だらけた日々

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だらけた日々

 明け方から止まない雨が屋根を叩いて目が覚める。昨日の天気予報通りだが私は舌打ちをした。  高校卒業と共に「漫画家になる」と親の反対を押し切って意気揚々と上京したはいいが、結局夢も忘れてその日暮らしのまま数年が経過した。電車1本で行けるのに実家どころか墓参りにすら帰っていない。  綿の減った布団からモゾモゾと這い出した。  なにか口に入れようとしたがゴムの劣化した半開きの冷蔵庫には何も入っていない。  まだ布団に包まっていたい心理に反して空白を訴える腹に従い、パジャマ代わりの高校時代のジャージを脱いで渋々外出の準備を始めた。  化粧もしないで、10年以上前の家族旅行で買った過剰にラメの付いたストラップがぶら下がる唯一の傘を差す。狭い歩幅で10分、最寄りのコンビニに着いた。  朝とはいえ既に短針は9を過ぎている。傘は少し不安だったが、店先に置かれた傘立てにさして入店した。 「いっしゃませー」  時給の低そうな店員の挨拶を聞き流し、飲み物を目指して奥へ。戸を開けて棚から1番安い水のペットボトルを取り出す。それを片手でぶらつかせながらパンを求めて移動する。  2、3個手に取りレジで会計を済ます。現金は面倒臭いからキャッシュレスだ。  時間にして3分程度だったはず。  店から出て早く温かい我が家に帰ろうと傘立てに目を落とせば私の傘がない。そもそも私以外の傘は2本くらいしか無かったのに。持ち手にキラめくストラップ付きの傘は誰かに盗まれてしまった。 本体も飾りも決して高い良い物ではなかったが他人に盗まれるのは腹ただしい。  ひょっとしたらまだ近くにいるかも。コンビニの軒先で私は通りを過ぎ去る人の流れに目を凝らした。  キラリと光るストラップ。  見つけた、30メートル近く離れた場所で人の傘を差しながらのんびり歩く影。  雨は一向に強さを変えないが無視してその人影を追いかけた。  影の後ろ姿は傘に隠れて半分しか見えないが、街中で珍しい和装の男だとわかった。足には足袋の様な布1枚で作った簡素な靴を履いていた。なのに、体力が落ちて走れないとはいえ私よりも歩みが速い。  追いかける私に気づいているのか気づいてないのか、男は飄々として歩き続ける。やがて改札を抜けて駅に入っていった。  電車で逃げるつもりらしい。  私がホームに着いた時にはちょうど列車が到着したところで男は背を向けて車内で立っていた。  扉が閉まるギリギリで同じ車両に乗り込んだものの混雑していて男に近づけない。  為す術なく、どこ行きかも分からない電車が走っていく。  人は出ては乗りを繰り返し数が減らない。  傘を盗られて沸騰した感情はじわじわ温度が下がっていった。  車内全体が見通せるまでに1時間はかかった。席も空いているのに未だに立ち続けていた。  私は車窓の景色に驚いていた。何しろ見慣れた、けれど久々の故郷に近づいていたからだ。 ――実家の最寄りの駅に着いた。と思ったら忘れかけていた傘泥棒の男が駅に降りた。  それに気づき大慌てで駅に降りて、無人の改札を出た男を追いかけた。外は雨が止んでいて傘は閉じられたままだった。  昔はだだっ広い田畑と無駄に大きな庭付きの民間が点在する地だったのに、工事中の分譲の戸建てが乱立した息苦しい街に変化していた。  そんな街をまるで何万回と歩いていた様に男は迷いなく歩を進める。  こっちは足に限界が来て男と距離が離れていく。未練も何も無かったはずの地元の変貌ぶりに意外と戸惑っている自分に驚いた。  懐かしさを感じない見知らぬ風景の角を何度も曲がっていく。合間に一部残る過去の記憶に符号する場所から、次第に男が向かっている場所がどこなのか思い当たる節が出てきた。 ……駅から30分以上かけて歩ききった。途中から男の背中すら見えなくなっていたけど、勘と記憶を頼りにここまでやってきた。  艶やかな灰色の御影石が辺りに生えている。入口から数えて3列目の奥から5つ目に、私の祖先の墓がある。今は祖父母も入っていて、真新しい花が供えてあった。  誰もいないその墓の前には傘が立て掛けられていてキラキラしたストラップが、雨上がりの日光に照らされ光っていた。  私は荒い呼吸を整えて、墓の前で手を合わせた。  ヒューっとぬるい風が顔を撫でていった。  また来ます。  心の中で呟いて、傘を拾って駅へと歩き出した。  次は実家にも帰りますと誓ってストラップは昨日までの自分と共に墓に置いてきた。 「――原稿用紙とペン、探さないとなぁ」   帰り道、これから出来ていく家々が輝いて見えた。
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