かえでの晩

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確か関係者の女性は「一時間後にまた集合」と言ったと覚えていたのに、夕はそこから寝入ってしまった。 楓の館には不思議な力があるらしい。夕は東京に帰った。そして一くん、こんな雪が降るんだよこんなでね、それで、もう一人の方はね、すごく綺麗な人なの。 一は、一くんを連呼する夕を見て、いつもの様に声を出さずに、平均より小さな上下の前歯を見せて笑っている。左のこめかみに二本白髪があるね。うん。向こうの雪って湿気てないの、だから傘が要らないの。うん、夕。うん。何でもないなんて事はないよ。何。夕が一生懸命した事が、どんな形であれ実ったんだよ、喜んでいいんだよ、人生なんだから。 人生は。そう、人生はがっかりする為にあるんじゃない、夕が俺に言ってくれたんだよ、本当は人間は毎日喜ぶべきなんだって。 そうだっけ。そうだよ、夕は、自分のした事はすぐ忘れちゃうね。 一くんの左のこめかみの白髪が消えてなくなる。いいの、白髪は増えていいから、なくならないで。 遠くから、さっきの女性の声と、多分けいみょうさんだろう声が「美味しいワインだ」とか「リンゴジュースもありますよ」「うわぁ、うれしい」「協賛してくれてるとこのなんですよ、美味しいでしょう」誰か、年配の男性の嬉しそうな声もする。夕は自分が起きているのか寝ているのか理解できない。強く深みのあるリンゴの匂いがするような気がする。さっきちらと見たバスルームのハンドソープ等の容器も可愛かったなぁ、どんな香りだろう。 そう思ったら、どんより目が覚めた。 体が変に重く、しっかりとした目覚めの実感は出てこない。 黄色い光が、人の気持ちを逆撫でないやり方で灯って、天井の高い部屋の中をふんわり闇から救っている。 大きさと固さ、双方の点で間違いなく寝心地の良い二つのベッド、そこに手の平を二三秒当てるとそれだけで、気持ちよさで品質を知らせるときたもんだ。 ベッドに掛けられた布は、水色に微妙なさじ加減でグレーを混ぜたバックグラウンドカラーに、何か小花か何か散っているデザインで、水彩画を思わせるが、感覚のおかしい夕にはよく見えない。 どうしても見えないのだ。悪い夢か良い夢のように。 夕の部屋のドアがノックされたので、頭の中心がぐらぐらしながらゆっくり立ち上がり、ドアを開けようとしたらバスルームのドアノブだった。 右とか左とか分かる事ができていない。 とにかくもう一つのドアノブを握ると外へ世界が開き、栗色のボブカットの、三十位に見える女性が、幸福感に満ちた笑顔で 「移動とかで疲れましたよね、こちらのお部屋にリンゴジュース持ってきましょうか」 と言って下さった。 夕はそれに何と答えたのか自覚がない。さっきまで手の届くところにいた一くんがいないことのショックで頭は回らない。三度、心の中で「一くん」と呼ぶ。
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