抜殻-02

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抜殻-02

 人数は3人、町外れの山道を延々と強歩し続けること約2時間ほどで俺たちはようやく目的地へとたどり着いた。  地方県・縁条市。その隅っこに位置する山の中腹。 「…………うぅ」  誰かが唸るのも分かる。  我らが住めば都の縁条市、しかしその実態は都会っ子が旅行に来れば「何もない。来なきゃよかった」となる程度のハズレ田舎なのである。 「何もない――来なきゃよかった。気怠い疲れた、おいいま何時だと思ってる、3時だぞ3時。ああまったくつくづく企画者がなってないツアーだ。クレーム入れよう、羽村、電話。」 「……あの、先生。修学旅行中の中学生ですか」 「………………うぅぅ」  また誰かが唸るも無視(スルー)。  深夜も深夜、しかも運悪く先生様は昨日から寝ないでずっと怪しげな実験をやっていらっしゃったので、不満満載、悪態垂れ流しなのでありましたとさ。  そう、縁条市にあるのはつまらないストリートとか、廃れた未撤去電話ボックスだとか、そしてチラホラ散見されるのがこの手の廃墟。  心霊スポット(すりらー)。  そんなわけで俺・羽村リョウジは今宵、とある廃墟の眼前に立っているわけなのだった。  でけぇ。  まずこの手の場合、真っ先に連想するのが廃病棟か廃アパートの類だと思うが、こちらの壮大な建物、元は純・和風の旅館であったらしい。  『バブル経済』って何だろう。  そんなものは、とうに過ぎ去ったいまとなっては砂漠の中のご都合オアシス、闇の中のご都合幻覚、現世にあらざる幻影とか都市伝説とかの類なんだが、かつてはなんとこの日本にも「景気ガイイ」と言われる時代が実在していたそうだ。  信じられるかい平成っ子たち!  どこでも好きな職場に就職し放題、仕事も金もあり余り、余ったお金でポンポン旅館建ててもまだお釣りが来るような夢の時代があったらしい!  まぁそんな時代も過ぎてみれば泡沫(うたかた)、そう、この旅館もそんな泡沫(バブル)の折に立てられてそして用済みとなった誰かの道楽の残骸なわけだ。  時代が変わり日本には暗雲が立ち込め、取り壊す金もなくなり、ついでにこの放棄旅館の壁も傷んで傷んで、黄金時代の残骸が気が付けば心霊スポットに早変わり。  儚いねぇ。  特に少し前までは、若者たちの肝試しがよく行われていたのだそうだが、 「………」  ぐらぐらと何故か背中が揺れる。  振り返ると恨めしそうな少女の亡霊がいた。 「うぅぅぅぅぅ……」  泣きそうな高瀬アユミちゃん14歳、まるで亡霊の様相で俺の服を掴んでいるのであった。 「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅうぅぅぅぅぅぅぅぅ――!」  訂正、がっつり泣いていた。特に目から帰りたいオーラが垂れ流し放題、その鬼気迫る様相ときたらいつもの赤い髪が返り血でも浴びたみたいだ。  恐怖(すりらー)。  目の前の廃墟のオーラに怯え、うーうー唸るだけの子供にまで退行しているわけなのですが、え? 幽霊退治が心霊スポットで涙目? 「そうだ。お前ら2人だけで行って来い」  びくっ、とアユミが気絶した。危うく倒れる寸前で支えた。  先生エガヲ。何「いいこと思いついた」みたいに明るい顔してるんですかねぇこの人は。 「えーと……。」  にこにこ。まったくお茶目な先生である。  ああ、先生って「反面教師」って意味の先生だったんですねっつったら能面のような無表情で返された。 「ほっ!」  煌く銀色を見た気がして一歩後退、すると不思議なことに目の前で先生がセーラー服をはためかせ長物をフルスイングするところだった。  切っ先に削られるシャツの表面。  小笹という銘の日本刀、先生愛用の惨殺グッズである。脊椎反射で弟子を斬り殺そうとした先生サマは刀を振り抜いた体勢のまま停止。 