あの夜の星空を

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 今から、何年前になるだろうか。  私がまだ中学2年生の頃の話だ。  その頃の私は、家にも教室にも身の置き場が無くて、この世のどこにも自分の居場所がないように思えて、いつだって死にたくて仕方がなかった。  細かく言えば、「死にたい」というよりは、「もう生きていたくない」という感じだったけれど、とにかく生きているのだけでも苦しく感じられた。  いつだったか、手首を切った。死のうと思って。結論を言えば死ななかった。人間ってそんなにか弱くはないんだね。  でも、皮膚が破れた痛みや流れる血は、私の苦しみを少しだけ紛らわせてくれた。  脳ミソは「死んだっていい」って思ってるのに、私の体はちゃんと「痛い」――つまり、危険を知らせてくれて、「生きたい」と言っていて、その矛盾が、なんだか癖になった。  嫌なことがあれば手首を切った。かさぶたで楽譜みたいになった私の手首を見て、嫌なことを言ってくる奴がいて、それでまた手首を切った。  肘から先全部がズタズタになると、右腕を切ることにした。左手は利き手じゃないから、力加減を間違えそうで、スリルがあった。  嫌なことが無くても気付けばカミソリを当てていた。痛みだけが……まだ死んでいないという自覚だけが、私の生きる理由だった。  ある日、気まぐれに学校に行った。保健室で1時間くらい暇つぶししようと思って。  そしたら、知らない3年の先輩がソファーに陣取っていた。ジャージの上着を顔にかけて、寝てるっぽかった。  保健室の先生が言うには、「具合が悪いわけじゃないからベッドが使えない、やや寝不足の人」らしい。それなら学校休んで家で寝てればいいのに。  ぐっすり寝ているらしいのでとりあえず静かにダベって、飽きたからその日は帰った。帰り際に「明日もおいで」と言われて、そういえば今日は誰からも嫌な顔されなかったことに気付いた。「一応、私にも居場所はあるんだな」と思った。  翌日も、その翌日も、学校に行った。保健室に1、2時間だけ通う日が続いて、保健室の先生以外の先生とも話すようになった。  相変わらず3年の先輩は行くとほとんど必ずソファーで寝ていて、偶に起きたかと思えば、ボサボサ頭を更にボサボサにしながらトイレに行ったり、大きなあくびをしてから寝返りを打ったりしてまた寝た。  先生たちに話を聞くと、どうやらいつも学校に来ては、ほとんど保健室で寝てるらしい。学校をホテルか何かと勘違いしてるんだろうな。  だんだん学校にいる時間が延びて、半日は学校で過ごすようになった。そうなると起きてる先輩もよく見るようになった。ちゃんと声帯があったらしい先輩は、先生や私が振る話題に一言だけ返してくる。先輩はどちらかといえば隠キャで、不良じゃないらしい。  動きも遅くて、オタクみたいな話し方。怖いものではないと知った私は、時々先輩をからかったりイタズラしたりして遊んだ。先輩は怒るでもなく、無気力にされるがままって感じだったので、でっかいぬいぐるみみたいだった。  ある日。そう、その年初めて霜柱が立った日だった。暖房の効いた暖かな保健室で、何かの拍子にリスカの話になった。最初は保健室の先生とだけ話してたけど、いつのまにか先輩が目を開けていて、寝たまま話を聞いていた。  先生は「そういうのは良くないよ」って言ったけど、「これじゃないと生きてる感じしないから」って答えた。違法薬物やってるわけでも、援交してるわけでも、生き物殺してるわけでもないんだからいいじゃんって。  そうしたら、先輩が起き上がった。  そして、ジャージズボンのポケットからカッターを取り出して、自分の左腕を切りつけた。  先生も私も止める間もないくらいの早ワザ。  先輩そんなに早く動けるんだ。とか、何してんの?とか、床汚れるんだけど。とか、痛そう。