ある日、突然、マフラー

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俺はマフラーだ。 「いきなり何を言っているんだこいつ?」と思ったかもしれないけれど、そうなのだ。 ただし生まれついての生粋のマフラーというわけではない。 今はこんなマフラーな俺だが、ついさっきまで人間の高校生男子だった。 人間だった頃の最後の記憶は交通事故だ。 青信号で横断歩道を渡っていたら突然車が突っ込んできて、ドン、だ。 そのまま俺の体は宙を舞って地面に叩きつけられて……気がついたらマフラーだった。 まあ一見脈絡がないように聞こえるかもしれないけれど、これがそうでもない。 実は今は俺であるところのこのマフラーは、俺が身に着けていたものだからだ。 事故の直前に首に巻いていたマフラーが、ちょっとおさまりが悪い感じだったので巻き直そうと、歩きながら一旦首から外した。 もちろんそれで信号の確認を怠るほど俺は迂闊ではない。 横断歩道を渡るときにはちゃんと信号を確認した。 にもかかわらずちょうどそこでドンとやられたわけだ。 そしてそのためマフラーは俺の手を離れた。 つまり俺は多分死んで遺留品であるこのマフラーに霊魂だけが乗り移ったということなのだろう。 多分というのは実は俺、というか俺の宿ったマフラーはその時風で飛ばされて、どうにも自分の遺体を確認する余裕などはなかったからだ。 ただ、こうして霊魂が体から離れてマフラーに乗り移っている以上、肉体の方は死んだと考えるのが妥当だろう。 そんなわけで、俺はマフラーなのだ。 もうちょっと説明すると、事故後しばらく風に舞ってから公園の植え込みに引っかかり、真冬の冷たい風に吹かれてはためいているマフラーだ。 ここまでで鋭い人は気がついたかもしれないが、俺はマフラーのくせに周囲の状況がわかっている。 なんとも不思議な話だが、目なんてもちろんついていないマフラーのくせに周囲の様子は見えるし、耳なんてもちろんついていないマフラーのくせに周囲の音が聞こえる。 植え込みに引っかかっている感触もわかるし、風が吹き抜ける感触もわかる。 ただ自分で動くことはできないし、喋ることもできない。 なんだってそんなところだけマフラーらしいのかさっぱりわからないが、とにかくそうなのだ。 もしかしたら世のマフラーたちはすべてそうなのだろうか? だが聞いてみようにも喋ることができなければ声をかけることもできないだろうから、確認のしようがない。 それにしても冬の最中マフラー単体でいるとこんなに寒いとは思いもしなかった。 だがこれは考えてみれば当然だ。 マフラーは人体の体温を逃さないからこそ温かいのであって、自ら発熱しているわけではないのだから。 ただ寒いと言っても凍えて震えるということはない。 俺もそうだが誰しも冬場に凍えて震えているマフラーを見たことはないだろう。 だからなのか俺は「寒い」という感覚はあるくせにそれを不快だとは全く思っていない。 もし寒さを不快に感じていたならば、おそらくそれは正に地獄のようなことになっていただろう。 けれども、幸いなことに不快ではない。 この感覚を表すにはどう言えばいいのだろうか。 それは多分部屋の中から庭の温度計を見ているのに似ているのかもしれない。 たとえ温度計が氷点下を指していてはも、俺がそれを見ているのは暖房の効いた部屋の中、という感じだろうか。 そんな感じだから俺は寒さが分かるけれども感じないし、そればかりかおそらく凍死することもない。 いや、マフラーが凍死って。 あるいは凍死することができたなら、俺は天国なり地獄なりに行けたのかもしれないが、俺はそのどちらにも行けないまま、一夜を明かすことになった。 ちなみにもしかしたら予想できたかもしれないが、マフラーは眠らないようだ。 全く眠くならないのだ。 そればかりか目を閉じることもできない。 まあ目はついていないわけだが。 