「………………」  剣道でいうところの残心。彫像のように固まっている。俺はよっこいせ、とアユミを担ぎ上げて廃墟の玄関に向かっていく。  背後では、キンと刀を仕舞った先生がニヒルな感じに嘆いていらっしゃった。 「ふん――なんだそれは。おい少年、もう慣れてます慣れっこですってか? まったく生意気な弟子だ。師匠が刀を振ったら、そこは大人しく2つになるのが礼儀ってもんだろう」  八極拳の師匠は弟子に殺されるしきたりがあるらしい。俺も習うかな。  見上げた墓標はこれから登る心霊スポット、さながらダンジョンの様相で俺たちを待ち構えているのだった。  まっくらな玄関が異様な、25mプールの栓を抜いた穴のように俺たちを誘っている。どうにも大気が騒がしいので、恐らく亡霊だらけであろう廃墟の中を想像して俺は暗澹とした気分になった。  背中に相方、背後に先生、腰の後ろには短刀・落葉。  俺たちは狩人。  夜街を駆ける異常現象狩りだ。 †  月の明るい夜を選んだのが幸いした。深海のような、窓から差し込む月光に照らされた廃墟を難なく進んでいく。  当然ながら先生の経験値なのだが、効果を実感すると改めてすごい人なのだなと実感する。こうして俺たち不出来ブラザーズはひっそり感心しつつ学習していくのだった。  ちらりと横目に見るが、アユミちゃんはまだ目覚めない。 「ああ少年、少しいいか」 「なんです? 亡霊でも見つけ――」 「今日は本当にヤル気が出ない。敵と出くわしたらお前が最前線に立つように」 「…………」  本当、腕は最高なのに。 「お、そこの部屋に何かいるな。出番だぞ少年。アユミ寄越せ、背負っててやる」  ボロっちぃドア、その表面に掛かっているのは謎の抽象絵画。俺は顔を顰めた。確かにその部屋から嫌な気配が漂っていて、水槽に染み出す墨汁のごとく黒ぐろと大気が濁っていたのだ。 「……猫……ですかね?」 「兎だろ」  その抽象絵画は、菱形を集めた模様トリックアートのような手法で、兎と猫の中間じみた哺乳類動物を描き出していた。  俺は背負っていたアユミを先生に預け、ドアの前に立って腰から相棒を抜いた。  ――――月光を跳ね返す静かなる無骨、古刀、短刀・落葉。  短刀っつったって工作に使う小刀やナイフ類なんかとは随分違う。長さで言えば脇差に近い。これは懐剣といって、刀を使いにくい室内戦を想定した護身用の武装だ。  我ながら悪いチョイスでもないと思う。ここは現代日本、屋内で戦う場面なんざ、いくらだって現れるだろう―― 「……おい、いつまでぼーっとしてる」  退屈そうに欠伸する先生。本当緊迫感がない。こっちはさっきから、決死の覚悟を決めようと必死だってのに。  ――ドアから滲み出す墨汁が、脈動するように濃度を増す。様子がおかしい。 「チ……少年、お前がボサッとしてるから気付かれたろうが。おい、もういいから早く行け。はい悩まない、若者は前進&玉砕あるのみだ。あわよくば死ね」 「なん――ッ!?」  無慈悲な靴底に背中を蹴られ頭からドアに突撃、なんと金具が腐食していたらしくあっさりぶち抜けてしまい、俺はその部屋の床にドア板ごと倒れこんでしまった。 「あづっ!」  ブザマな俺をケラケラ笑った。最悪だこの師匠。 『…………ぐるるるる』  して、目の前に“それ”はいた。  俺ってやつは最高に(センス)がない。いましがたあの絵を見て俺は兎と猫を足して割ったと感じたのだが訂正、特に猫の辺りを差し替え、見下ろしてくる巨大な肉食生物は間違いなくネコ科ヒョウ属さんの虎タイガーさんなのであった。 「……ひゃ、」  百獣の王、って言おうとして違うことに気付いた。2位くらいだったか? 何を基準にした格付けなのかはさっぱり謎だったが、ともかく間近から浴びせられた夜を震わす咆哮に、俺はやっぱりこの兎虎(うさトラ)さんがどう鯖読んだってライオンさん捻り潰せるよなぁと異を唱え、ガチンッ! 「くぁ――っ!」  格ゲーで言う所の神避けだった。