とか、まだ浅い傷だな。とか思ってたら、先生が悲鳴混じりに「何してんの!!」と怒鳴った。  先生、私、怒鳴り声嫌いなんだけど。 「これは、深く切りすぎたかね」  ボソッと呟いて、傷口を手で押さえる先輩。赤い血が押さえる手の指の間や、腕の下側から床に落ちる。 「お前もこのぐらい切るのか」  先生の手当てを受けながら、先輩は私に訊ねる。私が頷くと「ふぅん」とだけ答えた。 「痛いばかりで、生きているとは思えないな」 「は?そんなこと言うために切ったの?バカじゃん?キモ」  そこから先は言えなかった。先生が先輩をものすごい勢いで叱り始めたからだ。  私の言いたいことの大体は先生が言ったし、まだ残ってるのは言っても仕方ないことだから黙っといた。先輩は叱られている最中も私を見ていた。長い前髪の間から見え隠れする目が、例えようもなく気持ち悪かった。  数日後、先輩のリスカ事件のほとぼりが冷めた時になって、帰り支度をする私に先輩が言った。先生は電話が来たとかで職員室に行っていた。 「今夜、12時。校門前に来い」 「は?」 「来なくてもいい。だが暇なら来い。12時5分までは待つ」 「何それ」 「どうせ夜出歩いても、誰にも止められないのだろう?」  デリカシーのない酷いことを言って、先輩はまた寝た。メチャクチャ腹が立ったけど、いざ夜になると暇すぎて家を出た。実際、誰にも止められなかった。  寒さが鼻の先や耳にしみる中、歩いて歩いて、30分かけて歩いて、校門前に12時5分に着いた。もういないかなと思ったら、先輩はちゃんといた。ダッフルコートを着込んで、鼻までマフラーに包まって。  ただ、それ以上待つつもりもなかったみたいで私に気付くとマフラーをモゴモゴ動かしながら「なんだ、来たのか」とか言いやがった。 「じゃあ、まあ、行くか」  そう言って歩き出した先輩は、背中を丸めて、コートのポケットに手を突っ込んで、私の横を通り過ぎる。その背中について歩いた。  さっき私が通り過ぎた、住宅地の方面に向かっていた。 「ねえ、どこ行くの?」 「…………」  先輩は頭の回転が鈍いのか、こうしてよく答えが止まる。答えたいみたいだけど、言葉がまとまらないらしい。テンポ悪いな。そういうところが隠キャなんだよ。  溜めに溜めて、ようやく絞り出された答えが。 「………空き地?」 「コッチが聞いてんだけど」  というか、こんな寒い真夜中に呼び出して行先がただの空き地ってマジでなんなの。  どうせ来た道戻ってるし、このまま帰ろうかな。そういうことを思っていると、先輩はふいっと大通りから外れて、宅地の奥に入っていく。  元々お年寄りの多い町だけど、その区画は特にお年寄りばかりの区画みたいで、ほとんどの家に明かりがなかった。閉まり切った雨戸。1軒2軒、ぽつぽつと明り採りのはめ殺し窓から明かりが漏れているだけで、他の明かりは街灯だけ。  すごく静かで、たまに大通りを通る車の音だけが建ち並ぶ民家の向こうから聞こえた。耳をすませば、遠くの方から犬の吠える声が聞こえたけど、気のせいと言われたら否定できないくらい微かな声だった。  もう少しだけ進むと、目指していたらしい空き地があった。1軒分の区画で、元々は家が建っていたんだろう。玄関ポーチの階段と、縁取りのコンクリだけ残して、背の低い青草がボーボーに生えてる空き地だった。隣は竹林になっていて、もう片方の隣は小道を挟んで向かいにあり、「売り家」のラミネートカードを門扉に下げている。ちょっと説明しづらいけど、坂道の途中の宅地だから、家の裏にあたるだろう場所はただの法面だ。  先輩は遠慮なくその空き地に入っていった。玄関の階段を登って、よく見れば少し残ってる基礎のコンクリに気をつけながら、ふわふわの枯れ草を踏みしだいて、空き地の奥へ。  私もついていくと、先輩はポケットから小さくたたんだ大きなゴミ袋を取り出して、草の上に敷いた。 「敷いた方がいい。