山賊王とバーリヤッドの死神

1/6
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
牢の重い扉を開くと、はたして目の前にいたのは――よく見知った山賊の頭領だった。 潮汐(ちょうせき)により男の膝下は今、臭くて(にご)った水に浸かっている。 両腕は鉄の鎖につながれ、その先は左右の岩壁に吊されていた。 「ユラ……!」 コトナは黒フードをはねのけて灯を床に置くと、身体が濡れるのもかまわず、ぬるぬる滑る階段を降りて男に近寄った。 囚人は上半身裸だった。 鞭打ちを受けたか、引き締まった筋肉質な身体が傷だらけで腫れ上がっている。 物言わぬその口に、持ってきた銀の水差しをあてがって傾けると、男は差し口を咥えた。 ゆっくりと喉仏が動く。 コトナは涙ぐんだ。 「ごめん……気づかなくて……」 シンバ国、王都バーリヤッド城の地下水牢。 湖蝕洞(こしょくどう)を利用し作られたこの牢には、陰気な噂があった。 古代、シンバの王たちが冥府の神に生け贄の儀式を行っていた、暗くて深い洞窟には今――血に飢えた闇の獣が巣くっており、夜な夜な人の笑い声にも似た咆哮を上げるという。 その声を聴いた囚人は、ことごとく死神の餌食になる運命だとも。 ここは生きた墓場なのだ。コトナは乱暴に手の甲で涙をぬぐうと、太い腰帯に水差しの持ち手をさし入れ、代わりに鍵を取り出した。 王族がまとうような絹織服が汚れるのもいとわず、岩壁を注意深くよじ登り始める。  自ら進んでここに来たのは、初めてかもしれない――。 がちゃり、鍵を回すと重たい鎖を止めていた閂錠(かんぬきじょう)の片方が外れる。 音を立てて鎖が落ち、男は左手だけ吊られたまま、ずるずると前のめりに身体を崩してうめき声を上げた。  ――愛してるよコトナ、俺だけの柘榴石。 シンバ新王のまばゆいほどに優しい笑顔が目裏に浮かび、コトナは唇を噛む。  ――君は絶対に、俺を裏切れない。俺は、君の闇を照らす唯一の光なのだから。 呪言のような声が身体を縛りつける。 ダメ。迷っちゃいけない。 「今はただ、ユラのことだけ考えなきゃ――」 と、男が身じろぎ、かすれ声で口をきいた。 「……おいおい、笑えない冗談だな。そこにいるのはコトナか」 「ユラ? 意識が戻ったの?!」 「ああ、まあ……な。にしても、サハルめ」 男はまぶたを閉じたままで毒づいた。 「他人(ひと)を、なんだと思っていやがるんだ――」 コトナが壁を滑り降りて水の中に立つと、ユラは黒髪を振って眉をしかめ、薄目を開く。 焦点の合わない群青の瞳がうっすら光を帯び、やがてはっきりコトナを捕らえる。 「……この馬鹿、なぜ来た、早く戻れ。ここはおまえのような子供の来る処じゃない!」 別れてからこの男を思い出さぬ日はなかったのに、正気を取り戻したユラの第一声は、苛立ちを含んだ怒声だった。 「いくら(おど)しても、もう無駄だからね」 コトナはきっ、顔を上げる。 「それに私は馬鹿でも、子供でもない。ここの地下水牢だって、私の庭みたいなものだよ」 「コトナ、おまえはまだ、なぁんにもわかっちゃいない。十五の小娘なんて、三十の俺から見りゃ立派にガキなんだよ、阿呆が――」 喉を鳴らしながらユラは舌打ちした。 切れ長の目が射貫くように鋭くなる。 「わかってないのは、ユラのほうじゃない」 コトナの胸はどきどき早鐘を打った。 「なに」 「私、もう十六になった。子供じゃない」 そう――ユラを前にするとこんなにも緊張してしまうのは、以前、この男にさらわれたせいだ。 年に一度の狩猟祭で、サハルが供の者たちと鹿狩りに出た直後のことだった。 ――捕まえたぞ、ユラ! 見ろよこの灰銀の瞳に茶金の髪、それにこの黒装束。まちがいないぜ、疫病(えや)みの子だ。 手薄になった天幕を(おそ)い、久々、城の外に出たコトナを荒縄で(しば)り上げたならず者たちは、そのまま隣国との境にそびえるエト山まで馬を()って逃げた。 この山には王権に逆らう一派の城塞街があるという噂があったが、はたして意気揚々、男どもが帰還したのは、山の中腹、深谷の奥に開けた丘陵で――。 街は盛況だった。 木組みの家々が立ち並び、にぎやかな市場に商館、宿場。 小さいながら温浴施設まであり、街の中心地から少し離れた小高い丘に建つ館は、質実剛健なたたずまいで頭領の性格を映し出しているようだった。  ――ようこそお嬢ちゃん、山賊城塞(ウル・サファ)へ。名前はなんて言う? 俺はユラだ、よろしくな。 大門をくぐり、頑丈な扉を開ければ、ホールの先はもう広間につながっている。 ならず者たちの先頭にいた頭領は、コトナのさるぐつわを軽く外すとにっ、歯を見せて笑った。 ――今にも噛みつきそうな(ツラ)だな、王子(サハル)の飼い猫。まぁ、こんなむさ苦しい場所だが、住めば都だ。うちは人手も足らんし、働かざる者食うべからずだ。あとで世話役もつけてやるから、楽しく働き、おおいに食え。 油断ならない雰囲気をぷんぷんさせながら、ユラはコトナの頭をぐしゃりと撫でた。 腰まである髪に指を絡めると、やにわに身体ごと引き寄せて首筋をあらためる。 ――首に赤い斑紋……、ふん、なるほどなぁ。いいか、逃げようなんて思うなよ? 俺もおまえを斬りたくはないんでな。 コトナはすくみあがった。 この大酒呑みで無精髭(ぶしょうひげ)の頭領が、王の政事に異議を唱えて粛正(しゅくせい)された公爵の遺児であるのを知ったのは、それから三月後の話だ。 (元は高貴な身分? 信じられない) サハルはシンバ王の正当な世継ぎで、コトナはその養い子だった。 サハルはコトナを美しく着飾らせることはあっても、汗水垂らして働け、なんて一度も言わなかったのに。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!