そうそう、俺の視界がどうなっているのかについてだが、これが奇妙な感覚で、今の俺は周囲の様子を余すことなく同時に見ることができるのだ。 つまり真上の星を見ながら道路を走りすぎる車を見てしかも同時に俺自身が引っかかっている植え込みの葉の数を数えることもできる。 目で物を見ていないからなのだろうか。便利といえば便利だが、何を見たところで誰かに伝えられるわけでも自分でどうにかできるわけでもないので無意味といえば無意味な能力だ。 そんなわけで、その夜は長く退屈なものになった。 さて、退屈な夜が何事もなく過ぎ去って翌朝。 学校の登校時間帯になった。 俺が事故にあったのは俺の高校から自宅への帰宅の最中だったので、事故地点はもちろんここも通学路上なのだ。 なので時間とともに多くの高校生がこの公園の植え込みの前を通り過ぎる。 ある者はスマホをいじりながら、ある者は友達と喋りながら、植え込みに引っかかった俺などは気にもとめずに通り過ぎていく。 中には同級生の姿も時々見られ、俺は何度も声をかけようとしたけれども、やはりそれは叶わなかった。 だがそうして通り過ぎる人々の中にただ一人立ち止まったやつがいた。 俺より頭一つ分背が低くて、学校指定の冬用のコートを着込んで、白いモコモコのマフラーを口元まで巻いて、ミトンの手袋をしたそいつは、同じクラスの女子の松乃だ。 ちなみに松乃は名字で下の名前はよく知らない。 同じクラスだけれども、俺は松乃とはほとんど話をしたことはない。 というか正直言って俺は松乃が苦手だった。 なぜなら理由は定かではないが、俺のそばを通りかかるとき松乃は決まってなにかきつい感じの視線を俺に向けてくるのだ。 不快というか怖いというか、とにかくその視線が俺にとって松乃を近づきがたい存在にしていた。 ちなみにクラスの女子たちにはもちろん、他の男子どもにもそんな視線はむけていないようなので、俺が気がつかないうちに松乃に何かとんでもない事をやらかしていたのは確定らしい。 まあそんな理由で俺は松乃にちょっとした苦手意識を持っていた。 教室内の移動でもなるべく松乃には近づかないように歩く道を選んでいたし、廊下ですれ違うときは思わず立ち止まり壁や窓に向いたりしていた。 いや、まあ今はそんなことはいいか……。 松乃は俺……というか俺であるところのマフラーをじっと見つめている。 「これ……藤崎くんの……」 松乃がつぶやく。 ちなみに藤崎というのは俺が人間だったときの名字だ。 まあ今も俺は本名藤崎辰吉のつもりなのだけれども、どうしたところでそれを主張することはできないから仕方ない。 松乃は俺を拾い上げると、表面にくっついた枯葉や砂埃を払い丁寧にたたんでカバンの中にしまった。 鞄の中は教科書やノートの紙の匂いや、ノートの書き込みの匂い、洗濯された体操着の洗剤の匂い、それに多分これは弁当箱の袋から微かにする……ケチャップソースのハンバーグの匂いなどがする。 松乃はカバンを閉じてしまったので、俺は隙間からわずかに漏れる光でほのかに照らされる薄闇に包まれてしまった。 松乃が歩き始めると俺はカバンに揺られながら考える。 そういえば松乃はマフラーである俺を見て、なんで俺のマフラーだと気がついたんだろう? 目印はあるにはある。 よくある市販品のマフラーなので、うっかり取り違えないようにアイロンプリントでイニシャルを入れてあるのだ。 だがそれを松乃が知っていたとはちょっと思えない……のだが、それを知らない限りあとはありふれた柄を見て、いつも俺が使っているのを思い出したということになる。 そんなことを覚えられるほど俺は松乃に見られていたということだろうか。 これはもうじっくり観察されて殺害計画を立てられていたとか、そういうことなのかもしれない。 そんなに恨まれるようなこと、したかなぁ? だが幸いというか今の俺はもはや死んでいて霊魂だけがこうしてマフラーの中に残留しているわけだから、これ以上松乃に殺されることはないだろう。 