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 寝たら必ず起こされるのには慣れてきた。起きると窓の外は暗かった。 「ほれ、弟が呼んでるぞ」と伊藤が言って、瑞輝は服を投げつけられた。  学生服? 瑞輝は眉を寄せた。ジャージじゃダメなのかよ。 「ご自宅にお招きだ。倒れたそうだ。急げ」  伊藤がコートを着ながら言った。瑞輝はシャツを着て学生服を羽織った。 「向こうが動き出してるからな。急がないと」 「向こうって?」瑞輝は胸を押さえてから言った。動くとけっこう痛い。 「保守派。あるいは保守急進派」  そりゃ急がなくちゃ。  両隣に良く似た家が並ぶ住宅街の一戸建て。小さな庭があって、オリーブが植わっている。小さい鉄製の飾り門があったが、それは半開きになっていた。横のガレージに車はない。 「こんちはぁ」間の抜けた声で伊藤が玄関から声をかけると、暗い奥から女の泣き声がした。「瑞輝、おまえ、入れ。俺は幽霊は嫌いだ」伊藤は玄関で立ち止まる。  瑞輝は眉を寄せた。何を言ってんだ。幽霊なんかいるかよ。 「お邪魔します」瑞輝は靴を脱いで中に入った。階段が右手にあり、廊下を行くと左手にリビングダイニングがあって、奥にキッチンがあった。リビングダイニングの明かりはついていたが、人気はない。キッチン側から泣き声がする。 「こんばんは」瑞輝はカウンターキッチンの向こうを覗いた。  尚子が座り込んで泣いている。 「あの…呼ばれたらしいんですけど」瑞輝は遠慮がちに声をかけた。昨日刺された相手だ。泣いていても、キッチンには包丁もあるし、警戒するに越したことはない。  尚子は顔を上げて怖い顔を見せた。瑞輝は思わず一歩下がる。 「悠斗なら連れていかれたわよっ」と彼女は立ち上がってキッチンにあった皿やコップを投げて来た。瑞輝は頭を腕で覆って皿をよけ、カウンターの下に潜り込んだ。ガッチャンガッチャンと陶器が割れる。 「瑞輝ぃ、大丈夫かぁ?」玄関から伊藤が声をかける。  大丈夫じゃねぇよ。瑞輝はガタンと尚子が何か別のものを取り出した音を聞いた。包丁じゃありませんようにと祈りながら、カウンターの下からそっと裏を伺う。  チッ。瑞輝は舌うちをした。包丁だよ。 「信じないかもしれないですけど、今から助けに行って来ますから」  瑞輝はカウンターキッチンの下から、リビングのソファの方に這って逃げる。 「もう嫌なの。私の血のせいでこんなことが起こるなんて…嘘でしょ。あんたなんか…わかってたら産まなかったわよっ。全部なかったことにしてよっ」 「ちょっ…待って」瑞輝は包丁を振り回しはじめた尚子を見上げた。 「どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないのっ。普通に暮らしたいだけなのにっ」  瑞輝は下に落ちていたクッションに足を取られて、ソファの横に手をついた。振り返ろうとしたとき、リビングの電気が消えて、尚子が包丁を振り上げたまま止まった。瑞輝はその腕を掴んで包丁を奪い取った。 「キャァ」尚子が叫ぶのを伊藤が後ろから口を塞いだ。 「奥さん、落ち着きましょ。悠斗君を連れて行ったのは、僕らとは別のグループです。妹さんとご主人は?」  瑞輝は足元の陶器の破片に気をつけながら、包丁をキッチンの包丁差しに戻した。ハワイアン柄のミトンや、パイナップルの形の皿があった。タイルにはハイビスカスのシールが貼ってある。 「詩織は二階に…」尚子が伊藤を見て、恐怖を浮かべながら答える。 「瑞輝君、見て来て」伊藤は指示を出した。瑞輝は大きくまわってリビングを出る。そして階段を上がった。 「ご主人は?」 「主人は追いかけて…」  伊藤はうなずいた。そりゃそうだわな。 「じゃ、さらわれたのは悠斗君だけですね。封印に場所を選ぶから、連れ出したんでしょうな。瑞輝にやられる前に」  上でキャァという女の子の声がして、尚子はハッと顔を上げた。 「大丈夫ですって」伊藤は苦笑いした。  しばらくすると、瑞輝が階段を下りて来た。詩織は「ママ!」と尚子に抱きついて泣いた。怖い怖いと。 「追いかけないと」  瑞輝は二人を見下ろしながら、伊藤に言った。 「殺すんでしょ!」尚子は瑞輝を睨む。それを見て、詩織が怯えるように瑞輝を見た。さっき部屋に来たときは、怖い人だと思った。でも助けに来たと言って階段で手をつないでくれた。それがまたママの前では怖い人に変わっている。殺すって何? 「そうならないように…」 「嘘!」  瑞輝は黙って小さく息をついた。
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