抜殻-01

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抜殻-01

悪夢だった。 海岸が埋め尽くされていた。 手に握った缶ビールが汗を掻く。 ――潮風は腐臭。 焦げ付くような感触の何かが大気を染める。黒。モヤのような煙のような何かが滲み出し、水槽に落とされた墨のように正常を浸食していく。 青年はただ目を疑い、硬直していた。 眼前の異常が消えない。 背筋を撫で回す悪寒が消えない。 それどころか、無数の視線が自分に気付き、ずるずると這い寄ってくる。 息が出来ない。 ――海から、這い上がってくる者たちがいる。 無数の人間、の残骸。 それは死体だ。 海水を吸い、腐乱し崩れ落ちかけている死者たちが、波を割って海から這い上がってくる。 するり。手が軽くなる。 手の平から缶ビールが落ちたようだった。そんなことも認識できず、ただ生理的な嫌悪と拒絶に従って、尻餅をついた体は後ずさっていた。よく分からない声を上げながら。 お盆に海辺へ行ってはいけないと言われた。 遠い昔。 口うるさい婆さんの言いつけ。罰が当たったのだろう。破るべきではなかった教え。 自分の罰当たりがこれを招いた? 違う。 自分はただいつものように、大海を見て癒されたかっただけだ。 間違っている。 こんなのは有り得ない。 だっていうのに、ふらふらと寄ってきた死者は確かに実在。よく出来たメイクだ、と嘲ってやりたい。生身だと認識したくない、そのくらいに崩れたニンゲン。 手が差し伸ばされる。 きっと引きずり込むために。 自分を、死体の仲間にするために。もしくは一方的に食い荒らされるのかも知れない。 群がる呻きたちの中で、ただ叫んだ。 助けてくれ、なんて。 どこにも届くことのない声を。 ――掬われた。 「ふぬんっ!」 その時、被害者と加害者の間に突風が割り込んだ。 一瞬間の視線の交差。 見えた面は、人でなくキツネ。振るわれた鋼が死者を断ち、悲鳴を上げさせ、この世から永久に消失させる。 「下がりたまえ。ここは自分が引き受けよう」 いつの間にか背中がある。 誰とも知れない、着物の背中が。 群がる非現実を前にして、しかしその波を押しとどめるに十分な存在感。ヤケに大きな背中を呆然と見上げていた。 「しっかりしたまえ青年。主も1人の男であろう? 海の者なら、しっかり津波から故郷を守らねばな。無理か。うむ、災害は無理だな。はっはっは!」 豪快な笑声と、場違い極まりないキツネの仮面に、恐らく自分も引きつった笑みを浮かべていただろう。 ヤケにガタイのいい男。 キツネの仮面。 砂を踏む草鞋に、厚手の着物を着込んだ男。まるで遠い時代の侍だった。 奇抜な出で立ちにまた目を疑う。 そんな自分の横を抜け、スーツケース片手に、少し年上くらいであろう青年が颯爽と前に出た。死者の手を無慈悲に打ち払う。 「……2週間前。この近海で、密入国の大型船が沈んだ。大規模な密入国だったらしい。日本の土を踏みたいという一心が、呪いとなり幻像を残留させ、死してなおこの国を目指す怨霊となった。まるで百鬼夜行だな」 理知のまなざし。 凛とした横顔は、なぜか『高学歴』という言葉を連想させた。 スーツケースを肩に掛け、厳しい視線で死者たちを見回し、彼はキツネ面に問う。 「やれるか」 「無論。我が輩に斬れぬ者無し」 ふぅ、と安堵の息を吐いた。 「頼りになるよ。安心して休ませてもらおう」 安堵? 何故安堵するのだろう。無数の非現実がまだ、目の前で蠢いているというのに。 そんな視線に気付いてか、彼はどこか安心させるような笑みを返してきた。 「ああ、もう安心していい。うちの用心棒は優秀だ。生者だろうと亡霊だろうと、この世にあいつ以上の強者などいない」 「ぬぅうううあああああああっ!」 斬、斬、と死者を掻き消す。 鋼の軌跡は剛胆だった。