もちろん死にたくなんてなかったが、ここはクラスの女子を殺人犯にしてしまわずに済んだと考えることにしよう。 カバン越しにもれ聞こえる音がより騒がしくなってきた。 きっと松乃が校舎の中に入ったのだ。 周囲が朝の挨拶でざわめく中、やがてカバンは揺れを止める。 おそらく松乃が席について、カバンを机の脇のホルダーに引っ掛けたのだろう。 やがてチャイムが鳴ってざわめきが収まり、号令がかかる。 朝のホームルームが始まったようだ。 カバン越しに聞こえる先生の話の中に俺の名前が聞こえた。 先生はどうやらクラスの皆に俺の事故を伝えているようだが、カバン越しのくぐもった音では細かいところは何を言っているのかわからなかった。 程なく教室がざわつき始める。 クラスのみんなの反応もカバン越しではよくわからないが、声のトーンは一様に低めなので、どうやら皆悲しんではくれているようだ。 その時突然、すぐ近くで騒ぎが起こる。 外の様子は見えないのでわからないが、誰かが倒れたらしい。 この近さだと松乃の可能性が高い。 その騒ぎが収まってまたしばらくすると一時限目のチャイムが鳴って授業が始まった……はずなのだが、教科書の入っている松乃のカバンが開かれることはなかった。 そればかりか昼休みを告げるチャイムがなるまでは誰も手を触れることなく過ぎ、昼休み半ばというところでカバンを誰かが持ち運び始めた。 これはもしかして松乃が学校を出たってことだろうか? もしかして早退? やはり朝倒れたのは松乃だったのだろうか? だが松乃はそれからバスも利用しつつ随分歩き回ってどこかに立ち寄ったようだった。 独特の静かさと忙しさが同居したような不思議な雰囲気。 多分どこかの建物の中だと思う。 体調不良ならば早く帰宅すればいいのにそんなに大事な用なのだろうか。 松乃はしばらく誰かと話しているようだったが、やがてその場を離れてまた外に出た。 歩くリズムは今朝の登校の時と違って、どことなく元気がないように思える。 その様子から何か上手くいかなかったことがあったらしく、落胆している様子がうかがえる。 やがて松乃が歩く周囲が静かになってくる。 どうやら市街地の喧騒を離れて住宅地にでも入ったのだろう。 そして松乃がどこかの家に入ったのを感じる。 体調不良で早退したにしてはずいぶん歩き回ったものだが、おそらくようやく帰宅したのだろう。 疲れた足取りで階段を登っているのがわかる。 そうか、松乃って一戸建てに住んでいるんだな。 ちなみに俺は築30年の分譲マンション暮らし。まあ親の家だけどね。 階段を登りきって数歩歩いてドアを開け、そしてまた閉じ……あれ、もしかして松乃の部屋か?生まれて初めて女の子の部屋に入ったってことに!……なるのか、これ? それから松乃はカバンを置くとそれを開け、俺を……いや、俺のマフラーを取り出した。 俺をカバンから取り出した松乃の表情は暗く悲しげで今にも泣き出しそうだった。 学校を早退してまでどこかを歩き回って、お目当の何かが手に入らなかった、というところだろうか。 松乃はジッと俺……というかマフラーを見つめている。 やがてその見つめていた目をきつく閉じ、マフラーを抱きしめてつぶやいた。 「藤崎くん……」 その目尻からはとうとう大粒の涙が溢れ出始める。 ああ、松乃は殺そうと計画していた相手の不慮の死を悲しむことができる、優しいやつだったのか。 もういいんだよ。こんな優しいやつを殺人犯にしなかっただけで、俺の死も報われるというものだ。 まるで時間が止まってしまったかのような部屋の中に、しばらく松乃の嗚咽だけが聞こていた。 やがて松乃はのろのろと立ち上がり、俺を部屋の真ん中の低いテーブルの上に丁寧に畳んで置いて、そのままベッドに仰向けに倒れこんでしまう。 改めて松乃の部屋を見てみる。 松乃という人間がどんなやつなのか、俺は知りたくなったのだ。 この部屋は角部屋らしく、一方の壁の入り口と、その反対側のベランダに通じる大きな窓、そして部屋に入って右手に置かれたベッドの脇に出窓があった。 