タイムスリップは突然に

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タイムスリップは突然に

 あっ、と思った瞬間、身体が宙を舞い、ぐらりと視界が揺らいだ。袖が汚れることも忘れ、慌てて出した両手は、しかし幸いなことに地面に着くことはなかった。 「危ないではないか。角を曲がる時くらい、周りに目を向けるべきだ」  不機嫌な声が、頭上から降ってくる。転ぶはずだった私の身体は、しっかりと二本の腕で抱えられていた。どうやら、声の主が支えてくれたようだ。助けてくれたことは感謝するけれど、そんな言い方をしなくてもいいじゃない。第一、慣れない振袖を着て急いだから躓いただけで、曲がり道なんかじゃなかった。そう言い返そうとして顔を上げると、あり得ないものが目に飛び込んできた。 「ちょ、ちょんまげ……」  助けてくれたのは、多分、同じ歳くらいの男子。でもその姿は、とても同世代には見えないものだった。思わず声に出してしまったちょんまげに、ご丁寧に月代まで剃られている。羽織袴だし、よく見れば腰には刀らしきものを提げている。驚いて二の句が継げない私に、目の前のちょんまげは、さらに声を不機嫌にして言った。 「無礼な。これは、歴とした銀杏(いちょう)髷(まげ)だ。そなたこそ何だ、その異人の様な結い方は」 「異人って……」  咽元まで出掛かった反論が引っ込んだのは、遠慮したからじゃない。ただ、周囲の景色に違和感を覚えたのだ。 「……ここ、どこなのよ」  見えるのはひたすら木と土でできた塀ばかりで、ところどころに門がある。よくみれば、足下はタイルじゃなくて、土。何車線もある広いアスファルトの道路もなければ、色とりどりの看板やガラス張りのショーウィンドウもない。聳えるように林立するビルもないから、やたらと空が広い。 「この辺りは武平町だ。そなた、町方の娘か」  武平町といえば、名古屋は栄にある、オレンジ色の外資系銀行が入っているビルの住所のはずだ。ちょうど、芸術文化センターの斜向かい。仕事でよく見る住所だから覚えている。その脇を通って錦通に交わる細い道にも、同じ名前がついていた気がする。そこまで考えて、ようやく一つの可能性に思い当たった。だけど、いくら何でも、そんな馬鹿な……余りに非現実的だと思いながらも、念のために自分の頬をつねってみたら、痛かった。そこで、一応相手に尋ねてみることにした。 「今日って、何年の何月何日なの」 「慶應四年の正月一五日だが、それがどうしたのだ」  慌てて携帯電話を取り出してみると、一八六八年二月八日と表示されている。慶応というのは、確か明治の前の年号。二〇〇〇年問題で、一九〇〇年は明治三三年だと言っていた覚えがあるから……一八六八年は明治元年ということになる。一月なら前の元号でも不思議はないし、確か暦が違うはずだから、日付のずれがそのせいだとすれば、携帯電話の表示と彼の情報は、ほぼ一致することになる。 「じゃあここは、一四一年前の名古屋……」 「一四一年前とは……そなた、何者だ」  思わず呟いた言葉が、しっかりと相手の耳にも入ってしまった。この時私は、友人の披露宴帰りという、ある意味絶妙なタイミングだったことに感謝した。髪型には突っ込まれたものの染めたりはしていない。だから、振袖のお陰で私の不審者度は多少なりとも半減しているはずだ。少なくとも、ミニスカートにブーツなんて、救いようがない格好ではないのだ。  ちょんまげ、もといその青年は、馬場市右衛門と名乗った。よく見れば、鼻筋の通った整った顔立ちをしている。総髪なら、二〇〇九年(げんだい)でもイケメンで通ると思う。もっと若ければ、小姓なんか似合いそうだ。思わず声に出してしまったら、小姓ではなく寄合二百石、と言われた。けれど、よくわからない。 「私は美菜。父は、商いをしているわ」  苗字は加納だが、それを名乗ると話がややこしくなる気がする。ここが本当に幕末の名古屋だとすれば、苗字を名乗れる人間は、限られているはずだ。ちなみに、父は営業職のサラリーマンだけど、どう説明していいのかわからないから、無難そうなことを言っておいた。  すぐ近くだからと、彼の家に案内された。近くというわりに、かなり歩かされて着いた家は、両側にいくつもの小部屋が付いた大きな門を構えた、お屋敷だった。 「大きな家ね。結構、いいお家なんだ」 「拝領屋敷だ。この辺りはどこも、同じようなものだ。それより美菜殿、一四〇年余り先とやらではどうか知らんが、その形(なり)を何とかしろ。目立って仕方なかろう」  家の中に通された私は、女中さんによってあっという間に、振袖から小紋に着替えさせられた。いつの間に呼んだのか女の髪結いさんが来て、折角朝早くにヘアサロンでセットしてもらった髪を解かれ、島田髷を結われた。何だか甘い匂いがすると思ったら、鬢付け油らしい。とりあえず、ロングヘアでよかったと思うことにする。その後、白粉(おしろい)だの鉄漿(おはぐろ)だのと化粧されそうになったが、それだけは断固拒否した。この頃の白粉は鉛入りだと聞いたことがある。そんなものを顔に塗るなんて、とんでもない。もちろん歯を黒くするのも問題外だ。 「それで美菜殿、そなたが一四〇年余り先から来たというのは、誠なのか」  奥座敷に通されると、市右衛門に改めて尋ねられた。確かに、未来から人が来るなんて、信じられなくて当たり前。私だって多分、平成の時代に一四〇年先から来ました、なんて人間が現れたところで、全く信用しないだろう。 「多分、夢でなければね。私だって驚いてるんだから」  そう言いながら、もう一度自分の頬をつねってみる。痛い、やっぱり夢じゃない。 「美菜殿は、面白いな」  痛がる私を見て、ずっと仏頂面だった市右衛門が、表情を崩した。笑顔が、意外に可愛い。そう思ったら、何故だか心臓の鼓動が速くなった。 「な、何よ」  心の動揺を悟られたくなくて、私は少しだけ、ムキになった。市右衛門が笑い続けていると、襖の向こうから女中さんの声がした。
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