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 我に返った時には案内図から大きく離れた住宅街に入り込んでいた。    大きなため息をひとつつくと再び回れ右をした。同じ道を戻ることはためらわれた。またあの一団に遭遇するかもしれないから。だけどここは海の町だ。どれだけ入り組んだ道を行こうと下に向かって降りていけば必ず海に出るから迷子になることはない。教会の塔が見える。あの反対を通れば問題ない。浜場の傍に素敵なカフェがあったからあそこでお茶をして時間をつぶそう。そう考えて角を右に折れた。  その瞬間懐かしいものが目に映った。浮き玉だ。浮き玉が網に入れられて軒に下がっている。しかもあれはガラス製。漁船の浮きに使うそれは今ではプラスチック製のものが多い。  どうやらお店のようだ。駆け出したくなるのを堪えているのに歩幅は広くなる。  ドアを開けて驚いた。   てっきり釣具店かアンティークショップだと思った。そんなに広くない店内の棚には色とりどりのセーターが何枚も並べられていた。真ん中に置いてあるテーブルには鍋敷きや可愛いコースターが飾られている。カウンターも兼ねているガラスケースには編針や刺繍針などが置かれている。セーターを一枚手に取ってさらに驚いた。 ガンジーセーターだ。  よく見ると並んでいるのは全てガンジーセーターだ。しかも手編み。今は機械生産が主流なのに。これでもファブリックを扱う仕事柄、繊維や織物などは一般の人よりは詳しいと思う。編めないけど。 「いらっしゃいませ。」  店の奥から私と同じくらいか少し上くらいの女性が出てきた。ふんわりとしたワンピースに身を包んだ彼女はゆったりとした動作が妙に目を引いた。  いつもなら無言で商品を眺めて無言で店を出る。欲しければ無言で商品を差し出して無言で勘定を済ませる。でも今日はちょっとテンションが違う。さっきのことで気分が高めに振ってるのかそれとも全く思いもかけなかった場所で思いもかけなかったものに出会えて興奮してるのか、とにかくこれについて話をしたかった。 「このガンジーセーター、手編みなんですね。」 「ガンジーセーターをご存じなんですか?」 「ええ、有名ですから。貴女が編まれたのですか?」 「ええ。ものによっては糸から作ってます。」 「凄い!これまで見たものより段違いに凄い!」  魂の叫び、というと大げさだけれど私がとんでもなく興奮しているのは確かだ。  女性にもそれが伝わったのか、嬉しげに「どうぞゆっくり見ていってください。」と言ってゆっくりと椅子に腰かけた。 こんな機会は滅多にない。彼女の言葉に甘えて、一枚一枚広げてみていくことにした。  ガンジーセーターというのはイギリスとフランスの間にあるチャネル諸島、その中の島の一つにガーンジー島というところで作られるフィッシャーマンズセーターだ。海に出る男たちの仕事着として家で待つ妻や娘たちが心を込めて編みあげてきた。今は機械で生産し最後の工程だけ手作業で行うものがl殆ど。ここにあるのは全て手編みのまさしく伝統にのっとった逸品中の逸品と言える。  店内は空調が効いていることもあって暑くなってきた。コートを脱いで腕に引っ掛けながら次は反対側の棚に移った。  日本人がフィッシャーマンズセーターと聞くとまず思い浮かべるのはアランセーターではないかと思う。アイルランドのアラン島で編まれるアイボリーの縄編み模様はニットの代名詞みたいになっている。母が送ってきたのもアランセーターが原型だ。  この店に置いてあるガンジーセーターはそのアランを含め、全てのフィッシャーマンズセーターの元祖と呼ばれている。濃い藍色の糸、体にフィットしたデザインが特徴的だ。  羊の脂を残した原毛が使われたり、糸の「撚り」を強くしたり、編み目をぎちぎちにしたり、脇にダイヤモンドガゼットと呼ばれる「まち」をつけたり、襟ぐりを前後平面で編んで前後ろを気にしなくても着られるようになっていたり。  いろんな工夫がしてあるガンジーセーターは動きやすく丈夫で防寒に優れているだけでない。徹底的に実用重視で作られたそれは機能美に溢れている。イギリス海軍に採用されたのも頷ける。  余談だけどガンジーセーターはヨーロッパ各地の港や島に伝わり、それはやがて時を越えて明治の時代、極東の日本にも伝わった。
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