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知ってる、とコトナは吐き捨てる。
もう全部――つながってる。
シンバ国の王子は十年前、御年十七の誕生日に祝狩りをした。そして森のはずれで一人の孤児を拾った。
獣のように汚いその子供には名前のほかに記憶がなく、年を聞くとただ五歳とだけ、応えたという。
それから十年――卵から孵った雛のように孤児は王子を慕い、その命令ならなんでも聞いた。そう――たとえそれが人殺しでも。
不思議なことに、孤児は妖魔を操れたのだ。
しかも呼び出せる鬣犬は、闇使徒と呼ばれる上級妖魔だった。
その力は君の神たる証だよ――と、かつて王子だったサハルは断言した。
――過去にも妖魔を恐れ入らせ、使役できる人間は世に存在した。彼らは神の恩寵を身に受けた、言わば神の代行者だ。コトナ、可愛い俺の柘榴石……信じられないかもしれないが、君だってその神なんだよ。
もし不安なら俺だけを見、俺の声だけを聞け。そうすればもう、君を脅かすものはなにもない――。
実際、サハルはコトナを寵愛した。
背高で彫りの深い顔だちにかかる茶色の巻き毛、その髪の間からのぞく艶のある碧眼。サハルは眉目秀麗な男だった。
だがコトナを魅了したのは、この王子が持つ王譲りの蠱惑的な声色と、どこまでも自信に満ちた口調のほうだ。
(私はずっと孤独で、空虚で……サハルがいなければ、生きる寄る辺がなくて)
サハルは幼いころからその容姿と物言いで人を惹きつけてやまず、十代の終わりにはもう、何人もの男女が王子の言いなりだったが、その裏で何人の政敵や愛人が、城の地下洞窟に消えたのか……コトナはもう覚えていない。
(ここの闇が、私の世界の中心だった)
でも私は、まちがってた。
コトナは固くまぶたを閉じる。
ユラに会う以前のコトナはただ、サハルの心地よい言葉に従っていればよかった。
牢につながれた者たちは例外なく、大罪を犯した悪人ばかり。
だから闇の中で死病に取り憑かれる。
ならばその前に灰色の魔獣に喰われてしまっても、たどりつく場所は皆同じ。
(かつて私は、暗闇で絶対の神だった)
だけどユラにだけは、ごまかしはきかない。
声に出せ。言葉にするんだ、今の気持ちを。
「サハルは……私を使って、自分に都合の悪い人を消してただけ。私は神なんかじゃない、ただの人殺しで……だから山賊城塞の人は私を『疫病みの子』って呼んでたんだよね」
コトナの両手が震えた。悔やんでも後の祭り。他人の甘言にのって簡単に力を使うなんて、本当はいけないことだった。
「今更すぎるけど……私はもう、闇使徒を動かして囚人を殺すつもりはないよ、私はただ」
泣きたい気持ちでコトナはユラを見つめる。
――あなたを助けたくて、ここに来た。
だけどこれ以上は口に出せない。
この洞窟は、かつて妖魔の糧となった者たちの怨嗟の念で満ちている。
そんななかで他でもない自分が……ユラにだけそんな調子の良い台詞を吐くなんて、いかにもおこがましすぎる。
必死の思いは声にならず、ユラもまた無言だった。二人の間に長い沈黙が落ち、コトナは絶望的な気分になった。
「……コトナ。ファティマは、どこにいる」
その時、ようやくユラが低い声を出した。コトナはびくりと両肩を震わせる。
「王軍が山賊城塞を襲撃した日、ファティマもおまえを庇って捕らわれたはずだ」
ファティマはどこだ、とユラはもう一度強くくり返した。
コトナは天敵を前にして動けなくなった獲物のように喘ぎ、
「あ、あの人は今……」
言葉を探しながら、そうか、と妙に得心した。
腹がすっと冷えていく。
ユラは私を救いに来たんじゃない、あの人を助けに来たんだ。
あの日。山賊城塞最後の日。
街は炎で焼かれ、山賊たちが隣国へ行き留守だった頭領館も、あっという間に王軍の精鋭に占拠された。
――少し背が伸びたな、俺の柘榴石。
コトナはファティマの部屋で、もう会うことはないと思っていたサハルに再会した。
前王が病没し、王に即位したサハルは、自ら先頭に立って反対勢力を掃討しにかかったのだ。
かつては夢にまでみた邂逅のはずなのに、その瞬間コトナの背筋には悪寒が走った――踏みこんできた甲冑の男は、一国の王と言うよりむしろ、ざらざらした殺意を隠そうともしない、本物のならず者に見えたのだ。
その時、ファティマはコトナを自分の背に庇い、サハルに短剣をむけていた。
ならず者はふとファテイマに視線をやり、その短剣の切っ先が細かく震えているのに気づいた。
――ほう、これは。わざわざ出張ってきたかいがあったな。
形の良い唇が残酷につり上がる。
王が後ろに控えていた部下たちに合図すると、五、六人の兵士がコトナを取り囲んだ。
部屋を出たところで背後の扉が閉まる。
サハル、お願いだからファティマを殺さないでっ、コトナは泣きわめいたけれど無駄だった。
無理矢理輿に乗せられ、煙渦巻く街を後にこの城に帰って半年がすぎ……コトナの自室軟禁が解けたのはつい先月のことだ。
そして一昨日の晩、久々に王の部屋に来るよう命じられ――コトナは見てしまった。
王の部屋の中から、言い争う男女の声。
ついで荒く扉が開かれ、夜着姿の女が雉鳩のごとく廊下に飛び出してくる。
その白い手を掴んで引き戻し、扉に押しつけて、甘い言葉を浴びせながら無理矢理接吻するサハル――。
それは……いつもの、光景だった。
これまでにもコトナはたいがい人気の無い夜に居室に呼ばれ、地下への鍵を渡されてきた。
だから閨の睦事を目撃することも過去、何度か経験があった。
あられもない男女の抱擁を見せつけられて、なにも感じなかったといえば嘘になる。
……サハルは私を愛していると言うけれど、私は一体、この人の何なんだろう。
女でないのはたしかだ。かといって娘でもない。
そう言えばサハルはやわらかで優しいけれど、ユラのように、一度でもなにか自分で考えてみろと言ったことはなかったな――。
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