込められた膂力が人間じゃない。風薙ぎが工業機械じみている。 キツネ面の横顔に、自分はまた視線で問いかけていた。 奴らが海から這い寄るバケモノならば、それらにたった1人で立ち向かおうとするあんたは、一体何者なんだと。 「我が輩か? 我が輩の名は――」 斬。 舞い散る呪いの向こうに立って、逆行の中、キツネ面が見下ろしてくる。 その背中は。 「――――善なる凶刃、人斬りチギリ」 まるで、正義のヒーローのようだった。 + 「短いバカンスだったな」 「まったくだ。旅館はボロい、料理はいまいち、立地も悪くてまるで観光といった風情じゃない」 チェックアウトは滞りなく終わった。 旅館を後に、長い坂道を下る途中、俺は隣の大男に愚痴らしきものを吐いていた。 文句一色。 高級に慣れた身としては少し物足りなかった。貧相だったと言ってもいい。質素極まりない旅行。 が、めざとい男は面の奥の瞳で見透かしてくる。 「その割には、随分と楽しんでいたようだが?」 「まぁね。温泉はよかったよ。従業員の人柄も。田舎だからかも知れない」 キツネ面と共に、遠い青い空を見上げて陶然。 「女将……美人だったなぁ」 「うむ。大変な美人であった」 笑顔だ。笑顔が人を幸せにするんだ。 美人女将だけに留まらず、不覚にも今回の旅行は満足できる内容だった。なにせ誰も彼も人がいい。 素敵な思い出を回想していると、引っ掛かった。ひとつだけ釘を刺しておかねばならない。 「しかしだな、血霧」 「む?」 「旅行の時くらい、仮面は外せ。視線が痛くてしょうがない」 「そうか、しかしよもや外すわけにはいくまいよ。何故ならこれは仮面だからだ。仮面は顔に付けてこそ仮面。外してしまっては、ただの置物」 だからなんでそこまでこだわるんだ、仮面に。 スーツケースを肩に担ぐ。 「外すと死ぬのか」 「哲学的に言えばな」 「病気か」 「医学的に言えばそうだろう」 「瞬接でくっつけて外せなくなったとか」 「そのように喩えられなくもない。あるいは答えなど、宇宙の果てまでないのかも知れないな」 長い坂道。 緑溢れる悠久の景観。ところどころ旅館の頭、そして見渡した先は海。 ふ、と唇を撫でる。 俺は毒のような黒々しい空気を纏い、威嚇の視線で男を見上げた。 「……命令だ。いますぐその仮面を外せ」 空気が重く沈み、長い坂道にしばし無言が訪れた。 だが俺の命令は、岩山のような男に、逆に威嚇の殺気で押し返されてしまった。 「――」 仮面の角度が僅かに変わる。 それだけで、狐面が死刑執行官のものに変わった気がした。 大きすぎる氷塊が俺を睥睨する。 「笑止。圭介よ、我が輩は用心棒であって下僕ではない。何の故あって命を下す?」 「仰る通りで」 両手を上げて降伏宣言。 いやはやなんとも本職の剣気。わざわざ、抵抗してまで中年の素顔を暴く気にはなれなかった。迷宮入りだ。 気を取り直し、俺たちは改めて坂道を下り始める。 「圭介、主はもう少し冷酷になれ。そんな甘い殺気では虚勢も張れない」 「美男子だからな。どんな顔しても甘いんだ」 キツネ面の大男。 名前はチギリ。人斬り血霧。自称、善なる凶刃・人斬り血霧。 少し変わった縁で出会って以来、俺と行動を共にしている剣客だ。 別名最強。 鉄槌のような剛剣。 こいつを越える達人を、俺は知らない。 本人もさっき言っていたが、要は俺の用心棒みたいなものだ。 ――いまどき時代錯誤極まりないが。 ――俺には、氷堂圭介には血霧の剣がどうしても必要なのだ。 ふと腕時計に目を下ろす。 時間が迫りつつあった。少し足を速めよう。 「さて、休日は終いだ。帰って仕事再開といこう」 「うむ――」 と深く頷きかけるが、止まった。 海辺の激闘を思い返して。 「圭介よ。我が輩、ちぃとも休んでおらぬのではないか?」 「気のせいだろ。悪い夢でもみたんじゃないか」 坂道の終わりが見えてきた。 