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帰還
このままじゃ、ダメだと思った。
ずっと、ナツヒトに追いかけられることになる。
でも僕は、ナツヒトが怖い。
あんなに優しかったのに、他の人間に触られただけで、どうして急に、酷い事をしたんだろう。どうして、なんて考えてる時点で、僕はまだ、ナツヒトが好きなんだろうか。けれども、もうナツヒトは、僕に酷い事しかしないだろう。
ナツヒトはさっき、僕を守ろうとしてくれたみんなに対して「たかが猫のくせに」と言った。それが彼の本音で、僕のことだって、ただ、言いなりになれば何でもよかったんだろう。クロだって「モノのようにしか扱わない」と言っていた。
今、ナツヒトが僕を追いかけてくるのは、愛情なんかじゃなくて、執着だ。
だから僕は、ちゃんと自分の力で、自分の身を守らなきゃいけない。
自分を守って、ナツヒトのことを断ち切らなきゃいけないんだ。
そう思ったら、逃げる足が止まった。僕はその場で、来た方向を振り返ると、ナツヒトが来るのを待った。
――どうしたんだ、早く逃げないと追いつかれるぞ。
「ナツヒトと、戦うよ」
――無茶言うなよ、また捕まったらどうするんだ。俺達は、もう助けてやることができないぞ。
「分かってるよ。でも、このまま逃げ続けても、多分また追われることになると思う。そしたら、ゲンさんとミヨさんにも迷惑を掛ける」
――あの二人なら、大丈夫だ。あのゲンさんが、ナツヒトなんかに負けるわけはない。ああ見えてゲンさんは強いし、頼れるんだ。だから早く……
「ありがとう、でもやっぱり、これは僕がやらなきゃいけないと思う」
ナツヒトの姿が見えた。
「ああ、マリー。やっと分かってくれたんだね。もう離さないよ」
そう言って、二本の腕が伸びてきた。僕はナツヒトを睨み付け、唸って威嚇する。それでもナツヒトは懲りずに腕を伸ばす。だからそれを、思いっきり引っ掻いた。ナツヒトの手も、顔も、とにかく手当たり次第、引っ掻いて引っ掻いて……
「うわぁっ、な、何するんだ」
ナツヒトが怯む。その隙に僕は、指に思いっきり噛み付いた。
「いてっ。痛いじゃないか、マリー」
ナツヒトが指を庇って座り込んだ。
ふいに、周りが騒がしくなる。一台の車が止まって、三人の人間が現れた。
「見つけたぞ」
「葛野捺人(かどのなつひと)だな。大人しくしろ」
同じような服を着た二人が、ナツヒトを取り押さえる。
「君、無事だったかい。遅くなってごめんね。もう、大丈夫だから」
もう一人は、センセイだった。
「ご協力、感謝します」
同じ様な服を着た二人のうち若い方が、手をおでこに当ててセンセイに礼を述べる。
「坂部(さかべ)先生、ありがとうございました。咄嗟の判断で、スマートフォンに録音されるとは、流石です。坂部元署長も、ご立派なご子息をお持ちで鼻が高いでしょう」
もう一人は中年くらいで、穏やかな微笑を浮かべてセンセイに感謝した。けれどセンセイは、少し困惑した表情を見せた。
「いえ。父には、内密にして頂けると助かります……ご存知と思いますが、父は無類の猫好きで、退職後は、農作業の傍ら、何匹もの野良猫を世話してきました。俺が、この猫を保護して治療したことを知ったら、どうしてウチに連れて来ないんだって怒るでしょう。もちろん俺は、傷がよくなったら実家に連れて行くつもりではいたのですが……それならそれで、どうして早く知らせなかったんだと、どちらにしても怒るでしょうから」
そう言ってセンセイは、苦笑いした。
どこまでも広がる畑と、まばらに建つ家。
僕は、ゲンさんとミヨさんのいる場所に戻ってきた。
寝泊まりしていた納屋は、扉が少し開けてあって、その前にご飯がとミルクが置いてある。僕は嬉しくなって、それを全部平らげた。
ほんの少し、離れていただけなのに、二人の匂いが懐かしい。
僕は初めて、二人が住む「家」に近付いた。玄関が、少しだけ開いていて、中からゲンさんとミヨさんの声が聞こえる。
その家の表札には「坂部」と書かれているのだが、それは、僕にわかることじゃなかった。
シーエムが終わると、それまで婦人会での出来事を愚痴っていた妻が、ぴたりと口を閉じた。二時間サスペンスのクライマックス、いわゆる崖のシーンが映し出される。
四十二年間、警察に勤めた身としては、ドラマ全体に対していろいろと言いたいことはあるが、敢えて黙っている。
ふと、玄関の方から、何かの気配がした。
ドラマはちょうど、犯人の告白。こんなにペラペラと饒舌に、動機やら事情やら手口やらを語ってくれるなら、警察は苦労しない。だがそれを言ったところで、妻の機嫌を損ねるだけだ。だからそれは胸の内に収めて、そっと部屋の扉を開ける。
極力静かに開けたつもりだが、築六十年の前には、無駄な努力だった。キィーと、引き戸が擦れる音がする。
「もう、いいところなんだから静かにしてって、いつも言ってるじゃない」
案の定、妻の美代子は、顔をテレビに向けたまま不機嫌な声を出した。
扉は少し開いたが、自分が通るには狭い。隙間から玄関の方を覗いたが、暗くてはっきりとは見えない。暗い、ということは防犯用のライトが点いていないから、来客などではなさそうだ。インターフォンが鳴る気配もない。気のせいだったかと、開けた扉をそのままにして、テレビに視線を戻した。
僕は、そっと中に入ると、二人の匂いを辿った。二人は、布団の被った背の低い机に足を入れて座って、小さな箱を見ていた。箱の中には、何人もの人間がいる。
僕は、二人に向かって声を出した。
「ただいま」
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