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 四月。校舎の窓から桜の木に寄る小鳥を見てから、瑞輝は霞がかったような春の空に目を移す。耳には「春はあけぼの」という清少納言の枕草子が聞こえている。まぶたが自然に重くなる。古文はもういいってば。金剛寺でも家でも、目にする書物のほとんどは古文だ。 「入間」国語の教師が机をトントンと叩く。瑞輝はカクッと首を落としてから、慌てて体を起こした。クスクスと笑い声が聞こえる。瑞輝はその声の方をチラリと見て「こら」と担任の国語教師に耳をつかまれる。 「スミマセン」瑞輝は少し腰を上げて言った。 「退屈か?」 「いいえ」 「嘘をつくな。退屈なら特別に宿題をやろう。教科書に載ってる枕草子、全文十回ノートに書いて来い。みんなが勉強してる間、いびきをかいて邪魔するな」  瑞輝は黙って教科書に目を落とした。十回か。金剛寺じゃ写経を死ぬほどやらされてるからな。 「わかったら、やれ」  耳をやっと放してもらい、瑞輝は椅子に座った。そして言われたようにノートを開き、教科書を写し始める。  一つ向こうの机から、高木ユアは瑞輝を見て息をつく。バーカ。中学生になっても全然変わんない。しかも二年生なのに、相変わらずの大バカ。成績が良くないのも変わらないし、友達が少ないのも変わらない。福田俊哉と仲違いしているのも変わらない。  大きく変わったことは、瑞輝がチビじゃなくなったことと、自ら威圧感を強め、ちょっと悪い先輩たちにも一目置かれていること。小学生の頃と違って、俊哉はもう瑞輝をいじめたりしない。ただ、徹底的に無視している。成績のいい俊哉は、高校に入れば瑞輝とは二度と会わないと言っていた。瑞輝は二年生に入ってすぐに行われた進路希望調査で「就職」と書いていた。「神職」じゃないのかと先生に聞かれて「就職」だと憤っていた。  ユアは教科書に目を戻した。もう一つ変わったこと。  それは、瑞輝が静かに女の子に人気がじわっと出ていることだ。どうしてそういうことになったかというと、瑞輝が二年生に上がってすぐ、剣道部の副主将と決闘したからだ。決闘の理由はつまらないことで、瑞輝が居合と剣道は違うとか、剣術と剣道は違うとか偉そうに言ったとか何とか。ユアはそれもありそうだと思う。瑞輝は昔から愛想とか相手に対する配慮とかを知らず、自分が言いたいことを言う。間違っていたら潔く訂正するのだが、たいていは自分が正しいと思ったことを曲げずに言う。だからよくイザコザが起きる。その副主将との決闘で、防具をつけなかった瑞輝が勝っちゃったのだ。剣道部の威厳台無しで、瑞輝は自分がそういうことをしたとは夢にも思っておらず、竹刀を置いて勝ち逃げした。それが翌日になると、なんだか「格好いい」話になって噂になっていたのである。  でも幸いというか何というか、瑞輝は一般ピープルには近寄りがたい存在だった。生まれつき茶色い髪や、琥珀色の瞳が異様な雰囲気を醸し出していて、同じ小学校から上がった生徒さえ、小学校のときとは雰囲気が違うと言って話しかけない子もいる。ましてや中学生になってから瑞輝を知った生徒は怖がって近寄らない。瑞輝には龍だかヘビだか何か悪いものが憑いていて、彼に近寄ると呪い殺されるという噂もまかり通っているから。そして瑞輝本人がその噂を利用して、自分に鎧をかぶせているから。  バカみたい。ユアは思う。  瑞輝が本当はそんなことしたくないのはわかっている。親友の俊哉と仲違いしてから、瑞輝は友達作りに消極的になった。それは怖いとかそういうものではなく、おそらくは俊哉との関係を築き直そうと必死なんだと思う。他の友達なんて意味がないのかもしれない。  身長もユアをちょっとだけ抜いた。身長を瑞輝に抜かれたとき、ユアは瑞輝に負けた気がした。今まで何でも自分が勝っていたのに、初めて負けた気がした。それが悔しくて瑞輝に理不尽なけんかを売ったぐらいだ。瑞輝は昔と同じようにヘラッと笑って、ユアの理不尽さを一切責めなかった。  あいつは優しいの。ユアは瑞輝が剣道部の副主将に勝って逃げた後のことを思い出す。瑞輝は副主将のこめかみを竹刀で切りつけようとして寸止めし「やべぇ」と言って竹刀を放り投げて逃げた。副主将は放心状態だったらしいが、ユアは武道場から飛び出して来た瑞輝とばったり会ってぶつかった。バスケ部の友達とちょっとうまくいってなかったときだったので、クラブに出るのが憂鬱だったのが顔に出ていたらしい。瑞輝はユアの落とした鞄を拾うと、ぐいと突き出して言った。「大丈夫だ」と。  何が?と聞き返す前に、瑞輝は走っていってしまったが、その唐突な「大丈夫だ」にユアは救われた気がした。親にも言ってない悩みを、瑞輝がわかってくれている気がしたのだ。それから数日して友達とは仲直りすることができ、ユアは今も楽しくバスケットボールができている。  瑞輝が大きなあくびをするのが見えた。  ユアは下を向いて小さく笑った。
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