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<4・いかり>
集中力は抜群。誰かが来ようと何をしようと、作曲中はひたすら自分の世界に飛び込んで行ける縁。非常にマイペースで、絶対的な自分の信念を持つ彼。
次第に朝の音楽室で彼の指が紡ぐ新たな世界を見送るのが、究児にとっても楽しみになっていたのだが。――出会ってひと月ばかり過ぎた頃、急に彼は沈んだ顔を見せるようになっていた。ここ最近は彼の作曲風景を見ながらデッサンを許して貰っていたので、尚更変化がよくわかるのである。
影が、落ちている。いつも軽やかに動く指先に、覇気がない。
「何かあったのか、縁」
自分が踏み込んでいい領域なのかはわからなかった。そもそも自分が彼の支配する音楽室に勝手に踏み込んでいるだけであって、友達かというとそれも微妙な関係である。彼は自分を追い出さなかったが、それが“嫌がっていない”こととイコールとは限らない。そもそも縁は言葉数が少ないし(作曲に関して語る時だけやや饒舌だったが、それ以外は口を噤むことが少なくないのだ。恐らく根本的に、人と話すのが得意ではないタイプと見える)、はっきりものを言うのも苦手であると見える。
もし尋ねて、躊躇うそぶりを見せたら。それ以上の追求はやめておこうと、そう思った。今の距離感で、充分幸せは感じている。彼という“生きた”モデルがいて、それが最高の天使の指先を持ち合わせているというだけで十分願いは叶っているのだ。それ以上を望むのは、あまりにも野暮というものだろう――それもそれで、人は自己満足と言うのかもしれないけれど。
「……聞いてくれるのか」
しかし。意外にも彼は、少し嬉しそうにはにかんで見せた。それが、どこか消え入りそうに儚く見えたから思わずドキリとしてしまう。
縁を相手にしていると、たまに彼が同性であるという事実を忘れそうになる。
「今度、作曲のコンテストがあって。それに出す曲を作りたいと思っているのだけれど……その、なかなか“物語”が決まらない。音を鳴らしてみればそれが浮かんでくることもあるのだけど、今はいくら好きな和音を鳴らしても浮かばなくて。それで、困っている」
「スランプってやつか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。……前にも話たけれど、僕の曲は元となる“物語”がないと作れない。そこからキャラクターや、場面のイメージをふくらませて……それに合わせた曲を作るから。物語のない曲は空っぽで、少なくとも僕の技術では誰かの胸に響かせる曲には絶対ならないという確信がある。だから、まず……どんな話を元にするかを考えなければいけないんだけど」
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