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牢の重い扉を開くと、はたして目の前にいたのは――よく見知った山賊の頭領だった。
潮汐により男の膝下は今、臭くて濁った水に浸かっている。
両腕は鉄の鎖につながれ、その先は左右の岩壁に吊されていた。
「ユラ……!」
コトナは黒フードをはねのけて灯を床に置くと、身体が濡れるのもかまわず、ぬるぬる滑る階段を降りて男に近寄った。
囚人は上半身裸だった。
鞭打ちを受けたか、引き締まった筋肉質な身体が傷だらけで腫れ上がっている。
物言わぬその口に、持ってきた銀の水差しをあてがって傾けると、男は差し口を咥えた。
ゆっくりと喉仏が動く。
コトナは涙ぐんだ。
「ごめん……気づかなくて……」
シンバ国、王都バーリヤッド城の地下水牢。
湖蝕洞を利用し作られたこの牢には、陰気な噂があった。
古代、シンバの王たちが冥府の神に生け贄の儀式を行っていた、暗くて深い洞窟には今――血に飢えた闇の獣が巣くっており、夜な夜な人の笑い声にも似た咆哮を上げるという。
その声を聴いた囚人は、ことごとく死神の餌食になる運命だとも。
ここは生きた墓場なのだ。コトナは乱暴に手の甲で涙をぬぐうと、太い腰帯に水差しの持ち手をさし入れ、代わりに鍵を取り出した。
王族がまとうような絹織服が汚れるのもいとわず、岩壁を注意深くよじ登り始める。
自ら進んでここに来たのは、初めてかもしれない――。
がちゃり、鍵を回すと重たい鎖を止めていた閂錠の片方が外れる。
音を立てて鎖が落ち、男は左手だけ吊られたまま、ずるずると前のめりに身体を崩してうめき声を上げた。
――愛してるよコトナ、俺だけの柘榴石。
シンバ新王のまばゆいほどに優しい笑顔が目裏に浮かび、コトナは唇を噛む。
――君は絶対に、俺を裏切れない。俺は、君の闇を照らす唯一の光なのだから。
呪言のような声が身体を縛りつける。
ダメ。迷っちゃいけない。
「今はただ、ユラのことだけ考えなきゃ――」
と、男が身じろぎ、かすれ声で口をきいた。
「……おいおい、笑えない冗談だな。そこにいるのはコトナか」
「ユラ? 意識が戻ったの?!」
「ああ、まあ……な。にしても、サハルめ」
男はまぶたを閉じたままで毒づいた。
「他人を、なんだと思っていやがるんだ――」
コトナが壁を滑り降りて水の中に立つと、ユラは黒髪を振って眉をしかめ、薄目を開く。
焦点の合わない群青の瞳がうっすら光を帯び、やがてはっきりコトナを捕らえる。
「……この馬鹿、なぜ来た、早く戻れ。ここはおまえのような子供の来る処じゃない!」
別れてからこの男を思い出さぬ日はなかったのに、正気を取り戻したユラの第一声は、苛立ちを含んだ怒声だった。
「いくら脅しても、もう無駄だからね」
コトナはきっ、顔を上げる。
「それに私は馬鹿でも、子供でもない。ここの地下水牢だって、私の庭みたいなものだよ」
「コトナ、おまえはまだ、なぁんにもわかっちゃいない。十五の小娘なんて、三十の俺から見りゃ立派にガキなんだよ、阿呆が――」
喉を鳴らしながらユラは舌打ちした。
切れ長の目が射貫くように鋭くなる。
「わかってないのは、ユラのほうじゃない」
コトナの胸はどきどき早鐘を打った。
「なに」
「私、もう十六になった。子供じゃない」
そう――ユラを前にするとこんなにも緊張してしまうのは、以前、この男にさらわれたせいだ。
年に一度の狩猟祭で、サハルが供の者たちと鹿狩りに出た直後のことだった。
――捕まえたぞ、ユラ! 見ろよこの灰銀の瞳に茶金の髪、それにこの黒装束。まちがいないぜ、疫病みの子だ。
手薄になった天幕を襲い、久々、城の外に出たコトナを荒縄で縛り上げたならず者たちは、そのまま隣国との境にそびえるエト山まで馬を駆って逃げた。
この山には王権に逆らう一派の城塞街があるという噂があったが、はたして意気揚々、男どもが帰還したのは、山の中腹、深谷の奥に開けた丘陵で――。
街は盛況だった。
木組みの家々が立ち並び、にぎやかな市場に商館、宿場。
小さいながら温浴施設まであり、街の中心地から少し離れた小高い丘に建つ館は、質実剛健なたたずまいで頭領の性格を映し出しているようだった。
――ようこそお嬢ちゃん、山賊城塞へ。名前はなんて言う? 俺はユラだ、よろしくな。
大門をくぐり、頑丈な扉を開ければ、ホールの先はもう広間につながっている。
ならず者たちの先頭にいた頭領は、コトナのさるぐつわを軽く外すとにっ、歯を見せて笑った。
――今にも噛みつきそうな面だな、王子の飼い猫。まぁ、こんなむさ苦しい場所だが、住めば都だ。うちは人手も足らんし、働かざる者食うべからずだ。あとで世話役もつけてやるから、楽しく働き、おおいに食え。
油断ならない雰囲気をぷんぷんさせながら、ユラはコトナの頭をぐしゃりと撫でた。
腰まである髪に指を絡めると、やにわに身体ごと引き寄せて首筋をあらためる。
――首に赤い斑紋……、ふん、なるほどなぁ。いいか、逃げようなんて思うなよ? 俺もおまえを斬りたくはないんでな。
コトナはすくみあがった。
この大酒呑みで無精髭の頭領が、王の政事に異議を唱えて粛正された公爵の遺児であるのを知ったのは、それから三月後の話だ。
(元は高貴な身分? 信じられない)
サハルはシンバ王の正当な世継ぎで、コトナはその養い子だった。
サハルはコトナを美しく着飾らせることはあっても、汗水垂らして働け、なんて一度も言わなかったのに。
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