すぐに駅。 1時間1本の列車を受け入れるだけの場所。 レンガ造りの錆びた広場で、スーツでかっちり身を固めた女性がぽつんと立ち尽くしていた。 「やあ唯香。お迎えご苦労」 「温泉」 刺々しい声。たっぷり皮肉まで塗りつけて。 うちの秘書は拗ねるとあからさまに刺々しい。 「……温泉旅行は楽しかったですか? 圭、介、さん」 許せ。ペアチケットだったんだ。 + 父は議員。 いわゆる政治屋。 このご時世に、真面目に日本を良くしようなんて考えるいいオヤジ。 自分はせいぜい市会議員候補。 役職はあるが語るだけ恥だ。 つまらない委員会のつまらない長。そこらの金持ちと変わりないだろう。 中身のないただの金持ち家長男。 趣味・国外旅行、スポーツはテニス辺りが良好。人当たりそれなり、二十代後半で独身。 それが、氷堂圭介という俺の表向きだった。 「唯香。何か飲み物はないか」 「ありません」 拗ねていた。 対面の席で肩をいからせ目を閉じている。 列車は静かに動き出す。さよなら田舎。さよなら美人女将。あの過剰なまでの優しさが恋しい。 隣の大男に尋ねる。 「血霧。何か食べ物はないか」 「異常に美味いチーズちくわなら。食うかね」 「ひとつもらおう」 もぐむしゃ、ごっくん。うむ、異常に美味い。 「……唯香も食べるか?」 「いりませんっ」 拗ね続けていた。 そんなに温泉行きたかったのか。それとも置いてけぼりで仕事山積み押しつけたのが気に食わなかったのか、そりゃ怒るわな。常識的に考えて。 ――木戸唯香、俺の秘書。見ての通りの鋼鉄女。容姿はそこらの同世代と変わりないんだが。 血霧と同じく、俺の家族みたいなものだ。 「あのな唯香、」 「そうですね」 「まだ何も言ってない」 「そうですか」 「怒った顔も素敵だね」 「それはよかったですねー」 つれない。うちのじーさんが趣味でやってる釣り堀よりもつれない。 肩を竦め、俺は片肘突いて車窓を眺めることにした。 氷堂圭介がそこにいる。 旅行疲れもそこそこに、何かを思案している男の横顔。 ここにいる3人は共犯者。 あるいは秘密の共有。あるいは秘匿の仕事人。あるいは―― 「………」 まだ鮮明な記憶。 海辺の死者掃討を思い返した。 危機を救われた地元の青年は、俺たちに向かって、「まるでヒーローみたいだ」と言っていた。 そんなにいい物じゃないと思うが、ニュアンスは近しいのかも知れない。 属する組織も、協力者もなく、本拠もなければ仕事ですらない。 ただ無所属のまま、邪を祓う俺たちに、仮に名前を付けるなら。 「……………退魔……剣……いや、盾……」 「む?」 血霧が声を上げる。唯香にも聞こえていたらしい。何故か、憎悪の視線を向けられる。 「……誰が縦向きな性格ですか」 どんな日本語。 しかしどうにも、本気で怒っているらしい。 「唯香」 「いい天気ですねー」 「どこへ行きたい?」 「北極でペンギンさんと戯れたいですねー」 「いないだろ。無茶言うな」 強めに遮ると、唯香は叱られた子供のように短く呟いた。 「……そうですね。熱海とか、いいと思いますよ」 目を光らせ、肘で男に合図する。 「熱海だな。よしOK、今年の冬は熱海へ行こう。いいな血霧。反対するなよ」 「無論賛成。さすが唯香、よい選択だ」 ふっふっふ、と2人して声を漏らす。 「え……まさか、本当に連れて行ってくれるんですか?」 期待と驚きの混じった瞳。 それに俺は、日頃の感謝を込めて、多少強気に笑ってやった。 「当然だろ。何のための御曹司だ?」 「…………」 キラキラしてる。眼が。俺に尊敬の念波を送信している。 そのラブコールにブルジョワらしく髪を掻き上げて応え、サッと身を翻す。 (……すまないがしばらく節約生活だ。我慢してくれるか) (……構わぬ。身内に後ろから刺されるよりはマシだ。唯香は腕力はないが、闇討ちなら我が輩よりよほど卓越している) ああ確かに。