100%奇跡でそれを回避、危うく頭部を食いちぎられそうだった。  その長い耳が頬に触れて怖気、ケモノの狩猟は休みない。俺は咄嗟に顔の前に短刀を構え、危うく死を回避した。短刀を喰われながらケモノの頭部を押さえつける。 「ぐんぬぅ!」  歯を食いしばって押し返そうとするが壁のように重い。だめだこりゃ死ぬ。 「先生っ!」 「阿呆、そんな簡単に助けたら修行にならんだろ。もふもふ」 「先生ぇえ――!」  ふざけんな、アユミを降ろして優雅にいちご大福なんぞ喰ってやがった。ウサ虎吠える暴れまくる。 「くっそ……!」  先生は分かってないんだ。俺にとっては死ぬかも知れない相手でも、先生にとっては無害な赤子。そんなもん相手に死ぬ理由がないとタカを括られているんだ。こっちはもういますぐにでも食いちぎられそうだってのに。 「だぁ、このクソ……いいかげんに、しろォオッ!」 「お」  バケモノ吠える。俺は押し合いの最中に前足を横に蹴って滑らせてやった。すぐさま立て直そうとするその足は、地面を踏み損ね宙に浮く。俺が張った糸によって、ケモノが徐々に持ち上げられ、おかしな格好になっていく。 「ぐぎ……ぎぎぎ……!」  糸を食いしばる奥歯が折れそうだった。腕の補助とはいえかなり負荷が来る、と。 「なんッ!?」  ばしん、と短刀が爪で弾かれてしまった。一巻の終わり。伸ばす手虚しく短刀は一直線に飛んでいく。  どこをどう間違ったのか――先生の顔に向かって。 「む。」  先生の右手が掻き消え、がきんなんて奇妙な音が鳴った。おそらく高速抜刀納刀だろう。弾かれた短刀は再度別の方向、部屋の奥の方へと飛んでいってしまった。  ケモノ襲い来る、糸食いちぎられる、俺はついに死を覚悟する。  スローモーションで腕に牙がふれたまさにその瞬間、虎兎はランプの精のように掻き消えてしまった。 「…………?」  千々に千切れ、あとに残ったのは蒸気のような呪いの残照だけ。不思議に思いつつ顔を短刀に向けると、部屋の奥の壁で、一回り大きな抽象画に突き立っていた。  先生が退屈そうに欠伸する。  切っ先は、寸分違わず兎猫の絵の眉間を穿っていた。 †  物音ひとつない――いや、誰か、背後霊が唸った。 「ん……んん……あれ?」  ようやく背中のメインヒロインが目を覚ましたようだった。キョロキョロしてる(たぶん)。見なくてもどんな動作してるのか分かるのは、付き合いが長いからだろう。  背中から下りるより先に言ってくる。 「羽村くん、羽村くん。ここどこ?」 「心霊スポット」 「おうちにかえらせてください」  感情の欠如した糸人形のように言われる。すたんと身軽に飛び降りて、少女、アユミはため息した。 「いやだなぁ……ここ、ヘンだよ。だいぶヘン」 「知ってる。どんな風におかしい?」 「心霊スポットきわまりないよ。率直に言えば仮装大賞」  だろうな――と苦いものを噛んだ。気怠そうな先生の横顔と、その向こうの窓に映った浮遊霊を見ながら思った。  あ、こんばんはぁなんて軽い調子でにこやかに手を振られる。振り返すべきか迷って、アユミに小突かれたので、同じくにこやかに振り返しておいた。満足したように窓の外のユーレイが、ふわりと浮上して姿を消す。  驚異が過ぎ去ってから俺は、アユミと一緒にさっきの死人を考察。 「どう思う。いまの、中学生くらいか? なんかパレットと筆を持ってた」 「制服のあちこちが、血のりの代わりに絵の具べったりだったねぇ。あんなに可愛いのに可哀想……」  鎮痛そうなアユミにいちいち同情すんな、神経磨り減るから――なんて気の利いたこと言おうとしてストップ。そういえば思い当たることがあった。 「先生」 「ああ、立体絵画を生み出す呪いだろう。例えば兎猫やなんかのな」  なるほど、やはり作者様であらせられたか。なかなかどうして、殺そうとしておいてあ、こんばんわぁとは流石の悪霊(スリラー)。  でも待てよ。 「……立体?」 「喩えだよクソ弟子。真面目に聞き返すな、面倒くさい」  うんざりしたように邪険にされる。