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そんな事があったのが何年前か、思い出せないだけでなく、本当の出来事かも自信がなくなってゆく。
だってあまりにもたくさんの事があったし、夕は、一つ目の仕事に、体力的についていけず転職し、二つ目の仕事ではガッツリのパワハラにあった。夕さん体弱いんだから、結婚すればいんじゃない、働かなくてもあなたみたいな人好きな男は一杯いるから生きてけるでしょ、でさ、そのいかにも具合の悪そうな、生理痛に歪める顔を見るとむかつくのよね。
月金で直属の上司から朝から夜まで半年言われて、夕の体は元々より、より弱った。
いつも全身が痛いという症状がやまなくなり、生理痛も酷くなり、辞職せざるをえなくなった。
そして今北海道にいる。
なぜだったか。去年まで何をどう頑張っても誰からも適切にも過小でも評価されたり誉められた事のない人生だったのに、体が痛くて出勤するタイプの仕事が出来ないからと、せめて何かはしようと書いた短編小説が何かの賞を獲ったのだ。
けれど無我夢中だったし、期待もしていなかったのもあり、何の賞なのか正直よく分かっていないし、その件に関わっている人達も少なからず、やはりこれがどういう位置づけの賞か、戸惑っている様に感じられる。
新しくできた賞なので、探り探りなのだとは思う。
何かをたまに訊ねてみると、誰からも返ってくる返事は戸惑いをはらんで、且つ、厚めのオブラートにくるまれてよこされる。
だから余計に現実味もない。夕と共にいらしたもう一人の受賞者の方は綺麗すぎるし、髪型から醸し出すムードからオールお洒落で、会話も抜け目なくて、良くできすぎているので現実感を喚起しない。
「けいみょうさん」というその人は確かに軽妙だが、その「けいみょう」なのか分からない筆名で、足も長く、ファッションセンスが活きる、夕からすれば夢のような人物に思える。
けいみょうさんは、エッジの効いたデザインに定評のあるブランドの、カーキのコートを脱いで、紺のコーデュロイオーバーオールにオフホワイトのざっくりタートルネックという、都会に住むスタイルのいい人でないと巧く仕上げられない姿になり、あくまで大人向けのオーバーオールとして作られた服にすんなり馴染むその姿は、欧州ストリートスナップの様であり、夕をある意味ぼうっとさせる。
けいみょうさんはコートを長い腕にかけて、夕の方に振り向き「素敵な景色ですね」と言った。と思う。
全てが完璧でまるで少女マンガのワンシーンのようであり、ますます現実感は失われてゆく。
けいみょうさんの横では、スタッフの中年男性が暖炉に火をいれて、いい匂いが広がる。懐かしい、夕の昔の実家に暖炉があったのだ。
なぜかは知らないが、夕が十才になる頃、家を建てかえる事になり、暖炉も、庭の沈丁花も、父と母と建築業社三者会議によって無くされてしまい、新しく建った家に越してきて初めてそれを知った夕は自分は何も聞いていないと怒った。
夕の昔の家の暖炉と違うのは、ここのはいかにも新しい、歴史のスタートダッシュの明るい茶色で、どこも黒ずんでいないのと、綺麗な火がちらちら揺れる窓の上に楓のマークが彫られている点だ。
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