いまでこそ秘書らしい秘書しているが、この前用事で部屋に行った時、化粧台にロシアの軍用拳銃置いてあったのを俺は忘れない。 そんなミリタリー女を盗み見る。 「熱海……熱海……あたみたみ」 ぽわぽわしてる。眼が。遠い地へと旅立っていた。 「む。そうだ圭介、少しよいかね」 「ん?」 「例の捜しものの件だ。旅行前に噂を聞いた。いまのいままですっかり忘れていたが」 目が冴える。 新情報。 ここのところまったく入手できなかったが。 「……聞かせてくれ」 キツネの仮面を注視する。 捜しもの。 俺たちは探していたのだ。 “彼ら”を。 「うむ。それがだな……」 声に意識を集中する。 届いてくれ。 今度こそ、接触する手がかりとなってくれ――。 「彼らは…………猫の仮面を、被っているらしい」 「……」 仮面。 なるほど仮面。 そうだったのか。彼らは猫仮面だったのか。それを“新情報”と語る男も何故か、年中似たようなものを身につけているのだが。 「……なぁ血霧。このキツネ面」 「偶然だ」 「おまえ絶対なんか知ってるんだろ? やっぱり関係あるんだろ? 呪いや亡霊に対する、そういう組織的な――」 「いやいや。そんな繋がりがあれば、我が輩とて――む」 「うお!?」 その時、電車が大きく揺れた。 乗客たちも揃って揺られ、思い思いの声を上げる。血霧は変わらず悠然としていたが。 「……なんだ?」 失速する。 ブレーキの甲高い音。 ほどなくして、列車は完全に停車した。 「……いやですね。せっかくいい気分だったのに」 沈んだ声で、唯香は悲しげに呟いた。 「…………飛び込み自殺だなんて……どうして」 眼が細まる。 自殺? 人身事故の衝撃だったのか? しかし断言できるような材料はなかったはずだ。これは、つまり。 「“視えた”のか」 「ええ……長い間溜め込んでたんでしょうね。この窓にもべったり……」 そう言って唯香が示した窓。俺には何も視えない。ただガラスと向こうの風景があるだけだった。 ――唯香の眼。 彼女は霊視に似て非なる不可思議な能力を保有しているのだ。 「……べっとりと……まるで重油みたいに濁った“泥”……」 唯香には、人間の“何か”が“泥”として視える。 それは罪。汚れ。悪意。絶望。 そういった、呪いによく似た、しかし別の何かを泥として視認する能力。恐らく、この自殺者が列車に接触し、溜め込んでいた“泥”を破裂させてしまったのだろう。 ――それらは何を起こすでもなく、何をねじ曲げるでもなく。 ただ遺書のように、唯香に訴えるだけなのだ。彼もしくは彼女が、こんなにも泥を溜め込んでしまうくらいに追いつめられていたことを。 「2人……いや、3人。手を繋いで仲良く終いか。若いな。まだ中学生くらいではないか」 一方血霧は、見通すように電車の前方を睨んでいた。 こちらは呪いを読んでいる。 呪いなら、俺にも多少は見える。確かに大気を漂っていた。しかし血霧の霊視は、そこから自殺の瞬間を回想するところまでいけるらしい。 2人の意見を纏めると、絶望し頭を抱えている車掌の姿が目に浮かんだ。 だがそれだけではない。 俺はある一点に引っ掛かりを覚えた。 「どうにもよろしくないな」 「ああ」 騒がしい乗客たちの声を意識の隅に追いやり、思い返す。 宿泊時、海辺で蹴散らした亡者たち。 この電車自殺。 そして。 「これで3件目(・・・)だ。頻度が高すぎる」 俺たちは、旅館の夜も、無数の亡霊に襲われたのだ。 行く先々で異変が起きる。 この感覚は知っている。 前にも体験したことがあった。 誰かが呪いを振り撒いているのだ。ただそこにいるだけで、周囲にまで感染してしまう怨嗟の塊。そんなものに覚えがあった。 「…………“鬼”ですか。またあいつが」 「だろうな。まず間違いない」 窓を開ける。 