へぇ。神代さん、作家なんだ」 「うん。推理小説を書いているんだ」 神代さんは今日も真っ黒で、瞳は言い表せない色だがちゃんと色づいていた。本当に不思議である。全身真っ黒コーデなのか、それともちゃんと色があるのに真っ黒に見えているのか。どちらにせよ「黒」と浮かび上がらずちゃんと黒く見える理由は分からない。 「……なぁ、昔みたいにクロナって呼んでくれないか」 「え、お、おう。いいよ!じゃマシロって呼んで」 「…マシロ」 「はい!」 「……懐かしいな」 フ、とクロナが笑った。綺麗な人だな、と思った。無造作に流されている長い黒髪も力強い睫毛も艶があって、手脚は長くスラッとしている。鼻筋が通っていて、唇もきっと綺麗なのだろう。 「なにか?」 「ん〜…?いや、雰囲気変わったなと思って」 「まぁ十何年も経てばな」 「そっか」 顔が綺麗だと思った、とは言わなかった。 ゆっくり時間が流れて、紅茶がだんだん冷めていく。チーズケーキを食べたのに、ティラミスも頼んでしまった。クロナはずっとコーヒーを飲んでいた。 クロナの話は面白かった。作家をやっているだけあって知識が豊富で、結構旅行もしていて、知らないことをたくさん話してくれた。 そうやって何気ない話をして、あっという間に仲良くなった。クロナのような人は周りには居らず、全く新鮮だった。 それからクロナとは何度も会った。次第にお互いの家にも行くようになって、どんどん仲良くなっていた。自転車を2人乗りしたり、遊園地でジェットコースターに乗ったり(クロナは無表情であった)、鎌倉へ泊まりがけで行ったりもした。そんなある日のことである。 「…マシロ。私は君が好きだ」 クロナが真剣な顔で言った。恥ずかしがる様子もない。likeとloveを間違えるほど私も鈍くない。伏し目がちで、艶のある彼女は梅雨の雨のようだった。じ、と見つめられて応えを待っているのだと気付く。ギュウと胸の辺りを掴んでゆっくり考えた。かつてないくらい鼓動が早かった。 「…わ、私、女の子と付き合ったことないけど」 「うん」 「クロナのことそういう感じで見たことないし」 「うん」 「でも、クロナのこと、好きだよ」 「うん。…私と付き合ってくれるか」 「…………うん」 頷くと、クロナが私を優しく抱きしめた。クロナの長い髪が砂でも零すみたいにサラサラと私にかかる。幸せだ、と感じた。 ■ 付き合い出してしばらく経った。私は職場が近いということもあってクロナの家に入り浸っていた。半分同棲みたいなもので、そろそろダブルベッドかもう1つシングルベッドを買おうかと話しているくらいだ。 「マシロ…マシロ。風邪引くぞ。ベッド使え」 残業に加え9連勤につき床に寝転がっていた私をクロナが起こした。彼女も相当ひどいクマを作っていて、ひっつめた髪や冷えピタを貼っている姿はなかなか新鮮であった。最近はコーヒーとエナジードリンクしか摂取していないようで、随分痩せた。寝不足だからか手が常時震えていて、病院に行かせようかしらと毎日思っている。 「寝ろ、ほら」 「うん…ちょっと……」 ボーッとしたままベランダに出る。2月も末だが、やっぱりまだまだ寒い。真っ白で、色を表す文字が浮かんでいる馬鹿げた風景が広がっていた。 煙草を1本取り出して、咥えて、火をつける。ハァー…と息を吐くとやっぱり白かった。 「……煙草、吸うのか」 クロナがパーカーを羽織りながらベランダに出てくる。意外そうに私を見ていた。 「あぁ、うん……疲れるとね。嫌い?」 「いいや。お揃いだな」 そう言ってクロナも煙草に火をつけた。真っ黒な彼女の周りを白い空気が漂う。クロナは鼻が高くて横顔が綺麗だから、とても様になっていた。 「…疲れたね。クロナ、今なに書いてるの?」 「推理小説」 「あ、うん。なんかあった?」 「私はムシャクシャすると煙草を吸う」 「へぇ」 それからしばらくの間、2人とも黙って煙草を吸っていた。私は時折クロナを見て、椿が落ちるってこういう感じかしら、なんてぼやっと考えていた。それから、ただ本当になんとなく、世界が真っ白で色が文字で見えることを話しても良いかな、と思った。彼女なら面白い話だね、と笑う程度で流してくれそうだ。 白と文字で溢れたこの世界はなんとも寂しいのだ。どうせ誰も信じなかったろうから黙っていたけれど、話せるものなら話してしまいたかった。 「……あのさ」 「ん?」 「信じられなかったらそれでいいから、話していい?」 「あ?うん、なんだ」 ふう、と息を吐いてからクロナが私の方を見た。何色とは言えない美しい瞳が、この世の何よりも価値があるように思えた。 ポツリポツリと雨の降り始めみたいに話した。クロナは思ったよりも真剣に話を聞いてくれて、覚えている限りを全部話すとクロナはキュ、と私を抱きしめた。 「……クロナ?」 「…いや。不快に感じたらすまない」 「?」 「さぞつまらなかっただろうなと」 温度のない声だった。私の頭を撫でながら、ただそう言ったきり黙った。 「そうだね、つまらなかった。花も海も空も全部同じだから情緒なんてなかった。字ではわかるけどやっぱり見ないとね」 「…私は他とは違うのだろう?私はつまらないか?」 そう訊かれて少しビックリした。クロナがそんなことを気にするとは知らなかったから。 「ううん、全く。あ、クロナは確かに真っ黒で他とは違うけどね、別にそれだから付き合ってるとかじゃなくて。ちゃんとクロナのことが好きで」 「いや、うん。わかってるよ」 慌てて言うとクロナはふふ、と笑って私から離れた。その瞬間なぜだか分からないがクロナが神様みたいに見えて、この世の全てを知っているように見えて、じっと彼女を見つめた。彼女はニコ、と笑って「どうした?」と訊いた。 「……綺麗。クロナの瞳だけ色があって、なによりも綺麗」 思わず手を伸ばしてクロナの頬に触れて、顔を自分に近づけた。クマは酷いけれど、本当に美人だ。 「それは良かった。…その、なんだ。単純にマシロの特別なのは嬉しいな」 クロナが本当に嬉しそうに笑った。なかなか言われない言葉に心臓が跳ねる。 「冷えるね、中に入ろう」と彼女が言うのでベランダから撤退した。 「もう寝よう。私も寝る」 「うん…連れてって……」 「はいはい」 クロナに引っ張ってもらって寝室に行き、シングルベッドに2人で寝る。狭いからギュッとクロナに寄って、彼女の服を掴んだ。 やっぱりクロナは特別である。運命という言葉は安っぽいからあまり使いたくなかったが、それ以外に考えられなかった。クロナが特別な見え方の人でよかった。そうでなければ手から零してしまっていたかもしれない。 クロナと一緒になれたのは偶然にして必然だったのだ、と思いながら彼女の腕の中で眠った。
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