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前編
「マフラー?」
「そ、すげーいいの作ってもらったんだ。」
篤史はそう言ってマフラーをトートバッグから取り出し、大学の友人、香菜に広げて見せつけた。篤史が一昨日のクリスマスに、彼女の真佐美からもらったものだ。鮮やかな真紅の糸で編まれている。
「去年もマフラーもらってなかった?」
香菜はマフラーをじっと見つめて少し眉をひそめた。
「よく覚えてんなぁ。四年連続かな?」
篤史はマフラーを両手で揺らして香菜の目の前に晒しておどけた。いつもなら彼氏のいない香菜がのろける篤史に皮肉の一つや二つ飛ばすところだが、今日は様子が違う。篤史の煽りを気にする風もなく、腕を組んで考え込みだした。
「どうした、羨ましすぎて言葉も出ない?」
さらにおどけるがこれも、無視。
「…あんたさ、やっぱり一昨日の朝のこと、覚えてないの?」
香菜が言葉を選ぶように、ゆっくり尋ねた。
「一昨日の朝?大学来て授業受けて、そのあとデートに、」
「その間のことは?あたしと話したこととか。」
日頃強気な香菜が思いの外弱々しく見つめてくる。
「え……、なんだっけ。」
思い出せない、というかそのあたりの記憶がすっぽり抜け落ちてしまっているような感覚だった。香菜は、やっぱり、と深刻な表情だ。
「いい?落ち着いて聞いて。
あんたは一昨日あたしに、真佐美と別れてくる、そう言って会いにいったの。」
「いやそんなわけ、」
「いいから黙って聞いて。あんたは十月頃には重いから真佐美ちゃんと別れたいって、あたしにずっと言ってた。京介たちにも聞いたら分かるわ。でも真佐美にずるずる引き伸ばされて、クリスマスまで来てしまった。それで昨日は学校に来ず、今日このざまよ。」
「…いや、ごめん待って…。
なんにも覚えてないし、そんなの信じられないけど…。」
ただ、得体の知れない恐怖と戸惑いが急に篤史に押し寄せてきた。どういうことだ、これは。何を言っているんだという思いと、香菜の張り詰めた声が示す信憑性。二つが入り混じって篤史に襲いかかる。冷静になろうと頭を抱えるも、脳がそれを許さない。考えること自体拒まれているような感覚だった。
「でしょうね。」
香菜の暗い表情がよりいっそう篤史を不安にさせる。
「だってあんた、去年もおんなじこと言ってた。」
「嘘だろ、」
「ほんとよ。おんなじようにクリスマスに別れに行って真佐美ちゃんのこと大好きになって帰ってきて、別れようとしてたことはなーんにも覚えてなかった。あのときは惚れ直しただけかと思ったけど。なんか催眠にでもかけられてるんじゃ」
「やっほーー篤史っ。」
香菜が言い終わらないうちに、ざわつく教室によく通る声がした。振り向くと笑顔の真佐美が教室の入り口でバタバタと手を振っている。真佐美は篤史の大学からは電車で三〇分程の女子大に通っており、こんな風に突然大学を訪れることは今までなかった。教室の何人かはぎょっとしていたが、篤史の心はそんなことがまるで気にならないほど激しく高揚した。
「おう!」
篤史が手を振り返す。また教室がざわつくがそんなことは気にしない。真佐美の席を開けようと立ち上がると、真佐美を探るように見る香菜が目に入る。そういえばさっきの会話をすっかり忘れていた。また篤史を混乱が襲う。
「いいマフラーね、これ。」
香菜が近づいてきた真佐美に向かってマフラーをつまみ上げ、にっこり笑った。真佐美も、お揃いのマフラーをしていた。
「あ、香菜ちゃんっ。でしょお?」
大学の違う二人は顔見知り程度だ。真佐美は楽しげに答えたが、少し顔が張り詰めたのを篤史は見逃せなかった。
「真佐美ちゃんが作ったの?」
「うん、そうなの!
