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夕が次に気がついた時、舘の中の特別な部屋らしい、けいみょうさんや夕の部屋より三四倍大きな面積に、キッチンもサウナもついていて、大家族が寛げそうなリビングのある部屋のそのリビングの大きな、座り心地が柔らかすぎないソファに座っていた。
隣にはK社の女性編集者と、E社のやはり女性編集者が座っていて、夕の手には彼女たちが渡してくれた名刺があった。酒に酔っている時に似ている感覚もあるが、何か違う。
夕の向かいのソファには、肩書きは未だに不明の、先の栗色髪の女性と、けいみょうさんが座っていて、ワインとリンゴジュースを手に
「ホワイトアスパラガスって変な名前ですねー。あ~ほんとワインおいしー」
「ほんと、でもなんか可愛いですよね。リンゴジュースも美味しいですよ」
「さっきのジンジャーもいいし、ここ飲み食い系最高だよね」
「お洒落ですし」
「ねー」
と話していた。
ホワイトアスパラガスというのはその部屋の名前らしかった。
本当に謎の多い館だ。
けいみょうさんの後ろに、三メートル×三メートル位の出窓があって、カーテンはなく、やはりまだ無限のような粉雪が、無限に落ちていくのが見えている。
E社の女性編集者が男前な顔つきで鰹のカルパッチョをどこかから手に入れてきて、皆が拍手をしてつまみ出す。
知り合いが開いたホームパーティーに馴染みが集まっているような雰囲気で、ちっとも仕事仕事していない。
どの編集者もいい意味で、夕が思っていた編集者のイメージと全然違った。
割り箸で上品にカルパッチョを口に入れるけいみょうさんをぼんやり見ながら、夕の食べ方はいつも美味しそうで見てて最高ですよと言う、いつかの一くんが浮かんで消える。
夕の前には、ミントの香りのする謎の飲み物の入ったグラスが置かれていた。
ふらふら手に取ってみようとすると、栗色髪の女性がテンションを上げて
「それミントジンジャーエールですよ!すごい美味しかったですさっき飲んだんです私」
と言った。
この世にはミントのジンジャーエールがある。都内のお洒落店なら粗方行った事のある人生なのに知らなかったぜ。これから先何がどうなるのか勿論わからなくても、彼の言うように、いいじゃないか。
気に入ったら館を出るときに瓶でくれるらしいとE社の女性が言う。なんてこった。
そしたら、東京に持って行ってあげられる。一くんに飲ませてあげられる。だから、なんだかわからない事だらけでも、無駄ではない。喜ぶべきなのだ。
楓の館賞は、お金にはならない名誉の賞で、しかしとても敬意を持ってもてなされるという不思議なもので、そこに泊まった人の一部だけはとても不思議な体験を夜にする、しかもそれはどうやら編集者では駄目で、筆者に与えられる経験だと、後に語り継がれる事を、けいみょうさんも夕も知らない。
それどころかK社の編集者もE社の編集者も知らないのだ。
栗色髪の女性は、その由縁をほんのり知っている数人の一人であり口外する事はない。
亡くなった舘の創設者には特別な思いがあった。0を1にする作業を時間も集中力もさいてやる人間への尊敬の念と、誰かがそういう存在を労らなければいけないという信念。
その人物の親戚や、その思いを知り共感した一部の人だけで回しているイベントなのだという事。
ホワイトアスパラガスのソファで、夕は泣いていなかった。
ミントのジンジャーエールは美味しく、一くんがいとおしかった。誰ともわかり合うことのない夜、自分のおかしな感覚を誰かが指摘することもないままなぜか成立する白い、白い夜。
夕はすぐにわかろうとする癖がある。その上それがどうなるのか見通しをしっかり立てたくなる癖が子供の頃からあったが、年令が上がるにつれ人の影響を受けて変わってきた。
わからなくても楽しむこと。心配なんていつでもできるから、今日を味わうこと。自分のした事に、何の意味もないなんて、思わないこと。
そうやって沢山の人に少しずつ変えてもらって、自然に小説を書いたのだろう。そして今日ここにいる。
けいみょうさんと栗色髪の女性の後ろの、映画のスクリーンのような窓は、ずっと、実際に見なければ人が思い付けない迫力の、超豪華版スノードームを特別上映し続けている。
段々意識がはっきりしてきた様に思う。グラスを持つ手の感覚が普段の感じになってきている。
ミントの香りとジンジャーの味が同じくらいのインパクトで口に残る飲み物だとわかってきた。誰が作ったか知らないけれど、いい仕事しているなぁ。
なんて、いいんだろうね。
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