ちょいと傷ついた。足を止め、優しい子にこっそり相談。 「……機嫌、悪くね?」 「だね。体調がかんばしくないのかも」 「お嬢ちゃん、お兄さんも等しく無学だから、わざと難しい言い方しなくていいんだぞ。最悪伝わらない可能性」 「ヤー」  敬礼。意味の分からないノリだった。真面目に聞き返すな面倒くさいと言われたばかりなので何語かは放置。二人して気を取り直し、先生の黒セーラー服の背中に続くのだった。  ――――前略、人間社会ってのは混沌としている。  殺しに盗人強姦強盗、果ては家庭問題に差別に自殺。放っておけば阿鼻叫喚だ。この心霊スポットのように、あちこちから半透明なお友達が覗き込んできたりもするわけで、人間社会ってのは本当はグチョグチョのドロドロなのだ。  放っておけばの話だが。  例えばそう、この廃墟は放置されたためゴーストで溢れ、あちこちにゴミが散乱し窓は割られ、壁も割られ天井廊下傷だらけ。勝手気ままな落書きアートに、もしかしたら死体とか転がってるかも。覚えておくといい。これが世の中の本来の姿だ。  さて――  丁度、どこからともなく漂う腐ったヘドロの匂いに先生が顔を顰めた。イコール不快。そう世の中っていうのは、放っておくとこのような惨状を晒し、見る人々をかなり根深く不快にしてしまう。  いいかい? 実は世の中ってのはただそこにあるだけで不快なものなのだ。秩序なき世界ってのは悲劇だ。無法状態が人間の心なんてあっさり狂わせちまうなんてのは、みんな知ってることだろう。  さて――ここでみっつの発明をしよう。ちょうかっきてきなやつ。  無法の荒野に、この不快感をなんとかすべく、理性をもって人智の塔を築く作業だ。どうやると思う? 宿題にはしないから安心しな。  世の中をうまく治めるためには、自由の中にルール、ルールの中に自由を設けるのが最良だと思われる。  そこで3つのルールの発明だ。内訳は簡単、司法、警察、そして政治。三権分立って知ってるよな。この「3」っていう数字は何事においても非常に重要で、例えば荒野に塔を築くバランスもこの3つでかなりうまくやれるようになる。  ではこの廃墟に例えよう。  まず政治――こいつらが法律を築くだろう。ここで言えばゴミの投げ捨て禁止、無意味な破壊禁止、つーか廃墟に立ち入り超禁止って約束だ。OK。これにてゴミも落書きも破損箇所も数割引、この場所の破壊及び汚染はちょっぴり縮小された。  しかし、人間っていう人語を話すサルは、約束しただけではなかなか自分を律せないものだ。  荒くれ者が現れる。約束を破壊し、再びこの地を蹂躙しようとするバカタレだ。  そこへ割り込んで来たるが三天王の2番目の警察さん、山猿をふんじばって取っ捕まえて余所へ連行。  そして待ち受けていたのは一番怖ぇ人たち、3番目の裁判さんだ。トラウマすぎるあの法廷で、カチコチの日本語とあの木槌によってバッサリ裁かれムショ行きってわけ。  法務大臣って知ってるかい? 死刑認可のハンコを持ってる人だ。他の2つにも言えることだが、コイツどうしようもねーと思ったら裁判さんはハンコ一発で山猿を二酸化炭素処理できるって算段。オー怖いね。だからみんな従う。死ぬのは嫌だからな。  さて、これにてみんな、恐怖の三大勢力の威力を知る。だって罰せられるのだ。ほとんどの奴がルールに違反しなくなる。この廃墟も汚されること破壊されることがなくなり、新品同様の姿でただ埃だけがつもっていくだろう。  そこにはたぶん味わいもある。なにせ余裕が生まれるからな。  ただそこにあるだけで不快だった世の中が、こうして不快じゃない、うつくしく統率された世界となるわけだ。めでたし。  …………………………だが、待って欲しい。本当にこれで綺麗になったろうか?  ある日、はぐれものの少女Aが、気まぐれで平和んなった廃墟に立ち入ってしまいましたとさ。そして少し歩いて気付いてしまう。  あれ? なにかおかしい……。  