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 それから、数刻。あたりには闇が広がり、冬の冷え切った空気が張り詰めるようになっていた。まだ捕縛の予定時刻まで、かなりの間がある。  月の光が滲むようにして、うっすらと辺りを照らしている。  亀戸村。うっそうとした木立の間に伸びる道を進んだ先にある、一軒のあばら屋。その庭先に、男が一人で立っている。左手で鯉口を切ったのが、微かな光の中で確認できた。  男が、家の戸に手をかける。 「まだ、予定の時刻ではありませんよ」  建物の陰から、夜薙が姿を現した。  ぎょっとした男、玖珂は、おののくように跳び下がる。 「ど、どうしてお前が?捕り方は、村の名主の屋敷に待機しているはずだろう?」 「あんたこそ、どうして一人で先に来てんだよ」  夜薙の口ぶりは、目つきは、もう部下のそれではなくなっていた。 「お、俺はその、ここにいる男が、本当に伍平か確かめようと」 「白々しいな。あんた、伍平の口を塞ぎたいんだろ?濡れ衣を着せたことがバレないか、気が気じゃない。だからこそ、昼間も必死に伍平を探してたんだ」  玖珂の顔が、わなわなと震えだす。 「馬鹿な。お前、どうしてそこまで知っている?」 「地獄で、平吉にでも聞いてみなよ」  夜薙の言葉に、玖珂の顔が温度を失う。だが、 「ふ、ふふ。だが、それでお前はどうする?お奉行にでも訴えるか?たかが同心の言うことと、俺。どちらを信用されるか、馬鹿なお前にも想像はつくだろう?」  卑しい笑い声が、辺りに響く。夜薙はつまらなそうに、首を回した。 「ああ。だが、心配するな。法の裁きを受けさせようなんて、思っちゃいねえ。俺はただ、あんたに殺された人の、その家族の恨みを晴らすだけさ」 「恨み?まさか、俺を殺す気か?」   その問いが終わる前に、夜薙は一気に間合いを詰めた。 「うああっ」  白い光が舞う。金属音。咄嗟に抜いた刀で、玖珂は夜薙の一撃を防いだようだ。玖珂が跳び下がる。  お互いに、刀を構え合う形になる。夜薙は上段、玖珂は正眼に構えている。玖珂の刀が、震えていた。 「お前なんぞに、俺が斬られてたまるか!」  気合。迫力はないが、殺気は伝わってくる。  夜薙は、どんどん心が沈んでいくのを感じた。目の前の人間の、卑小な姿。自分の浅ましさ。理性が眠っていく。そして、何かが目を覚まそうとしている。今まで隠してきた、持て余してきた、何か。  何かが自分の中で膨張し、増大し、指先の神経にまで浸食していく。  鳥の鳴き声のような気合を発し、玖珂が飛びかかってきた。  腰を落とす。前へ跳ぶ。玖珂の横腹を、すり抜けざまに斬った。  カエルの鳴くような呻き。  刀を構え直しながら振り返る。  横腹から血を流す玖珂。力なく、かかしのように刀を構えている。  目が、合った。 「化け物が……」  振り下ろす。袈裟懸けに斬りつけられた玖珂は、血を噴き出しながら、風に吹かれるように倒れた。  刃の血を玖珂の着物で拭い、夜薙は死体を木立の中に運んだ。埋めるための穴は、安兵衛の手下に頼んで事前に準備してもらった。  死体に土をかけていると、理性がまた目を覚まし始めた。先ほどまでは汗ばんでいた肌が急に冷え、震えがしばらく続いた。吐き気にも襲われ、穴の中に一度吐き出した。それで、終わった。  玖珂を殺した。同時に、まともだった自分を殺した。だがようやく、本当の自分が息をし始めた。そんな気がしている。 「終わったか」  背後からの声。瞬時に振り返る。  薄闇の中に、提灯を掲げた人影が立っている。灯りが顔の高さまで持ち上げられ、その正体が分かった。 「俺がしくじらないか、監視しに来たのか」  [あかね]の早雲がくぐもった笑い声をあげた。 「まあ、初めてだからな。うまくいかない奴も多い。ただ、俺はこいつを届けに来ただけさ」  早雲は夜薙に歩み寄り、袱紗の包みを出した。 「後金の、十両だ」 「悪いな」  受け取る。十枚の小判の重み。それを二つにして、やっと玖珂の命の重さになる。 「金なんて、いらないんだがな」 「けっ、これだから役人は。だが、やめとけよ。正義だの、情けだの、そんな曖昧なもののために人を殺すなんて思わねえことだ。  金のため。きちんとした実物のためと思ってやらねえと、いずれぶれるぜ」  早雲の声はどこか柔らかく、闇に溶けてしまいそうな輪郭を感じさせた。それでいて、いやに言葉は重く響いてくる。 「金のために人を殺す。その卑しさが、俺たち黒業師を人のままでいさせてくれるんだ」 「覚えておく」  袱紗の包みを懐に入れて頷くと、早雲は闇に潜るようにして消えてしまった。明るい世界の住人にはできないことだ。  一人になった。寒さは、先ほどのように酷くは感じない。  空を見上げた。月は鋭い光を放っている。それでも、自分には届かない。そんな気がした。
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