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出奔
その瞬間、あまりの痛さに体を硬直させた。少しくらいの痛みなら慣れているはずだけれど、それよりもっと、ずっとずっと痛い。言葉にできないくらいの衝撃だった。振り返ると、いつも遊んでくれるナツヒトが、光るものを持って、薄気味の悪い笑いを浮かべている。
本能が「逃げろ」と叫ぶ。
何だか体の均衡が取れなくて、上手に走ることができない。それでも僕は、ここから逃げなければと、懸命に足を動かした。
気が付くと、小さな檻に入れられていた。檻の外は、全体が白に覆われた部屋で、妙な臭いに満ちている。檻の内側に二つの器があって、食べ物と水が入っている。
周りには、僕と同じように檻に入れられた奴らがたくさんいる。隣が、威嚇してきた。
対抗しようと足に力を入れ、床を蹴ったら二つの器が転がった。中身が零れ、水が食べ物にかかった。
白い服と白くて小さな帽子を被った人が近付いてきて、檻の扉を開けたから、隙を突いて外に飛び出した。
追いかける手をすり抜け、あちらこちらと迷いながら、妙な臭いの薄い方、薄い方へと向かい、何とか外に出ることができた。
それから走って、走って、走って……
どれくらい経っただろう。もう走れない、と思って周りを見渡すと、見たことのない景色が広がっている。遠くまで広がる畑の中に、人家がまばらに、ぽつんぽつんと点在している。道は、土が剥き出しになっていて、足の裏があまり痛くない。それに、お腹が減って疲れているけれど、痛かったはずの尻尾が、痛くないことに気付いた。
しばらく歩いてみると、小さな建物があった。扉が少し開いている。周りに、人の気配がないことを確認して、そっと入り込んだ。
ガタリ
扉の開く音に目を覚ます。
夕日を浴びる黒い影が、扉の前を塞いでいる。慌てて、外に飛び出した。
「うわっ、何だ……猫か」
低く、野太い声が驚きの声を上げる。振り返ると、黒い影は、頭を手拭いで覆った人間だった。長めの靴を履いていて、それが泥で汚れている。
ネコ、人間達は僕を見ると、大抵そう言うのだ。そして僕と同じような奴らのことも、ネコと呼ぶ。だから「ネコ」というのは、僕らが、人間を人間と言うのと同じことなのだと思う。
「ちび、ちび。ほれ、こっち来い」
その人間は腰を落として、軍手を外した右手を前に出して、指を動かした。その指の動きが面白くて、触ってみたいと思った。
けれども、人間の左手が動いて、持っていたものの先端が夕日に反射して光った。その光景に、僕は尻尾の痛みを思い出した。また痛いことをされたら嫌だと思って、その場から駆け出した。
もっと、遠くまで行こうと思った。けれど、空腹と思い出してしまった痛みで、これ以上は、長く走ることができない。だから、人間には通れなさそうな道を選んで、草むらの奥に隠れることにした。
じっと息を潜めていると、どこからか、いい匂いが漂ってきた。
鼻をひくつかせ、匂いの元を辿ると、さっきの建物だった。扉の前に、美味しそうなツナをまぶしたご飯と、少し温めたミルクがあった。変な臭いは紛れていないし、周りに人間の気配はなかったから、久し振りのご飯にありつくことにした。
夢中になって食べていると、背後で草を踏む音が聞こえた。
慌ててその場から離れ、建物の裏手を通って、草むらに隠れる。様子を窺うと、さっきの人間の他にもう一人、小柄な人間がいた。野太い声と甲高い声が、交互に聞こえる。
「お、結構食べてるな」
「でも、逃げちゃったわね」
「野良だから仕方ないさ。もう少し、後で来てやればよかったな」
「そうね、驚かせちゃって悪かったわ。せっかく食べてくれてたのに」
「このまま置いておけば、また来るだろうよ」
「そうだといいけど……懐いてくれるといいわね、あの猫(こ)」
それから毎日、朝と夕方には、必ずご飯が置いてあった。
人間達は、一日のうちに二、三回その建物に近付くだけで、ずっとそこにいるわけではなかった。大抵は、朝にいろいろ……長い棒の先が光るものとか、それの先が細く分かれているものとか、そういう道具を建物から出して、夕方になると戻しに来る。
たまに、昼過ぎとかでも、朝に持って行ったものを戻して、また違うものを持って行ったりする。でもそれ以外、ほとんど近付くことがない。
だから、雨や風の日は、その中で凌ぐことにした。あまり広くはないけれど、奥に入り込んで、休むこともできた。
建物の中は、扉に近い辺りに、人間達が出し入れする道具が置かれている。奥は、随分と古びたベビーカーや子供用の滑り台、車の玩具があった。ベビーカーの上は、休むのにちょうどいい。
でも、小柄な方の人間に、ベビーカーで休んでいるところを見られてしまった。怒られるかと思って慌てて隠れた。その人は、毛布を持ってきてベビーカーに敷くと、姿が見えない僕に向かって話し掛けた。
「ちびちゃん、ここで寝るといいわ」
毛布の上は暖かくて、今までよりずっと気持ちよかった。しかもベビーカーを、扉からすぐに見えないところに置いてくれたから、安心して眠ることができた。
その後も、二人の人間をよく見掛けた。人間達も僕に気付いている様子で、時々「ちび、ちび」なんて呼ぶけれど、無理に近付いたりしようとはしない。まだ信用できないけれど、少しの間、ここにいるのも悪くないと思っていた。
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