出窓にはぬいぐるみや細工の細かいオブジェ、友達に囲まれて写った写真の入った写真たてなどが並んでいる。 ベッドと反対側の壁は埋め込み式のクローゼットが半面を占めていた。残り半面の壁には本棚が置かれ、それをマンガや小説が埋めている。 その中には俺も読んだものがけっこうあった。 もしかして、生きているうちに話す機会があったなら、結構気が合ったかもしれない。 「しーちゃん、帰ってるの?」 部屋の外から誰かが声をかけてきた。 ドアの向こうから聞こえた声は、松乃を少し大人っぽくしたような声。 もしかして母親かな? 「うん」 松乃は短く返事する。 ドアが開くとそこには松乃の身長を少し伸ばして髪を短くしたような女の人が立っていた。 「早退したって聞いたけど、どうしたの?調子悪い?」 「大丈夫だよ、お母さん」 「そう、ならいいけど。……何か食べる?」 「……うん、食べる」 「じゃあすぐ来なさいね」 松乃母はそう言うと松乃の部屋を出て階段を降りていった。 松乃はベッドから立ち上がると着たままになっていたコートを脱いでモコモコした白いマフラーと一緒に本棚の脇のハンガーにかける。 それから……おもむろに制服を脱ぎ始めた。 おいおいおいおい!ここに同じクラスの男子がいるんだぞ!俺は慌てて目を閉じようとして……そうだ、閉じられないんだった! 結局俺は松乃が制服から部屋着に着替える一部始終を見てしまった。 不可抗力だから!見たくて見たわけではないから! だけど罪悪感が半端無い……。 当の松乃はそんな俺に気がつくはずもなく、部屋を出て下の階へ降りて行ってしまった。 まったく、人の気も知らずに。 そう。死んでしまった今となっては、俺の気を松乃が知ることはもはや永久にないだろう。 俺は一体松乃に何をしたのだろう。それを知ることも、謝ることも、もはや俺にはできない。その機会は永久に失われたのだ。 もしかしたら俺はこんな状態で、このままずっとマフラーなんだろうか? きっとそれは退屈だろう。ずっと一人、誰とも話しもできず、ただ松乃の人生を眺めるだけの日々。 いや、松乃だって死んだ奴のマフラーをいつまでも持っているとは思えない。 よくて押入れの奥にしまい込まれ、悪ければ捨てられてしまうだろう。 なぜ松乃に謝らなかったんだろう。 なぜ松乃とちゃんと話さなかったんだろう。 後悔ばかりが湧いて出てくる。しかもその後悔を晴らす機会もない。 もしかして、死ぬってこういうことなんだろうか? もっと上手く生きられなかったのか、松乃が去った部屋で俺は考え続けたが、結局答は見つからなかった。 夜。松乃は部屋の明かりを消すとベッドに入った。 窓から漏れる月明かりがうっすらと部屋を照らす。 松乃の眠るベッドのある一角はちょうど陰になっていてその姿を見ることはできなかったが、時々かすかに鼻をすする音が聞こえてくるところを見ると、ベッドの中でまだ泣いているらしい。 目を閉じることも、耳をふさぐことも、眠ってしまうことすらもできない俺は、松乃が泣き疲れて眠ってしまうまでそれを聞いていた。 冬の空にはまだ日は昇りきらないが、それでも目覚ましはきちんと仕事をして松乃に起床時刻を告げる。 ノロノロと起き上がった松乃の目にはまだ泣きはらした跡が残っていた。 眠そうな目をしてベッドの上で座り込んでしばらくぼーっとしていた松乃は、やがて立ち上がり制服に着替え始める。 俺にはのぞき趣味はないのだが、目をそらすことができない身の上では松乃の様子をなるべく意識しないようにするのが精一杯だ。 着替えを終えた松乃は俺を再びカバンに収めると、階下へと降りていった。 どうやら朝食の席に着いたらしいが俺はカバンの中で松乃の様子を仔細に知ることはできない。 ただ松乃母が仕切りに松乃の様子を気にしていることだけはなんとなく感じ取ることができた。 その日は真面目に授業を受けていたようだが、午後の授業の終わりのチャイムが鳴ると程なく松乃はカバンを持って席を立った。 