差別について考えてみた。

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差別とはなんだろうか?  何故そんなにも過敏になるのだろうか。いや、本人たちが、ではなく周りの人たちが、である。それは差別用語だとか、だから使っちゃあいけないだとか騒いでいるのは、大抵は自分はそうではないが、という人たちである。本人たちがどう思っているのかはまた私も知らないから、そうやって差別だとか騒ぐ人たちと何ら変わらないかもしれない。  それに私には知も無い。何がどういう考えで差別だと言われるのか。どれが差別用語なのか。そもそも普段使っている言葉の中にはそんなもの恐らくないはずだ。それが差別になるということも知らない。どんな語源で、どんな風に使われてきた言葉か、なんて普段から考えて言葉を選ぶ者はまずいまい。だからといって無知のせいで相手を知らず知らずのうちに傷付けて、距離が開いてしまうのは避けたい。だから差別用語として分類してしまうのだろうか。  それならば、何故国民全員がそれを知るように告知しないのか。知らない人なんてたくさんいる。メディアで大きく問題になって初めて知る者だっている。私もその一人だ。 「それって差別用語じゃなかったっけ」  と言われるまで、その言葉がその対象であるものを侮蔑していたなんて知らなかった、なんてことはざらにある。  私は侮蔑している気持ちはない。ただそのくくりを示しただけだ。はっきり言ってしまえば、区別しただけなのだ。会話の話題であるものを対象化しただけなのだ。  相手を自分の中の“普通”と区別して、嘲り見下すような真似はしない。  そもそも、だ。差別するとはなんなのか?  大辞泉を調べてみれば、第一の意味では「あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。」となっている。この意味に準じてみれば、差別化することそのものは悪いことではない。言葉の使用者が弱者だとみなし見下して使うから“悪”になるのだ。ではあるが、第二の意味では「取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。」となっている。こちらの意味に準拠すれば、ある言葉の語源や使われてきた歴史を鑑みて“言葉の対象を貶めている”と判断されて公的には使うべきではないとされているのだろう。  だが、これは差別用語だと言われてハイそうですか、とはいかない。何故これが差別的だとみなされ、使ってはいけないとされたのか、その理由が知りたいのだ。調べても出てこない。納得がいかない。言葉そのものに悪意が込められているのか?違うのか?嘲りの意味を込めて使われたから駄目なのか?そこが知りたいのだ。純粋にその理由が知りたいのだ。あるものとあるものを区別したその言葉を聞いて不愉快になる人がいるから、などというあやふやな理由では決してないはずだ。はっきりとした基準があるはずなのだ。そうでなければ「お前に生きている価値はない」(価値があると思われる人間と区別している)、「負け」(勝ちと比べているし屈辱的である)、「変態」、「根クラ」、etcetc...数え上げればきりがない。比較しないで物事を見ることは出来ないし、常に人々は何かと何かを比べている。優っているか劣っているか、人々は常にこれを気にしている。これは潜在的なものだ、誰もが思うことだ。寧ろそれが無ければ向上心など生まれない。好敵手(ライバル)という存在など生まれない。それが無ければ切磋琢磨する物語もアツいバトルも繰り広げられない。  みんな違ってみんな良い、これは多様性に対する寛容さを表していて、素敵だと思う、自分もこうありたいと思う。個性は失ってはいけないし、あることを強制してもいけない。そもそも個性も他人と差別化することでこれは自分特有なのだと認知することで“個性だ”と認識する。  私は自分は当事者ではないのに過剰に反応している人を見るといつも、あぁこの人は、こういう特性をもった人たちを弱者だと認識しているのだ、あるいは少数派だから肩身が狭い思いをしているに違いないと認識しているのだ、と思う。確かに本人たちは声を大にしては言えないだろう。今の社会が、いろんな考えがあって良いと表向きは言っているが、その実、小さな違いも淘汰しようとするこの社会がそうしている。だがそれは、今この時この地に生きるものたちが形づくっているものだ。少し時を遡れば社会全体の思想が全然違う、また少し時を進めれば今とは違う思想が浸透しているかもしれない。それはわからないが、今現在そう思っている人たちが多いから差別だと思われる。  私は無知だ。多くのことは知らない。これを読んで何を馬鹿なことを言ってるんだと思う人もいるだろう。論点がずれていると思う人もいるかも知れない。しかし私はこういう思想で物事を考えている。考えをまとめるために書いている。書きながら、その過程で思い至ったことは、差別することは悪ではない、差別をした上で貶めることが悪なのだ、ということだ。同情だとか嘲りだとか、そう言うものが、言葉そのものを“タブー”にしているのだ。  他人の考えを理解しようとするな、自分の考えを理解させようとするな。自分の最大の理解者は自分である。思うに、唯一他者と理解の上で共有できるのは、確かな理論の上に成り立った学問しかない。自分の気持ちや思想を、他者に理解してもらえると思ってはいけない。なぜか?歩んできた人生が違うからだ。見てきたもの、聞いてきたもの、出会ったもの触れたもの。それら全てが違う、受け取り方も違う。感情は、言葉にして初めて感情になる、という文章を読んだことがある。これにはおおいに納得した。確かにそうだと思った。言葉にして一般化することで、自分が今どんな感情を抱いたのかが簡単にわかる、説明できる。だがその感情が湧き上がってくるとき、私たちはその感情が何かをまだ知らない。言葉に出したとて、それは相手に伝わっていない。自分と同じように湧き上がってきたものではない。共感は出来ても、理解は出来ない。  理解できないものを貶めてはいけない。そこに“ある”という事実だけを認識していれば良い。己の定規の目盛りの幅は、己の生きてきた人生の中で決まる。似通った幅の人もいれば全く違う幅の人もいる。ただ、ゲノムのように、全く同じ幅の人など存在しない。“普通”など存在しない。己だって特殊なのだ。ただそこに存在する、ということだけが事実なのだ。その事実さえあれば良い。  理解することが出来ないのならば理解する必要はない。自分が良いと思うままに生きれば良い。自分も他者を理解する必要はない。“ある”ことを自分の意識の内に認めるだけでいい。受け入れる、受け入れないは問題ではない。受け入れようと受け入れなかろうと、“ある”ことは現実だからだ。それらをどう受け止めるかは自分次第だが。  その上で他者との繋がりを持てば良い。  上手くまとめられなかったかもしれないが、今思うのは、そろそろある言葉についてそれは差別だとかそうじゃないだとかの議論そのものが無くなれば良いと、ただそれだけを願う。何故ならばその議論こそが言葉の対象が弱者かあるいはマイノリティ(少数であることが弱者であるとは限らないが)なのか、そうでないのか、という議論そのものだからである。
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