かえでの晩

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夕は、けいみょうさんの事を何も知らない。 北海道でおちあってから、会話はそれはしたけれど、けいみょうさんはそれはそれはバランス感覚のいい人で、話しすぎる事もなければ話さないという感じも出さない術を身に付けている。 彼女もリンゴジュースを飲んでいるのだろうか、そうぼうっと数秒思ったら、部屋の鍵穴に鍵をさしたまま、また夕の意識はどこかへ行ってしまった。体が弱いとはいえこんな経験は今までない。 一くんがまた現れた。夕は、荷造りと彼の再入院でしっかり話せていなかった、ここまでの経緯を彼に話そうとするが、うまく話せているのかよくわからない。 出版社からメールが来た事、楓だったか柊だったかをテーマにした、かなり謎の多い館を造った人にまつわる賞なので、その建物の中で二日目に授賞式もあるという話だった事、一日目は館で懇親会があり、ひどく豪勢にもてなして下さるらしいと知らせてくれた、編集者だろう人からのメールには、詳しい肩書きはなく、何をどこまで担当しているのかは不明な事、そうして今の今まで色々な事がよく分からないままである事、どうにも、館創設者には秘密が多いらしく話せない事も多そうな事等。 一は声を出さずに笑って聞いていた。元サッカー部の左サイドバックだった丈夫な体、中学では右サイドバックだったのに、顧問に人のよさを見抜かれて無理に頼まれてやった二年半は本意だったと彼は言う。俺なんかいつもそうなんだよね、どうでもいいんだけど、頼まれてやるっていう。 「一くん、よく、どうでもいいって言うね」 「うん」 「でもちっともどうでもいいって感じじゃないのね。むしろ色んな事に丁寧すぎるからどうでもいいって言わないと精神保てないって感じにいつも見えるわ」 夕が一の部屋の、安いソファの上で、自分の膝に肘をついて、両の拳を顎に当てて言うと、彼は何も言わずに目だけで笑った。 夕の目の前に、土のグラウンドの黄土色と、その上に舞う風による少しの土埃が現れる。 謎のかけ声が遠くから近づいてくる。一のチームメイトだとわかる。何ジャパンの頃だろう、ジーコかな。 遠くにジャージを着た背の高い顧問が見えるので、どうやら夕はハーフェーラインのど真ん中辺りにいるらしい。土埃で少し煙い。 「はじめ!ヘイヘイヘイ」 前髪をしっかりと整髪料で崩れないようにしている、一が本当はすきじゃない同級生の男が、夕の右後ろからお腹に響く音の、右インサイドキックで大きくサイドチェンジしようとする。 ボールの行く末を見ると、青と白のデザインのユニフォームの一くんが、高く上がったボールの真下で上手く受けようと、嬉しそうな顔をしている。いい思い出なんだね。 夕は泣いていた。 肩できれいにトラップして足元に落としたのに、汚れたボールは消えて、ぷしゅー、かー、ピッ、ぷしゅー、かー、ピッ、電子音が響いて病院のカーテンの、上の方のメッシュから透けて天井が見える。エコノミークラス症候群を防ぐ装置なんだそうだが、こんな五月蝿いもんつけて安眠できるわけない。かわいそうだ、何とかしてよ、この変な器具の五月蝿いの、令和なのに!
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