雪崩れ込んでくる風には、山の匂いに紛れ、確かに奴の気配が混じっていた。 俺は2人を振り返り、決断した。 「列車を降りるぞ。災禍をひきつけてこの場から離れる」 目の前には、深い森が広がっている。 + 高い木々が陽光を遮り、昼の森を夜の墓場に仕立て上げていた。 草を踏み分け、3人で奥へ奥へと駆けていく。 「……っ」 進むごとに、唯香の表情が鈍った。 視えているのだろう。泥が。 「……左です……たぶん、もう、すぐそこに……」 唯香は目を伏せ、そう言ったが。 「………」 無数のカラスが、耳障りな声を上げながら飛び立っていった。 聞くまでもなかった。 俺も血霧も、声を失くし、ただその光景を見上げていたから。 農村があった。 ここは入り口。もしくは裏口。 ……ばたり、ぱたりと草の地面に落ちて染み込む。 広葉樹の頂上。 「……見るな、唯香」 「え……?」 遮る。 しかし、見上げてしまった。 まるで旗のように飾られた、8人分の死体があった。 「――――」 唯香が、表情を喪失する。 影になっていて、死体たちの詳細は伺えない。 ただ。 人間は、あんな歪な形じゃなかったはずだ。 声なき声が木霊する。 俺たちを認め、周囲に呪いが具現化していく。 遠く近い絶叫が耳をつんざく。 彼らは藻掻き苦しんでいた。死してなお、尾の端から喰われているらしい。 「……いくぞ」 「……」 死体で出来た門をくぐり、俺たちはその農村へと足を踏み入れた。 腐臭。死臭。地獄絵図。 大気ごと、黒ずんだ血とその臭いで腐らされていた。 青空の下。 夥しい数の死体があった。 青田の中心でカラスに集られるカカシ。苦悶の表情を浮かべていた。 納屋に首輪で繋がれた人間の残骸。上半身と下半身がねじ切れ、内蔵を溢れさせていた。 あちこちの地面に農具と、それに刺さった残骸がいた。まるで品評会。趣向を凝らして殺されていた。 ――この村を喰らうだけでは飽き足りなかったのか。 明らかに農村の出ではない者たちもいる。 終わっている。 ここは完全に食らいつくされた跡だった。 ……最後に、広場。 高く積まれた死体の肉山。 無数の、腐るまで弄ばれたヒトの残骸。 光を失った眼球たちが俺を射る。 その頂上で、そいつは俺たちを、待っていた。 「ぃよう」 赤い赤い鬼の面。 血霧よりも更に高い異様な長身。 声は老爺。カラスによく似た不吉な声音。ただ見る者を圧倒する、おぞましいものがそこにいた。 「遅いぞ血霧。主が遅いから、もうほとんど終わらせてしもうた。もう最後を片付けて帰ろうかと思っとったところじゃい」 その大男は、吐く息すら血臭がする。 俺は血の気を失い、蒼白になっていた。 ここまでの地獄。 これを防ぐことが出来なかった。受け入れられない。もう、奴を倒したって遅すぎる。 そんながらくたと化した俺の頭に、小さな声が届いたのだ。 「ぅ……あ……」 死体の肉色に埋もれて気付かなかった。 鬼は、右手に、若い女を引きずっていたのだ。 残骸。 略奪されきってしまった人間。 潰れた右目。折れた四肢。血と涙と恐怖で爛れた顔が、しかしまだかすかに呼吸していた。 「鬼蜻蜒、貴様――!」 「世話になったんでな。お礼に喰らってやったのさ」 生存者だ。 唯一の生存者を認識し、俺たちは即座に散開しようとする。 「動くな血霧。そら、見ろ」 「……!」 しかし、止められてしまった。 肉の山から見下ろしてくる悪鬼に。 「この娘の腹。まるで妊婦じゃのぅ、だが、妊婦の腹はここまで生々しく蠢かんのぅ」 確かに、奇妙だった。 視界が狭まる。 その蠢き方は、例えるなら―― 「一体何を詰めたと思う? きき、かっかっかっか!」 ――まるで、無数の蛆虫が内側から食い破ろうとしているようだった。 「なんということを……!」 ――鬼蜻蜒。 悪。 ただそこにいるだけで、強すぎる呪いを無差別に振り撒き、周囲に災禍を呼ぶ悪鬼。 奴の立つ土は腐る。 