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1.水野朋美の恋
もうじき、このアパートともお別れ。
四年間分の「ありがとう」を込めて、綺麗に掃除をしてあげる。
そんな片付けの手が、ふと止まる。
懐かしい……高校の卒業アルバムを見付けて。
「みんな、若いなー……可愛いなぁ」
そんな言葉が、思わず零れ出る。
パラパラとアルバムをめくる度に蘇る、思い出の校舎……懐かしの笑い声。
みんな、それぞれの夢を目指して卒業していった。たった一冊のアルバムの中に、青春の面影を残して。
「あれから四年、か……」
高校卒業後、私は都内の大学へと進学を決めた。生まれて初めて親元を離れて、このアパートでの一人暮らしを始めた。
高校の時より、少しだけ大人に近づいた四年間。かけがえのない青春の日々。
私は、その四年間の中で確かな夢を見付けられた。大学を出たこの先、その夢へと向かって羽ばたいていく時が来たのだと実感している。
これこそが、私が追い求めていく夢。一生をかけて歩み続けていく道。
そんな素晴らしい夢を見付けられた大学生活は、とても充実していて楽しかった。
それでも、どこか満ち足りない……高校の時には確かに胸の奥にあった、素敵な想いがどこかへと消えてしまっていた。
それは、きっと――。
「……森下君」
アルバムの中で、ひときわ輝いて見える男子の姿を見付ける。
森下哲也君――私が、初めて恋をした人の名前。在学中は、一度も呼ぶことが出来なかった名前。
初めて彼を目にしたのは、偶然だった。
放課後、二階の渡り廊下の窓から目にしたサッカー部の練習。その何でもない風景の中に、森下君はいた。
大勢のサッカー部員の中で、私の目はどうしても彼だけしか映さなかった。
二人を隔てる窓ガラスにそっと手を添えて、遠くからいつも彼だけを見ていた。
森下君はきっと、私の視線になんか気づいていない。そう考えると、私の想いはいっそう激しくなって、小さな胸を焦がしていった。
「会いたい、な……」
何、バカなこと呟いてるんだろう。同じ学校に通ってた、あの時だって一度も声を掛けられなかったくせに。
森下君が部活を引退するまで、ただ見つめていることしか出来なかった恋。
面と向かって想いを告げることはおろか、誰にも相談することさえ出来なかった片想い。
生まれて初めて知った、切ない恋心……本気の恋だったから、誰にも打ち明けられなかった。
大学生活の四年間は、多くの仲間と知り合えた。けど、かつて森下君に抱いたような熱い想いは、ずっと忘れていた。
こうして卒業アルバムをめくってみれば、あの時と同じように胸が締め付けられる。
この写真のように、鮮やかな色を放って思い出を蘇らせてくれる。まだ、セピア色にはなっていない。
森下君の顔を見られなくなってから四年。それでも、初恋の貴方は今も私の心の中に息づいている。
「――森下君へ。四年ぶりですね。お元気にしていましたか?」
気が付けば、私は手紙を書いていた。宛先はもちろん、私が初めて好きになった人。
遠くから眺めているだけだった憧れの人。一度も話したことのない、サッカー部ということ以外に何も知らない相手。
そういえば名前だって、卒業後にこのアルバムを開いて初めて知ったんだっけ。
それなのに貴方への想いは、こんなにもたくさんの言葉で綴られていく。
四年間、一度もその名前を口にしたことはなかった。それでも心の奥には、いつだって森下君がいてくれた。
辛い時や挫けそうになった時、きっと高校時代に抱いていた森下君への想いが私を励ましてくれていたんだと思う。
人を好きになるという、人生で一番素敵な感情を私は持っていた。だから今の私があるんだし、どんなことがあっても負けたりはしない。
そして、そういった頑張りがあったから私は夢を見付けることが出来た。
全ての始まりは、あの日、サッカーをしている森下君を見付けた時。汗を輝かせて笑っていた森下君に恋をした時。
その時に生まれた想いが、今の私を支えてくれている。
だから森下君への感謝の想いを、こうして言葉にして表している。
今、どこにいるのかも分からない森下君が、この手紙を読むことは無い。それでも伝えたい恋がある。
「私は、森下君が……好きです」
* * *
今日は初出社の日。今日から社会人。
初日から遅刻は出来ないと早目に玄関を出たはずなのに、朝のラッシュは予想以上の大混雑。電車を一本、見送ってしまった。
履き慣れないパンプスで指先を痛めながら、地下鉄の階段を急いで駆け上がっていく。
定期券を仕舞おうとバッグを開いたところで、心臓がキュッと音を立てた。
「え……無い?」
階段の途中で立ち止まり、思わず零れる独り言。
今朝、確かにバッグに入れたはずの便箋が無くなっている。
ポストに入れる予定があった訳ではないけれど、誰かに拾われて中身を見られるのは困る。
あれは、森下君宛に書いた手紙だから。
森下君への想いを忘れないよう、お守り代わりにバッグの中に入れていた手紙。
どこで落としたんだろう。慌てて階段を引き返そうと、一段下りたところで足が止まる。
探していたピンク色の便箋。それを持って、こちらを見上げているスーツ姿の男性。
まだ若い、大学生ぐらいにも見えるその人は、ジッと私の顔を見つめている。
私の方も、急いで手紙を返してもらいたいはずなのに、階段の下にいる男性を見つめたまま動けなかった。
その顔は、少し大人になったけれど思い出の中と同じもの。
手紙に綴った想いを伝えたいと願った相手――森下君だった。
どうして目の前に森下君がいるのか、どうして私が書いた手紙を手にしているのか。
戸惑いと嬉しさから激しく高鳴る胸を押さえて、ゆっくりと階段を下りていく。
スーツ姿の森下君も、私に近付いて微笑みかけてくる。
「水野さん――」
初めて聞いた森下君の声。初めて呼ばれた、私の名前。
憧れの人に名前を呼んでもらえるのって、こんなに嬉しいんだ。
温かい涙を心の中いっぱいに溜めながら、私も森下君の名前を呼んだ。
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