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 海が見たくなった。  ロンドンに着いた翌日から語学学校と繊維開発の実務研修に追われまくって約半年。会社の用意してくれたスチューデントハウスはロンドンの中心部にあるものだから買い物も食事もドアを開ければすぐそこ。毎日の行動範囲は半径10キロ圏内でほぼ事足りてしまう。だけど流石にここは日本じゃない。9割9分英語での生活に流石にストレスが溜まってきたのかもしれない。いや違うな。  原因は多分、あれ。  マグカップを手にベッドに腰かけると視線をテーブルの上に向ける。そこには昨日開けた段ボール箱が中身もそのままに置いたままだ。薄めに入れたはずのコーヒーがなんだか苦い。  昨夜はハウスに戻ったところを管理人さんに『荷物が届いている』と呼び止められた。箱の大きさの割に軽いその段ボールには、運送屋さんに申し訳ないくらい薄くて小さいアルファベットが荷札にぱらぱらと並んでいた。反対に私の名前『Ikumi Takeda』だけはしっかり大きく書いてあった。管理人さんが「もしかして恋人から?」と身を乗り出してきた。彼女は30に手が届く女が毎日毎日学校と職場の往復だけしているのがどうにも解せないらしく、事あるごとに恋人はいないのかとか興味ある男はできたかと聞いてくる。私は苦笑いを浮かべながら「母からです。」と返した。   部屋に戻って荷物を開けると中に紙に包まれたアイボリーホワイトのセーターが収まっていた。母の手編みだというのはすぐ気づいた。母の編んだものは指がすっぽり入るくらい網目が緩い。箱から畳んだまま持ち上げたセーターもすぐに私の指を包み込んだ。こっちに着いた時に一度電話をしたきり音信不通の親不孝な娘だというのに母は私のことを見捨てずにいてくれたようだ。だけど不思議だ。ここ最近は老眼が進んだと言って編み物どころかボタン付けさえ億劫そうにしていたのに。首を傾げていると包み紙と箱の隙間に茶封筒が挟まっていた。気づかずにうっかり捨てるところだった。セーターを腕に抱いたまま便せんを広げるとそこには『よかったら着てください』と縦書きでたった一行。余計なことは口にしないところが母さんらしい。そんなことをおもいながらセーターに顔を埋めると微かに潮の香りがした。  行ってみようかな。今日は一日休みだし。  ガイドブックを引っ張り出してぱらぱらと捲ってみたけど、今ひとつよく分からない。  管理人さんに聞いてみるか。  私はマグに残ったコーヒーを飲み干した。
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