草が纏わりつくから」  そう言ってもう1つのゴミ袋を私に投げてよこした。そうして、そのゴミ袋の上に寝転がった。  は?ここまで来て寝るの?バカじゃん?超寒いんだけど。 「何しに来たのこれ」 「暇なら星でも見ていればいい」  寝転がりはするけど、寝る気じゃないらしくて、仰向けになって空を見てた。  私もつられて空を見上げる。と。 「…………わ」  満天の星がそこにあった。そっか。この辺、明かりがないから星が見えやすいんだ。綺麗。  見とれていると、ついっと星が降った。 「あっ、流れ星!ねえ!見た!?」 「ふたご座流星群」  ポツリと答えが返ってくる。つまり、これは天体観測のお誘いだったわけだ。どうして急に流れ星を見ようという話になるのか全くもって分からないけど、とりあえず星が見えやすい場所を見つけた時に、そこに誘おうと思うくらいには私のことを気に入っているらしい。 「願い事しよ!ほら先輩も!」 「何故死にゆく星が縁もゆかりもない人間の願いを叶えてくれると思えるんだ」 「ロマン!」  1人じゃない夜を過ごすのは久しぶりで、それも、こんなに虚しくもならない夜はいったいいつぶりだろう。  それでも流れ星が落ちるたびに、きゃーきゃー言ってられたのも最初のうちで、やがて静かに眺めるようになった。 「そろそろだな」  呟いた先輩が立ち上がって、やおらマフラーとコートを脱ぎだした。何してんの?  暗闇の中、月明かりで更に黒いシルエットになった先輩は、男のようで。  あれ、そういえば先輩って、男だっけ女だっけ。寝転がっている時、胸はあったっけ。喉仏は?  ……ジャージで隠れてた。  気付いてパニックになった。  そりゃいつもの動きは男っぽかったけど、私とそんなに身長は変わらなくて、髪も男とも女ともつかないショートカットだから何となく隠キャオタク女の先輩だと思ってたけど、そういえば口調は男で、声はどっちともつかない感じで、あっ、どうしよう。私、男と2人きりで人気のないところにいる!  髪に隠れた目がこちらを見た。悲鳴のような声が出る。 「なに、」  ボスっとコートとマフラーが一緒に丸められた塊が投げられた。 「持ってて。寒かったら着てていいよ」  薄着になった先輩はまたゴミ袋の上に寝転がった。胸の上で手を組んで、たぶん目を瞑ってる。やっぱり無害だ。ちょっとホッとして、それから恐る恐る訊ねた。 「何、してんの?」 「…………」  よく見えないはずなのに、薄く目を開けたのが分かった。 「…………ここは  数年前に火事で人が死んでいる」 「…………は?」  一瞬で周りの温度が更に下がった気がした。先輩の投げてよこしたコートを握りしめても、温もりは残ってなかった。先輩は淡々と語ってる。 「出火原因はリビングのストーブだった。火を消し忘れたんだろうな。80代の婆さまの一人暮らしで、就寝中だった。その死体はここで見つかった」  ここ。つまり、先輩の寝ている場所だ。 「木造平屋建て。リビングは玄関入って左側。死体が見つかった寝室は玄関入って右側の和室。この和室には掃き出し窓があった。縁側に出るためだ。しかし、位置や検死結果からして、婆さまは布団の中だったらしい」 「確かに家が燃える速度は早かったそうだ。なにしろ通報を受けた消防車が来た頃には、ほぼ全焼していたそうだからな。けれど、就寝中とは言え、廊下を挟んで向かいの部屋が燃えていれば、気付いて庭に逃げるだけの時間はあったはずだ。婆さまは杖をついてはいたけれど、自分で立って歩けないほどじゃない。なのに逃げなかった。考えられるのは」 「一酸化炭素を吸うと、徐々に身動きが取れなくなる。意識はある。何が起きているか理解できる。だが一切動けないという状況が発生する。もし、そうだったとしたら」 「生きながら、己の体が焼けていくのを感じて死んだはずだ」  何の感情も乗せずに、教科書の音読でもするみたいに、先輩は喋り続けた。