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八隅純は瑞輝が治療を拒否すると、じゃぁ囲碁でもしようとニコリと笑った。もちろん瑞輝はそんな気分じゃないと言ったが、一局だけと彼女が懇願すると、どういうわけか碁盤の前に座った。
晋太郎はそのことにも驚いたが、瑞輝が碁に集中し始めると、瑞輝の体の緊張もほどけていくのがわかって驚いた。気づいてみれば、瑞輝は随分体を固くしていたようだった。表情も少し緩み、唇をギュッと噛むのも減った。そして石を取れると、笑みさえ浮かべた。
「腕、上げたね。人生経験は碁盤に現れるからね」純は石を置く場所をじっと考えながら言った。
「俺は何も」瑞輝は自分の手の中の石を見た。
「ゲームでも何でも、強くなると自分の性格が悪くなってる気がしない? 私はそうなんだ。これも相手の嫌がる場所を探して打つわけじゃない。でも君はそう思わせない相手だなって、最初に対戦したときに思ったんだ。君は負けず嫌いを装ってるけど、本当は勝っても負けてもいいんだよね。流れを楽しんでるところがある。それが私には心地よかったの」
「負けたら悔しいよ、俺も」瑞輝は目を上げた。
純は石を置き、ニコリと微笑む。「でもそれもゲームの流れとして悔しがることを楽しんでいる気がするの。本心じゃないとかじゃなくて、全体の流れを見ている感じ。だから上手くなるのも早いんだよ」
瑞輝は黙って碁盤を見た。パチリと石を置く。
晋太郎は二人の対戦を見ながら、確かに瑞輝も強くなったなと思う。
「弟君が持ってた記憶は蘇る?」
純が言って、瑞輝は彼女をじっと見た。晋太郎はゴクリと息を飲んだ。唐突に核心を突く質問だな。
瑞輝は小さくうなずいた。「なんでわかる?」
「君の顔に書いてある」純は微笑んだ。「戸惑い、恐怖、拒否、それからほんのちょっとの期待。君が時々見せる、私が知らない顔つき。私が知らない顔はたくさんあるでしょうけど、お兄さんも違和感を感じてるみたいだから、そうなのかなって」
瑞輝は晋太郎を見た。晋太郎は自分自身でも気づいていなかったので、困惑する。
「俺が持ってない記憶が、頭にある。これをどう思ったらいいのかわからない」
瑞輝は純を見て言った。涙が目からこぼれ、瑞輝は慌てて腕でぬぐった。
「あの日、何があったの?」
純はストレートに聞いた。
瑞輝はしばらく言葉を探していたが、ゆっくり顔を上げると言った。「わからない。覚えてない」
純は微笑んだ。言葉が抜けてる。「どう言えばいいか」わからない。「具体的に何があったか」覚えてない。と彼は言いたいのだと思う。その言葉通りに受け取ると、勘違いする。
「説明になってなくていいから、思いついたことを思いついたときに言って」
純は石を置いた。瑞輝はうなずき、碁盤を見た。また劣勢だな。
その日は瑞輝は何も言わなかった。碁を打ち、それから疲れたから寝ると言って夜まで眠った。
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