奴が触れた人間は精神を浸食される。 奴自らも、自分のいる場を嬉々として地獄絵図に作り変える。 俺たちの宿敵だった。 妊婦が、否、まだ年若い少女が断末魔を上げる。折れた手足で暴れようとする。 「やめろ……」 弱り切った猫のような声で、蠢き始めた腹のナカミに内臓を喰われ、恐怖し、藻掻こうとしてしかし鬼蜻蜒に押さえつけられる。 俺は懇願した。 血霧は飛びかかる。 「やめろ――頼むやめてくれ!」 ――爆ぜた。 音を立てて。 俺の声が、トドメになったかのように。 「………」 俺の顔に、なまあたたかいものが付着する。 溢れたのは、蜘蛛だった。 外気に触れた端から死んでいく。裂けた自分の腹部から、わらわらと溢れ出しては死んでいく蟲。そんなものを見ながら少女は死んだ。 「貴様ぁぁぁあああああああああああっっ!!!」 「きき――かか、かあああああっかっかっかっかっかっかっかっか!!」 斬りかかる血霧の剛剣。それを猿のように躱し、俺の背後に鬼蜻蜒が降り立った。 「……おう、やめたぞ。やめてやった。しっかり(あや)めてやったとも圭介」 肩を叩き、耳元で嘲弄する声。 唯香が叫んで銃を向ける。しかしそんなものは意識に入らなかった。 「っかァ! ひどいのぅ主らは、儂は殺すつもりなんぞなかったのに! 生かしたまま先 2ヶ月は遊べると思ったのに、ひどいのぅ、可哀想じゃのぅ、かっかっかっか!」 血の雨を振り払うように、叫んだ。 「胡蝶ッ!」 『あいよ!』 「ぬう――っ!?」 回して順手、俺が抜いたのは艶やかな装飾の懐剣。 鬼蜻蜒も察したらしい、 見掛け倒しではない。滲み出す濃い呪いの気配に、鬼蜻蜒は大きく跳躍、葉を揺らして大樹の上に着地した。 見下ろして来る鬼の双眸に突きつける。 装飾華美な懐剣がかすかに発光、呼ばれるように俺は目を閉じた。 ――脳裏に映る横顔 着崩した羽織りの艶やかな遊女が歌う。禍々しい緋の唇で。 「命の契約。覚えてるやな?」 「ああ、俺が不相応な主なら即座に喰らい殺してくれるんだろう?」 楽しそうに振り向く女。 この懐剣ともども、名前は“胡蝶蘭”という。 俺は目を開け、鬼蜻蜒を見上げながら強く言った。 「頼むぞ」 『ああ、しかし遅い。圭介があんまりにも遅いから、先に箸つけてしもうたよ。愛らしい女子ともども、な』 するり。 衣擦れの音ともに、蝶を散らして俺の背後に具現化する。 胡蝶の腕に抱かれた1人の少女。 腹を裂かれて死んだはずの少女が、五体満足で、胡蝶の羽織りに巻かれていた。 それを見て鬼蜻蜒が殺気を放った。 肉山の上。 さっき壊れた方の少女が、蝶になって蒸発していく。 「かっかっかァ! やってくれるわ、幻惑とな! 何者か知らんが、こいつはひとつ――」 鉄錆のような殺意の声で、鬼蜻蜒は刀を具現化させた。 「マジでぶった斬らんといけんのぅ」 おぞましい威圧。 こちらのハラワタを引き千切らんと輝く切っ先。 しかしそんなものよりも、俺はただ胡蝶の機転に感謝するばかりだった。 少女の寝顔は静かだ。 血霧は、油断なく刀を構えたまま胡蝶に言った。 「――まったく、冷や冷やさせてくれる。」 「うふ、まだまだやねぇ血霧の旦那。敵を騙すにゃまず味方から~」 「騙すなら騙すで結構ですから、次からはもうちょっとショッキングじゃない映像をお願いします……う゛。」 吐きそうになってる唯香。 その頭をニコニコ笑顔で撫でてから、胡蝶蘭が最前に進み出る。 対峙。 睥睨してくる鬼蜻蜒を睨み上げ、遊女は力強く詠み上げた。 「主が噂の鬼蜻蜒ちゃんかえ? なるほどなるほど。こいつは傑作、どうにも面白い構造(からだ)しとるねぇ」 ほう――と悪の親玉は唸った。 構造? 胡蝶には何かが視えているのか? 「何奴」 「決まっとぅ? 聞くまでもなくこの身は呪霊、刃に宿りし古の怨霊」 しなやかに腕を掲げた。 白い指の周囲で戯れる黒蝶。