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「すごく辛かった。でも私、不思議と死にたいと思ったことはないんです。ただの一度も。」
さっきだって苦しくて胸が張り裂けそうだった。思い出すだけでちくちくと痛い。
「それはそうよ。だって貴女の中には海で生きてきた人間の血が流れているのだもの。」
まさに目からうろこ。そうだ、私には流れている。荒波の中でも必死で生きた人間の血が。祖父のしわくちゃの手が瞼に浮かんだ。
「それにね。なんといっても貴女には待っていてくれる家族がいる。」
エレインが私のセーターに触れた。
「見知らぬ遠い地でこうやって必死に頑張っている貴女を、こんなふうに貴女の無事を祈りながら帰りを待っていてくれる人がいる。そんな人がいるのに死んでなんかいられない」
「ええ。ええそう。待っていてくれてる。」
私が立ち直るのをただ静かに。けれどしっかりと待っていてくれている。両手で自分の体を抱きしめた。抱いているのは私の腕。だけど、そうじゃない。私はセーターを通して母に抱かれているのだ。この感覚はエレインのおじいさんがマフラーを握りしめていた時と同じものだと思う。
大切な人の為に一目一目想いを込めて編む。その想いが糸を通して伝わってくる。今私は遠く日本にいる母と確実に繋がっている。
カバンの中でアラームが鳴り響いた。
時間だ。駅に向かわないと。その前に買い物を済ませなくちゃ。もう買うものは決めている。
私は立ち上がって濃いブルーのセーターを指さした。
「エレイン。このセーターと同じ色の毛糸をくださいな。」
「どの位?」
エレインもゆっくり立ち上がった。
「マフラーが二本編めるくらい。頑張ってもマフラーが限界。」
私が初心者なのだと察してくれたエレインが助け舟を出してくれる。
「オーケー。指で編むんじゃないなら編針もつけておくわね。ついでにレシピもつけようか?」
「お願い。もう一つついでにエレインの電話番号も教えてもらえると嬉しい。」
この先もエレインと繋がっていたい。私にとって既に彼女は大切な人になっている。
「いいわ、いつでも連絡頂戴。」
エレインは引き出しを開けて紙袋に毛糸玉を詰め始めた。
コートを着込んで切符を確かめる。日差しを感じて窓の外を見ると奇跡的に雲が切れて青空が覗いている。
どうか天気よ、駅に着くまで持ってください。
エレインが紙袋を差し出しながら悪戯っぽく片目を瞑った。
「だけどね、イクミ。流石に分娩台の上にいるときは出られないからね。」
開けている方の目が光を受けて空色に輝いた。
完
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