あー、じゃあわたしら用事あるからそろそろ行くね?」
真佐美はわかりやすく話を切り上げ、篤史の腕をすごい力で引っ張った。また気分が激しく上昇する。だが高揚感と共に香菜の曇った顔が目に焼き付いて離れない。香菜と話さなければ、篤史はうっすらそう思ったが、結局真佐美にされるがまま、荷物をまとめ香菜を置いて教室を出た。
*
さて、どうしたものか。二人が出ていった扉から目を逸し、香菜は目をつぶって考える。
真佐美が教室に入って来たとき、香菜はとっさに紛失防止用にGPS機能が付いた鍵を篤史のトートバッグに突っ込んだ。真佐美が篤史を連れ去るに違いなかったからだ。スマートフォンを見れば彼らの位置は大体追えるので、香菜は追うのを我慢した。
真佐美には何か秘密があるに違いない。昨日までなかったはずの愛が篤史に突然芽生えているのだから、それも、去年と同様に。催眠術か何か、そういった類のものを考えなければならない。篤史から聞いていた彼女の愛情の重さを考えると十分あり得る。そして篤史も、一度我を失うと覚めるのには時間がかかる。去年もクリスマス以降数ヶ月は毎日のように会いに行っていた。だが夏頃には我に返り、真佐美の誘いを断るようになった。真佐美は泣きながら、会わなくてもいいから、別れるのはやめて欲しいと嘆願したという。押しに弱い篤史は断りきれず、ずるずると関係を続けていた。
そして、クリスマス。真佐美に「今までごめん、ケリをつけさせて欲しい。」と言われ、篤史は彼女の元へ向かった。ただ、その前に一つ、香菜の心に爆弾を落として。
「俺がほんとにクリスマスを一緒に過ごしたいのは……本当に好きなのは…」
薄々気づいていた。篤史が真佐美に冷めて以来、二人は一緒にいる時間が自然と増えた。たくさん話し、一緒に勉強したり、遊びに行ったり。篤史といるときだけ香菜は自然体になれた。香菜は恋心がどんどん膨らむのを感じていたが、必死に押し殺した。まだ彼女のいる篤史に示してはいけない感情だと念じて。だから、自分の名前が彼の口から出てきた時、今までずっと蓋をしていた感情がドクドクと溢れてきた。ただ仲がいいだけの、危なっかしくてつい世話を焼いてしまうだけの、男友達だと無理やり考えて抑え込んできた分、香菜の篤史に対する気持ちは一瞬で溢れ返った。香菜はすぐに篤史に返事を言おうとしたが、篤史は香菜に言葉を発する間も与えず、真佐美に会いに行っってしまった。そして昨日のことはきれいさっぱり忘れて帰ってきた。自分だけ夢の中に取り残されたみたいだった。どれだけ会いに行くのを止めればよかったと後悔したかしれない。香菜は真佐美に会いに行く途中の篤史に電話もかけてみたが、しっかり真佐美と別れてから返事を聞きたい、と一方的に切られた。弱っちいくせに筋だけは通すような人間なのだ。
今すぐ追いかけたい。香菜は目を開けて扉を振り返った。彼らを二人にしてしまった強い後悔が胸に広がり香菜を焦らせる。と、扉を開けて教室に入ってくる男子と目が合った。ニヤっとして横にドサッと座る。
「どうしたぁ?泣きそうな顔して。」
篤史の親友、京介だ。
「そーいや…そっか、篤史に告られたか!?」
「ばっ、違う違う違う!」
「バレバレだってぇ、俺が言わせたし。」
「こんなときに何言って、」
「あれ、篤史どうしたんだ?真佐美とちゃんと別れておまえに告るっつってたのに、」
京介は辺りをぐるっと見渡した。
「そうなのよ!」
香菜は思わず叫んだ。焦りと怒りが体中を駆け巡る。やはり行かなくては。
「だめだ、もう我慢できない。追いかける。」
香菜は机をバンッと叩いて立ち上がり、早足で扉に向かった。なんだ、俺だけ置いてくな、と京介も後ろからついてきた。
*
真佐美は篤史の腕を掴んだまま、ずんずん歩いていく。
「ちょっと待ってよ、俺授業が。」
香菜の顔が目にこびりついて離れず、気になった。が、真佐美は振り返って悲しそうな顔をしただけで、またすぐ前を向いて歩き出した。そのことに激しい焦りを覚える。
「ごめんごめん、わかった、どこに行くの?」
努めて明るい声で尋ねたが、駅、という短い回答が帰ってきただけだった。そのまま駅まで連れて行かれ、あらかじめ買ってあったと思われる切符を手渡された。
到着駅を見て悟る。目的地は、真佐美の母が経営する、古着屋。
*
「マフラーは関係あるだろうな。」
篤史らと一本遅れの電車に飛び乗った香菜は、付いてきた京介に事情を話した。最初は驚いていた京介だが、すぐに落ち着いて状況を整理し出した。この辺りの落ち着きは香菜に足りないもので、頼りになる。
「あたしも何かあるな、とはずっと思ってる。」
「クリスマスにマフラーをもらって気持ちが戻る、これをもう四年繰り返してる。普通じゃない。」
「四年?二年じゃなくて?」
「高二のクリスマスから付き合ってるからな、あの二人。」
そうだった。京介は篤史と高校からの仲だ。
「俺も今回はマフラーも何ももらわず気持ち伝えてさっさ帰って来いっつったんだ。あの女は危ねぇからって。付いてってやろうかとも言ったんだ、」
京介の苦々しげな表情を見、香菜も顔をしかめる。
「絶対オカシイ。マフラーすごい嬉しそうに。」
京介がこちらを気遣わしげに見る。
「…告っといてそんなことされたら、そら泣きたくもなるよな。」
「…うん…」
「…俺さ、おまえに言い…
いや、とりあえずあいつひっぱたいて、目ぇ覚まさせよーぜ。」
京介が何か言いかけてやめ、殴る仕草をした。香菜はそうだね、と静かに笑い、スマートフォンを見ると、篤史の位置情報が線路を離れ出した。
「次の次の駅で降りるよ。しまっていこう。」
静かに言うと、京介は拳を固めて頷いた。
*
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