鱗粉で口紅するように唇を撫で、胡蝶は太陽の真下で妖艶に微笑んだ。 「圭介率いる無所属お助け退魔集団――その、新しい看板娘がこの胡蝶蘭。さてではここでひとつ謎掛け、うちらのおニューでくーるなチーム名を、はい、リーダー?」 聞くまでもない。 俺は懐剣を逆手に握り直して笑ってやった。 「チーム熱海海(あたみたみ)だ」 「第二案に、血霧と愉快な仲間たちで、どうだ――ッ!」 血霧が駆けて大跳躍。 迎え撃つ鬼蜻蜒の刃と、血霧の剛剣が隕石のように衝突する。 震える大地。 立ち直った唯香がサブマシンガンのセーフティを外し、叫ぶ。 「第三案、チーム北極でペンギンと戯れツアーなんてのも!」 「だ・か・ら! 北極にペンギンはいないし、そもそもあの辺は大地がないんだよ!」 「うそです! 絶対信じません、そんなの、圭介さん!? 私が無学だからってバカにしてるんでしょう!?」 もう一丁サブマシンガン。 これにてこちらの準備は万端、血霧が鬼蜻蜒を蹴り空へと離脱した瞬間を狙って唯香が斉射。 「くぉ――!」 パラベラムの雨を受け、鬼蜻蜒の身体が崩れた。 唯香は歯噛みする。 鬼蜻蜒はけたたましい声を漏らした。 「ふわはははははは――ッ!」 すり抜けていく弾丸の雨。 文字通り“崩れた”のだ。鬼蜻蜒の身体が、弾丸を受けた瞬間に霧状に化けていた。 大気に溶けて消えていく。 姿を消した鬼蜻蜒。唯香と背中合わせになり、周囲を警戒する。 どこだ―― どこから来る――? 「胡蝶!?」 「圭介さんっ!」 気が付けば胡蝶の姿も消えている。唯香が銃口で示した先、大樹の側で、腕を伸ばす鬼蜻蜒とそれを抑える胡蝶が睨み合っていた。 殺意の火花。 笑みを無くした胡蝶が呻く。少女を背中に庇いながら。 「この腐れ外道――」 「どけ阿婆擦れ。わしゃ若いのにしか用がない」 「フ――」 怒髪天、確かに憤怒で胡蝶の髪が膨れ上がった。 するり。 胡蝶の着物の裾から、数匹の黒蝶が迷い出てきた。 がしり。 胡蝶の白い左手が、食らいつく鮫のように鬼蜻蜒の赤い仮面を掴む。 邪笑の蛇睨み。 「よろし。主は死ね」 「!?」 溢れ出す黒蝶乱舞。 まるで裾から闇を吐き出したような濃度。いや、事実それは闇だったのかも知れない。鬼蜻蜒に蝶が付着するたび、その箇所を削り取ったかのように“透過”させていく。 ガラスのように透けていくのだ。 つんのめる悪鬼。 少しずつ、だが確実に。 暴れる鬼蜻蜒の存在そのものを、胡蝶の悪しき呪いが喰らう。振り払いながら絶叫した。 「消失の呪い!? か、この女――っ!」 大気を覆うほどに舞い踊り、鬼蜻蜒と胡蝶を真昼の闇が包み込んでいく。 その幻想的な、何より圧倒的な光景に目を奪われた。 闇が、陽光を遮っていく。 影が、大気を侵食していく。 呪いのつむじ風の中心で、胡蝶は着物の裾から次々と蝶を生み出し廻る。 静かな瞳に、魔剣・胡蝶蘭の幽玄を見た。 闇の台風から抜け出すために、鬼蜻蜒が人間外の跳躍をみせる。 上空。 ボロボロになった鬼蜻蜒が憤怒。 「覚えておれ腐れ山姥! 主だけは、主だけは儂がこの手で――!」 「ふむ。ようこそ鬼蜻蜒、我が空へ」 「ちぃ――!?」 振り下ろす剛剣。 彗星のように落下してきた血霧が、隙だらけだった鬼蜻蜒へと迎撃一閃! 「ぬがあああああああっっ!!?」 しぶとく鍔元で受ける鬼蜻蜒。 しかし、当然のごとくその体は地に突き落とされ、再び胡蝶の暗闇沼へと押し戻されてしまった。 わらわらと群がる無数の蝶。 苦鳴を漏らし身を起こそうと震える鬼蜻蜒。 が、肘を消され突っ伏した。 動かなくなる。 哀れ。 その姿が、闇に、塗り潰されていく――。 + 「………やった……のか?」 無数の蝶が、一斉に消失。 俺は注視。 跡に鬼蜻蜒の影は欠片もなかった。呪いの欠片さえも残らず喰らい尽くしたんだろうか。 しかし、胡蝶はひとつ舌打ち。 