ああ――声、声声声声声声、声声声。  霊、霊、霊、霊、霊、霊。  綺麗なはずの埃廃墟。でもそこは、知らぬ間に、怨霊どもが巣食うおっっそろしい地獄絵図に変貌していたのでありましたとさ。おしまい。 「…………清掃業者か」 「はい?」  愛しのアユミんに首を傾げられてしまった。  そうここにいる我らこそは、最後にユーレイ共をお掃除かもす第4の勢力、通称「狩人」と呼ばれる清掃業者なのであった。  ――残念ながら、ただのひとつとしてユーレイなんていう素敵かつシンプルな全年齢版ではないのだが。本当に残念だ。現実はいつだって、想像の数倍ほど惨くなる。 「………………」  心霊スポットの終わりが見えてきた。ついに屋上へ至る最後の階段。 「じゃ、行くが。覚悟はできてるなクソ弟子共。オレは何もしない」 「え……は、はいぃ!?」  ああそうか、アユミは寝てたから聞いてなかったんだな。 「今日はヤル気が出ないんだ、お前らが働け。しかしまぁ何だ――そうだな。想像を絶するほどの達人なんかが現れた時は、仕方ないから変わってやろう。そんなことは万に一つもないけどな、ハッハッハ」  感情ゼロの心の篭らない声で笑われた。アユミちゃん困ったように半信半疑だ。俺としてはもう諦めている。  じゃあ行こう、あの屋上へと続く錆びた鉄扉を開ければ探索は終了だ。俺は3人分の足音を聞きながら腰から短刀を引きぬいた。俺たちの周囲を漂い始める濃厚な敵意と、尾を引く濃淡さまざまな黒い火の玉。  ――――世には“呪い”なるものが実在している。つまりはこの火の玉どもがそれにあたるのだが。  儀式?  依り代?  正式な手順と手続き?  そんな遠まわしは一切必要ない。そう現実っていうのは、いつだって想像の数倍はえげつないものなんだから。  …………(ねが)えば叶う、ただそれだけの願望具現化。  穴二つの格言通りに、呪えば呪っただけ自らの精神を侵食していく暴走。  あまりにも横暴で、あまりにも無慈悲であまりにも理不尽に現実を喰らい尽くす、人の世にあってはならない異常現象(ブラックホール)。  人はそれを、“呪い”と呼び称する。 「――――よし」  不躾にも、安堵してしまった。屋上は殺風景、変わらず意味のない雑多なゴミ溜めだった。  砂っぽい地面と靴底が擦れて乾いた音を立てる。幸い、面積が広い。おかげで乱戦にも耐えられるだろう。それだけが最大にして唯一の利点だった。  ガシャガシャと、隣のアユミが油断なく武装を構えた。 「よし、じゃないでしょう?」  まったくだ。ボゥボゥと燃えるように具現化していく亡霊の数は、いつになく底なし。 「ああ、多すぎるな。自然じゃ有り得ねぇ」 「だね」  それで、この心霊スポットが何者かの悪意によるものだと確信。ひとまず捜査としての収穫、反して見えざる敵への不安感でプラマイゼロってとこ。 「……ちぃ……クソッタレが」  舌打ちしたお師匠さまの呻き、鍔鳴り、けれど口振りに反して嬉しそうなのは何故なのか。  決まってる。俺たちと対角線、屋上の端で具現化したあの侍の亡霊だけは明らかに格が違う。亡霊たちを壁にして、指揮するようにしかし無関心に、まっすぐ先生だけを見ている。  鋭利な殺意……例えでも直感でもなんでもなく、大気を伝う呪いが風となって直接肌を刺激しているのだ。酸性液に似た感触、けれど何の傷もない。  ――――これにて、先生も動かざるを得ない。 「先生、指示をお願いします」 「あん? 直線突破だ。オレがアレをやるから後から必ず追いついて来い。雑魚に背中を狙われながらじゃ集中できん」 「了解しました――っと。」  ひゅん、逆手に持ち替えて特攻用意。3人思い思いに姿勢を屈め、ゾンビのように唸りながら寄ってくる亡霊の壁に向かって、予備動作に入る。 「じゃ――」  目的地点は、あの侍。 「――――現地集合、解散ッ!」  そして開宴。残酷な話だが、始めの一歩で大きく差が出てしまった。  まず、先生。比較にならない。