人が死んだ時の話を。その人が死んだ場所で。その人と同じ格好で。 「何言ってんの、何、何言ってんの」 「長袖の服と、ジャージ素材のズボンを履いていた。頭を床の間側に向けて、胸の上で手を組んでいた。頭の位置は床の間から足3つ分離れた場所。床の間は足1つ分だから、壁があっただろう基礎から足4つ分。つまりここだ」  先輩はいつのまにか目を瞑っていた。寒気がする。ガチガチ鳴る奥歯の音の間に先輩のボソボソした語りがきこえる。 「湿り気のない乾いた空気。風はそう強くもないが、弱くもなかった。寒暖差に耐えられなくなったリビングの窓が割れ、吹き込んだ風に燃え上がった炎は、天井を舐めるように進んだ。梁も柱も薪として、家財道具も思い出も己の体も一切合切全てを燃やして、屋根を突き破った火は家だけに飽き足らず、夜空を焦がす」  やめて。耳を塞いでも、静かな空気は先輩の囁きを私の鼓膜に届けた。 「火災が起きた時刻は」  やめて。それ以上、言わないで! 「8年前の今日、今この時刻だ」  背中が熱い気がして、動けなくなった。眠る先輩の顔を、真っ黒い人型の何かが覗き込んでいる。真っ暗の中、真っ黒いのに、その肌が炭みたいにガサガサしているのが分かった。エビみたいに腰を曲げて、先輩の顔に自分の顔を近づけて、鼻があればきっともう鼻と鼻が触れてただろう距離にまで近づけて、先輩、先輩、危ないと叫びたいのに声が出なくて、身動きができなくて、背中が燃えてて、火事だ、火事が起きてる。私も燃えちゃう。奥歯がガチガチいってるのに、こんなに寒いのに、こんなに熱くて。ぼうぼうめらめらぱちぱち。ほのおのおとがきこえる。わたしがやけるおとが。いえがくずれるおとがきこえる。わたしはくずれるてんじょうにつぶされて 「今。……死んだ」  声が聞こえて我に帰った。  黒い人はもういない。私は先輩のコートをしっかり抱きしめてブルブル震えていた。あんなに熱いと思ったのに、体は氷漬けにされたみたいに芯まで冷え切っていた。  先輩はゆっくりと起き上がった。自分の体を確かめるようにグーとパーを繰り返してる。深いため息を1つして、安心したみたいに呟いた。 「…………ああ、生きている」  前髪の切れ目から覗く目が妖しく光って見えた。  先輩に連れられて、大通りに出た。個人商店の店先にある自販機で温かい飲み物を買ってくれた。体があったまると、なんだか無性にムカムカしてきた。  さっきは何をしてたの、黒いのは何だったの、私が見たのは何なの、と詰め寄ると、先輩は目を丸くして、それからいつもとは違う言い方で、 「そんなん知るかよ」  そう一蹴した。年相応って感じがした。 「さっきの幽霊だったんでしょ!あそこ心霊スポットなんでしょ!マジムリ!ありえない!だまし討ちであんなとこ連れてくるとか何!?」 「あそこは心霊スポットじゃなくて、ただの人が死んだ場所だ」 「同じでしょ!」 「ちがう。あそこに幽霊はいない。と、思う」 「じゃあさっきのは何だったわけ!?」 「俺とお前が見た共同幻覚」 「じゃあ幽霊でいいじゃんよ!」  先輩は何か言おうとしたっぽくて、口を開けたけど、それはそのまま「くちゅんっ」とかいうやたらかわいいくしゃみに変わった。 「………謝るし、ちゃんと説明するから、コート返してくれ」  ようやく寒さに気付いたらしい。あったかかったから返したくなかったけど、風邪引かれたらやだし、返してあげた。  コートとマフラーを着込んで、自販機の隣のベンチに座る。私もその横に座った。 「……あれは、一度死んでいたんだよ」 「は?」 「想像して、死んでいた。死者の死に様を詳細に調べて、実際の場に行って、想像して、死者になりきって、死ぬんだ」 「は?」 「死んだとは思うけど、実際死んではいないだろう?だから、想像を止めれば生き返る。自分はまだ死んでいなくて、生きていると感じられる」 「は?」 