『ち……あかん』 「どうした」 血霧の問いに、胡蝶はいっそう視線を強くする。 『相当削った。でも、何割かに逃げられた。一体何なんやあれ、反則やろ』 逃げられたっていうのか? つくづく不死身らしい。 鬼蜻蜒は何度殺しても蘇る。だから今度こそは、と胡蝶と命の契約まで交わしたっていうのに、これでは――。 「……約束と違うぞ胡蝶。せめて悪党1人くらいちゃんと始末してくれ」 『アホ言え。もう10人分は喰ったっつーねん』 苛立たしげに髪を掻き上げて、遊女は深刻にそれを述べた。 『……増えたんや。殺しきる瞬間に、残り1割が8割に増えた。以降は繰り返し。どんだ け喰っても底がない』 なんだ、それは? 『普通の亡霊と違う。なんや仕掛けがあるで、アレ』 どうなってる。 黙考するが答えはでない。 血霧に視線で問いを投げるが、ただ首を横に振るだけだった。 翳り始めた空を見上げる。 もうじき雨がきそうだ。 周囲の地獄絵図が目に映る。 俺たちは、一体、あと何度あの悪鬼と殺しあわなければならないのだろうか――。 「焦るな圭介。見ろ」 「え――」 重い手が肩に載せられる。 見やると、胡蝶がニコニコ笑顔で唯香にちょっかいを出していた。 『ところで唯香ちゃーん』 「そうですね」 『うちと夜通し遊ばへーん? あたい、暴喰と、あともひとつ催淫が特技なんやけどぉ』 「そうですか」 『はぁ……つれへんなぁ。カタいなぁ。生まれも中身も粗暴なクセに、なんや、そのスー ツがよろしくないわぁ』 「それはよかったですねー」 ぷいとそっぽ向く唯香。やれやれと肩を竦める遊女風。 そんな光景に俺はため息。 「……平和だな」 「だろう? 先刻の死闘がまるで嘘のようだ」 悲劇と喜劇が同居する。 人世ってのはたぶんそういうものなのだろう。 しかし―― 「………遊んでばかりもいられない。帰るぞ」 「応」 芝を踏み歩き出す。 鬼蜻蜒の不滅が判明したのだ。取り急ぎ、不滅をも超える殺害方法を考えねばならない。 酸で溶かすか? 百に裂いて隔離するか? あるいは生きたまま燃やせばいいのか? と、そこまで思考してまた溜め息。 気付いてしまった。 「………皮肉だな」 「む?」 平穏のために残虐を夢想する。 笑える。 周囲の惨状が目に入る。赤。思わず目を覆いたくなるような光景。 「……………まったく……皮肉なもんだ」 溶かされ裂かれ燃やされた人々。 俺の夢想は地獄絵図に似ていた。 + 「……む?」 儂の名前は鬼蜻蜒。 悪の親玉である。 今宵も正義に敗北し、蘇り、さぁ次の誰かをブチ殺すぞーと立ち上がる場面なのであるが。 「……むむむ?」 どうにも何か、違和感があった。 この身を駆り立てる衝動が湧かない。 アイデンティティたる悪の心が微妙に萎れている。 「ぬぅ……やられたな」 記憶が大部分消し飛んでいる。 恐らく一度バラバラになった反動だろう。頭をやられて蘇生した。普通に考えて復活不能なのであるが、その不可能を実現したために。 「……ぐぽー」 口からスピリットが漏れる。 やる気出ない。 終わった。 林の奥で1人、遠く翳り始めた空を見上げて呆然。ぐぎゅー。 「………ハラ減ったのぅ……」 儂の名前は鬼蜻蜒おじちゃん。 悪の親玉。 大半の記憶と一緒に――なんと、悪の(そうる)を失くしてしまったらしい。 こうなればもう残りカスである。 呪いはある。 欲望もある。 ただ、以前の溢れ出るような悪意が何故か、半分以下まで落ち込んでしまっている。 ふらりふらりと歩き出す。 「神社……どこかに神社はないか……行き場を失くせば教会と相場決まっている……」 ぐぎゅー。 ただ空腹を癒すための、徒歩の旅が、始まった。 果たして――こんな山奥で、儂は何をしていたのだったか……。
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