気持ちいいくらいの吹っ飛び方で、わずか一跳躍でもってして反対側の侍に掛かっていった。最後まで見送るまでもない。すぐさま廃墟を打ち崩しかねないような轟音が聞こえた。  次、アユミ。 「はぁぁぁあああああ――ッ!!」  先生が投石機による攻撃なら、アユミは横殴りの破城槌だった。亡霊共の壁に突進、ぶつかっても構わず直進、7、8体まとめてずいずい押していく。 「オイオイ……」  なんだあれ、華奢な少女に非ざる戦車の如き馬力だ。そのまま屋上の縁まで突っ込み、ブルドーザーのように屋上からバラバラ振り落としてしまった。ゴミのように落ちて行く。たった一人の少女相手に、何人も何人も。 「ふぅ……」  ぱんぱんと手を払う愛らしい少女の背中に、恐れおののき不意打ちを躊躇う被害者側さんたち。ずしん、と踵で地面打ち抜いて振り返るその強烈な赤髪を、彼らは決して忘れられないだろう。  その手に二刀短剣、それを構える細腕は、俗に言う『怪力』ってやつ。 「ぜぃ……ぜぃ……くそッ、どけ、道をあけろこのアホンダラゲ共がぁ――! いでぇッ!?」  残る一人の雑魚のことはまぁ、気にしないでくれていい。 「先生――!」  この乱戦の中でもハッキリ聞こえる強い音。刀にあるまじきマシンガンのようなリズムが聞こえて耳を疑う。  背後に迫っていた亡霊を蹴倒しながら、先生が俺に吠えた。 「おい、そこの時価0円! 何やってる!」 「コブラツイスト、やってんすよぉお!」  我ながら非効率。この乱戦の場において、首を締められながら実施するコブラツイストに何の意味があろうか。一殺する間に好き放題殴られるわ蹴られるわ、幸い半透明の蹴りは軽いらしく、もうこうなったら根性である。  首を引っこ抜かれそうになりながら、何とか一人目を絞め落とす。 「ぬぅうがあああッ!」  反転して首絞めてきてた奴をマウントポジション、短刀ぶっ刺して終わらせた。人としての姿さえない黒一色とはいえ、人型を滅却するのは勇気がいる。人間と呼べるほど構成(じょうほう)が足りてないのが救いだ。これはタダの、そう例えるなら物思いの具現でしかない。 「アユミは……」  問題ない。蹴り殴り、腕力を生かしてなるべく一打で屋上から敵を振り落とし、眼を見張るような速さで突き進んでいく。無駄のない、だが円舞のような身のこなし。こっちとはエライ違いだ。  そして先生の方はといえば、鬼と鬼が殺し合ってるような激闘だった。雷轟みたいな剣閃が飛び交い、その嵐に巻き込まれた亡霊はあっさり千切られていく。  特に先生の立ち回りが神がかっている。斬り合いの合間に亡霊を蹴りつけ、また斬り合い、踏み消して身代わりにして上から斬り込む。 「ン国無双か……」  いつか先生が無双ゲージ開放してしまわないか心配だ。  ひと通り切り結んで、魔女は縁に着地した。 「……ふーん。骨のある奴がいたもんだ」 「……………………」  なんだろう。黒長髪の武将がぽけーっと先生を見ている。 「? どうした。戦意喪失か?」 「ああっ、いや――――大した腕前だなと感心した。可憐な見た目からは想像もつかない」  歳若い少年のような声だった。結い上げもせず、伸ばしたままの綺麗な黒長髪。武将は若く、女のような顔つきで、何にも増して邪気がまったく感じられない不思議な人物だった。  あの、鎧姿の身を覆う神聖な雰囲気は何なのだろう。明らかに武将って佇まいから相反してる。  対して、黒セーラーの高校生は刀を担いで、粗野な武将のように笑った。 「だったら何だ。大人しく自害してくれるのか? それなら仕事が減って助かる。こんな場所で兵を集めて、何を企んでいたかは知らないがな」 「何を企んでいた、なんて言われてもなぁ――単に生き残りたかっただけだよ。この地の記憶庫から悪の親玉に引っ張り出され、顕界させられ手下にされたはいいが――どうにも気が合わなくてね。やはり俺の主はあのお方だけ。いつ襲われてもいいように、チョコっと兵らしきものを上げてみたのだが――」  先生が、先生の顔がものすごく不快そうに反応した。