「……少しは分かろうとしてくれないか」 「ゆってることはわかるよ」  夢の中で死んじゃって、飛び起きた時に「ああ、夢だったんだ、良かったぁ」っていうあの気持ちだ。あれも確かに「生きてる」って感じがする。 「でも何でそんなことするのか分かんないし、何で私を呼んだのかも分かんない」  私の手首を指差して答えた。 「お前のそれと同じ理由だよ。生きている実感がもてる」  それっていうのはリスカのことだろう。 「呼んだ理由は………何と言えばいいか……」  あったかいお茶のペットボトルを手の中でくるくる回して、しばらく考えてからようやく答えた。 「お前のやり方を知ったのに、俺のやり方を教えないのは不公平な気がしたので」  なんだそりゃ。妙なとこで公平さを出してくる。 「それと、別の方法を知れば、お前はそれを止めるか気になった」  ……何それ。 「やめないよ。ちゃんと痛くなきゃ、生きてる感じがしないじゃん」 「痛くなきゃ?」 「うん。痛いと感じると、生きてるってなるでしょ。嫌なことあっても、流れる血を見ると、落ち着くでしょ。不安になっても、傷跡を見たら、安心するでしょ」  先輩は、ぽかんとして目と口を開けていた。鳩が豆鉄砲ってこういう顔を言うんだろうな。 「……なんだ。お前のそれは、生き死にどうこうというよりは……」 「何?」 「………いや、何でもない。難儀だな」  会話が途切れた。先輩はまた鼻までマフラーに埋もれてるし、もう話すことないなら帰ろうかな。  ベンチから立とうとしたとき、先輩が突然訊いてきた。 「なあ。婆さまは生きたまま焼かれるほどの罪を背負っていたと思うか?」 「え?……ううん。運が悪かっただけだと思う」  だって、ストーブの消し忘れなんていったいこの日本中で、世界中で何件あるだろう。それが火事になって、しかも死んじゃうなんて、その内の何件かしかない。その結末を引き当てちゃうのは、自分のしてきた罪が返ってきただけじゃないでしょう。  私の答えに先輩は小さく頷いた。 「そうだな。何の罪もない人間も、理不尽な目に遭って命を落とす。不幸に理由なんて、ありやしないんだ」 「お前も運が悪いだけだ。きっと」  言われたことの意味を考えて、見上げた空にまた1つ流れ星が見えた。流星群がまだ活動していた。ポツリと先輩が呟く。 「星が一つ、流れ落ちるとき、魂が一つ、神さまのところへと引き上げられるのよ」  どこかで聞いたようなことを言って、お茶を一口飲んだ。 「ふたご座流星群は毎年この時期に来る。8年前もこの時期、この時間に極大を迎えていた。婆さまは神のところへ行けただろう」 「じゃあ、あの黒いのは何だったの」 「だから言ったろ。共同幻覚だって。時々、ああいう何だか分からないものが見えるんだ。視界の端に」  先輩はお茶を飲み干して、ベンチから立ち上がった。 「寒い中呼び出して悪かった。気を付けて」  そう言ってポケットに手を突っ込んで帰って行った。  次の日保健室で会った時、先輩はまたいつも通りにジャージで顔を覆って寝ていた。大人に言っても信じてもらえないだろうし、中学生2人で夜中遊んでたって言ったら怒られそうだから先生には内緒にした。先輩も同じ意見みたいで、何も言わなかった。  相変わらず私はそのあと何年かリスカを続けたけど、でもあの夜から頻度や重度は減ったと思う。  不幸に理由なんてなくて、私は運が悪かっただけ。そう思うと「切らなくてもいいか」と思える時があったからだ。  大人になって、自分で生きていけるようになって、病院に通ったりもしながら一人暮らしを始めたら、いつのまにかリスカ癖は抜けていた。  先輩とは、あの人が卒業してからそれっきりになったけど、ふたご座流星群のニュースを見るたびに思い出す。  あの奇妙な体験と、私をほんの少しだけ救った言葉を。
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