授業が終わると同時に急いで学校を出た松乃は昨日立ち寄った思われる建物に再び向かった。 昨日と同じ静かながら人々が忙しく動き回っている雰囲気。 入るとすぐに誰かと話し始める。もしかして受付だろうか? しばらく話していると松乃が相手にお礼を言って歩き始めた。 上に登るこの感じはエレベーターだろう。 やがてどこかの階に着くと、さっきまでと比べて随分静かな場所に出た。 こんな雰囲気を俺も知っている気がするのだけれど、どうも思い出せない。 松乃が立ち止まるとドアをノックした。 「はい?」 中から聞こえた声は聞き覚えがある。 ドアが開くと松乃は自己紹介を始める。 「は、初めまして。私は辰吉さんのクラスメイトの松乃 志弦と言います。き、今日はお見舞いと……お、落し物を届けにまいり……き、来ました」 松乃、噛みまくってるぞ。 よほど緊張しているんだな。 ……ん?お見舞い? ということはここは病院か何かか? いやそれよりも、死人にお見舞いって、変じゃね? つまり俺って実は生きている? 「あらあら、ありがとうね。辰はまだ……寝ているけど、入って声をかけてやって」 もしかしてこの声、母ちゃんじゃないか? 正直うちの母ちゃんは一人息子がどうなったところで、こんなに憔悴するわけがない、と思っていた。 でも実際はそうでもなかったようだ。 気丈に振る舞っているが、その声は震えている。 母ちゃんのこんな声を俺は聞いたことがなかった。 病室に招き入れられた松乃はカバンを開いて俺……つまり俺のマフラーを取り出す。 ようやく周囲を見ることができるようになった俺は、いくつかの医療機器に繋がれてベッドに横たわっている俺自身の姿を見た。 「あの……これ、学校の近くで拾ったんですけど」 松乃が俺の母ちゃんにマフラーを手渡す。 「ああ、ありがとうね」 マフラーを受け取った母ちゃんはそれを持って俺の体の横たわるベッド脇に立った。 「ほら辰、お友達が来てくれたよ」 だが俺の体は目を閉じたままピクリとも動かない。 やはり霊魂がこのマフラーにあるからだろう。 「藤崎くん……」 松乃もベッド脇に立って俺を見ながらつぶやいた。 「ねぇ、志弦ちゃんだっけ?辰吉とはどんな関係なの?」 「えっ!?か、関係ですか!?」 母ちゃん何聞いてんだよ!? しかもこれ流れ的に松乃が俺の彼女だと思ってるやつじゃないのか? この暴挙、なんとかして止めないと! とは言うものの、喋ることも動くこともできない今の俺にはどうすることもできない。 どうしたらいいんだ? もちろんベッドで横たわっている体に戻れれば言うことはないのだけれども、一体どうすれば? 俺は必死に戻ろうとした。 そう言っても手足をばたつかせるとか歯を食いしばるとか、なにかそれっぽいことができるわけではない。 とにかく自分の体に戻らないと。 そうしないと……。 そうしないと……? そうだ、俺、松乃と話して謝らないといけないんだった。 「マツノ……」 俺は声を発していた。 つまり俺は自分の体に戻っていた。 俺が声を発したことで松乃と母ちゃんはしばらくの間ちょっとしたパニックになっていたがそれも一時的なものだった。 俺は残った麻酔で鈍った手術跡の痛みを感じながら二人と話をしている。 「全くこの子は……彼女が来たとたん目をさますなんてねぇ」 「母ちゃん!松乃はそういうんじゃないってば!」 ベッドの傍らで松乃は困ったような笑顔を浮かべている。 「松乃……俺、松乃に謝らないといけないんだよな」 「え……なんで?」 「だっていつも松乃は……俺のこと、睨んでるから」 「そんなことしてないよ!?」 「え、だって廊下ですれ違ったときとか……」 言われて松乃はしばらく考え、何かを思い出すと少し怒ったような顔で俺から目をそらして言った。 「あれは……そういうのじゃないもん……」 後日、松乃がどう思っていたのか知ることになるけれど、それはまあ別のお話ってことで。
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