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終章
その日は、季節外れの暖かな陽気だった。あと一月もすれば梅の花が咲くだろう。牛込の通りですれ違った町人たちが、そんな会話をしているのが聞こえた。
夜薙は、ゆっくりと顔を上げた。
向こうから、目明かしの丹蔵が歩いてくる。供が二人、脇を固めている。
丹蔵は夜薙と目が合うと、表情を堅くした。
路地裏を顎先で示すと、丹蔵は供に何か言い、一人で夜薙が示した路地裏に入った。
「旦那。お元気そうで何よりです」
「よく言うぜ。お前、[わたりや]の主人に言われて、俺に情報を流しただろう?」
「そ、それは……」
「あまりに向こうの用意がよすぎた。そう考えるのが自然だ」
初めて安兵衛たちと会った日、あの店には安兵衛を含め、最低でも四人の黒業師がいた。普段からその人数が揃っているとは、どうにも考えにくい。
誘われた。そう考えるのが妥当だった。
なぜ、自分を誘ったのかは分からない。だが、安兵衛の住む暗黒の世界は、今の自分には想像がつかないほどの深さがあるのだと、夜薙は勝手に納得した。
丹蔵は威厳に溢れていた顔を青くし、
「も、申し訳ねえ。俺にも、断れねえ義理があって……」
「いいさ。怒っちゃいねえよ」
最初から半信半疑で使うのが目明かしというものだ。踊らされたのなら、それは自分を責めるしかない。
「しかし旦那、[わたりや]の主人は、旦那に何の用があったんです?」
それを聞かれて少しの間、夜薙は丹蔵の顔を見つめて考えた。
この男は、黒業師に関して詳しいことは知らないのかもしれない。
であれば、
「たいしたことじゃ、なかった。お前に聞かせることはない」
声を低くして言う。それだけで、何かを察したような丹蔵は、冷や汗を浮かべながら頷いた。
「また、何かあったら頼むぞ」
「へ、へえ」
小判を三枚握らせる。その感触に、再び丹蔵は頭を下げた。
前科をいくつも持つ丹蔵が、これまで夜薙の下で悪事に手を染めなかったのは、こうしてこまめに金を渡していることが理由の一つである。子分を多く抱える彼には、金はいくらあっても足らず、ときに立場を保つために悪事をなす必要があったのだ。
「じゃあな」
別れて、夜薙は来た道を戻り始めた。道を行く人々は、相も変わらず各々の人生を歩んでいる。
与力が一人行方不明になろうと、商屋の若旦那が土左衛門として見つかろうと、彼らには何の影響も与えないのだろう。
空。昨日は凍てついたように固まっていた雲が、今日は滑らかに流れている。
白い雲が次々と、夜薙の後方へ流れていく。
灰色の、厚い雲の塊だけが、夜薙の歩く先の空に浮かんでいた。
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