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――この国に一番足りないのは、なんだと思う。税制か物流か、あるいは意識改革か?
コトナをさらった悪漢のくせに、ユラには少しも悪びれるところがなかった。
面白い子猫を拾ったような顔で、掃除や料理、裁縫などを終えたコトナを広間に呼びつけ、むずかしくて興味の湧かない談義につきあわせたりして。
(一体、どういうつもり)
初めのうち、コトナはサハルの元へ逃げ帰ることばかり考えていた。
けれどそれは無謀な目論見だとわかった後は、ひたすらユラを観察し、考えを知ろうとした。
なにかこの男に弱点があれば、隙をつけるかもしれない。
しかし腹立たしいことに、ユラは存外できた頭領だった。
我流だが剣術の腕は相当なものだし、頭の回転も発想の転換も速い。
他人を見抜く目もたしかで、この男が要所に配置した人材は皆、優れた手腕の持ち主だった。
――長は誰にでも、平等で対等だから。
ユラの部下の一人で、商人たちの陳情や資金繰り相談にあたる役のファティマは言った。
――あの人は見た目に似合わず律儀でね、特に仕事に対する割分にはひどく公正なの。
普通、貴族なんて建前にこだわるものなのにね、と女人は花が咲き誇るように笑う。
――文句のあるやつは申し出ろ、なんて言って、実際に申し出てきた人間に一理あると判断したら、自分の取り分をそっくりあげちゃったりして。面白い人でしょう。
漆黒の髪にすみれ色の瞳、色白の肌にしなやかな物腰――質素な服に身を包んでいても、ファティマはまごうことなき美人で、いつも見知らぬ花の良い香がし……このどうしたって嫌いになれぬ女人がコトナの世話役だった。
――上に立つ者はね、コトナ。信用でき、かつ情熱をくれる人間でなくちゃならない。そして長はそれを二つとも持ってる。
だからこそ、ここにいる皆だけじゃなく大勢が……あの人を認めている。
じつは一国を背負える傑物なんじゃないかと、期待するくらいに。
ファティマの話では、ユラは父公亡き後ひたすら弱い民を守るため、汚れ役を買って奔走しているうちに、気づけば賊徒の頭領と呼ばれるようになっていた――そうだ。
――長はただ、どうしても理不尽だと思う現実を、見過ごせない人なのよ。
この世話役はひそかにユラに想いを寄せていたが、本人はどんな魅力的な女性にも興味ないらしかった。
一度、本心を伝えないのか聞いたところ、女人は諦め顔して微笑んだ。
――あの人、どうも私には気がないみたい。わかるの、なんとなく。長からすれば人生なんてあっという間なんだから、些末なことに足を取られている場合じゃないんだわ。
些末なこと。
ではユラがコトナをさらったのは、やはり暇つぶしなどではなかったのだ。
いつしか逃げ出したい気持ちは消えていたが、頭領館で暮らした一年間、コトナにはどうしてもその意図がわからなかった。
皆がコトナを『疫病みの子』と呼び、ファティマをのぞけば遠巻きに接するのに――ユラはコトナをまるで自らの妹のごとく扱ってくれた。
――いいかコトナ、もっと自分の頭で考え、話し、自由に生きろ。いちいち俺の顔色を窺うな。おまえはなんだってできる。人ってのはな、皆やりたいことをするために生まれてきたんだぞ――。
「……どうしてなの、ユラ」
コトナは痛みに顔をしかめる頭領を睨んだ。
「なんで、あんなふうに私に接したの」
おかげで私の世界は変わってしまった。バーリヤッド城も、庭に生えている木も、仕官する人々も。全部同じなのに、私だけが――。
「おい、今更、苦情を言いにきたのか」
「ちがう。でも、どうしてもわからない。あなたは私の正体を知ってたんでしょ」
ユラはわずかに眉根を上げた。
「やっぱり。知ってたんだね」
私を攫ったのは、これ以上凶事を起こさないようにするため。だけどそれだけなら、ちがう世界を見せる必要なんてなかったはず。
「俺はただ……おまえには別な選択肢もあるはずだと、言いたかっただけだ」
ユラは呟き、首を振った。
「コトナ。本当に、今のままで後悔しないのか。新王が山賊城塞を焼き討ちしたのだって、おまえを心配したためなんかじゃな……」
「わかってる!」
コトナはユラの言葉を遮り、叫んだ。
「人が恐れ、それでも欲してやまないのは、私のこの力――なんでしょう?」
ユラは目を見開く。
いつの間にか、コトナの背後に黒い巨大な影があった。この洞窟を住処とする闇の獣。
音もなく影はうごめき、少女の左右にぬっと巨大な牙がむきだしになる。
「双頭の鬣犬……」
ユラはうめいた。
「くそっ、もうやめろコトナ、そいつは異界の化け物だ。使役し続ければ、どんどん独りになって、闇に蝕まれていくんだぞ……っ」
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