片頬が思い切り釣り上がったのだ。  周囲は、意思があるとも知れぬ影のような亡者の渦。先生に襲いかかり、難なく消されていく。 「…………お前。大したカリスマだな。いっそホラーだ。こいつらを統率して、兵団としてきっちりここに留めておくなんて魔法だ」 「かり、すま? これでも学んだほうだが、さすがにそのような横文字までは分からないな……しかし、言いたいことは分かるぞ。ああ、分かるとも」  まったく邪気のない所作で、少年のような武将は太陽みたいに笑った。 「――数が多いのは、いい。楽しくなる。騒がしいというのは素敵なことだ。一人寺の隅で膝を抱えて、絶望に暮れるなど退屈だ。そうは思わない?」 「死人が。まるで生者のようなことを言う」 「まったくその通りだ。でも黄泉返ってしまった。なら、もう、咲かせるしかないだろうに。――そう、人っていうのは、花みたいなものなんだからね」  武将が刀を振るい無形の構え。ざり、と切っ先が聞こえた。耳の中で金属が鳴るような音、亡霊の殺意によるものだ。  片手平突きの構えを取って、一転、大気に通電するほどの色濃い呪いを纏う。空まで塗りつぶされていくような錯覚がした。 「ここにいるのは我が兵、ここにあるのは我が城。ぜんぶ俺の愛した宝だ。壊しに来たというのなら―――――それ相応は覚悟してもらおう」  変わらず柔和な武将だが、そいつの足元から炎のように滲んでいる呪いの陽炎。あの濃度、ただごとではない。  気怠そうな先生からも遊びが消える。亡霊もたじろぐ。こっちは完全に処刑執行人だ。 「へぇ…………いいだろうどんな呪いだ? 見せてみろ怨霊、オレが、千々に引き裂いて狩り殺してやるよ」  構え、刺すように睨み合い、そして先生が超疾走。 「!」 「さぁ、躱せよ優男ぉおお――!」  音のような速さで迫る刃に武将が目を細めるのを見た。右手を大地に向け、唱える。 「――――“藻女(みずくめ)の呪い”」  斬、と先生の刃が絶ち切った。液体を。水を。撒き散らされた、それこそ亜音速で舞い上がる武将の軌跡を。 「水……だと?」  夜空に舞う剣士。長い髪を振り乱し、曲芸のようだった。そいつを急加速させたのは、その背をふっ飛ばした、謎の『水流』――。 「!? 先生、亡霊です! あの人の背中に憑いてますッ!」  アユミの叫び、言われて注視するとたしかに、武将の背中に誰かいる。  そいつは水で構成された、武将によく似た、死に装束の美少女―― 「……いくぞ、由奈。」  こく、と頷いたのがかすかに見えた。俺のCランク霊視じゃ本当に厳しい。すぐに視えなくなってしまった。  ただ現実として、空中にいた武将の背後に水の円陣が現れ、それを足場に超加速。大気が弾ける。  隕石のように落下してくる剣士を、先生が睨み上げる。あんなの、受けきれるんだろうか。 「フン――」  と、先生が鼻を鳴らした。唐突に不可思議なステップを踏む。 「な……先生……?」  くるくるくると花のように回る、それは紛れも無いハンマー投げのフォームだった。 「壱、弐の――」  2回転目が豪風だった。遠心力とさらなる加速を載せた、3回転目のタイミングで敵が降ってくる。  この間、1.5秒以下。 「参ッ!!!」  思わず耳を塞いだ。物理的に鼓膜が痛むほどの激烈な金属音だったのだ。噴水みたく水を撒き散らし、先生と武将が拮抗していた。  ――いまの敵の剣撃、おそらく水の重さが乗ってたんだ。  鍔迫り合い。大気を舞い、屋上を濡らした水飛沫に先生が訝しんだ。 「おい……何者だお前、これは死後に得た呪いじゃないな。それにその背後霊……」 「――――さぁて。この妹によく似た霊は、本当に妹の霊なのか、はたまた俺が妹を創造しているのか――それは誰にも分からないさ」  ざきん、拮抗が崩れて激しく打ち合い、水しぶきを上げながら間合いを開ける。  予断なく構えながら、しかし美丈夫の顔に嘘偽りのない悲しみが浮かぶ。 「――よくある話さ。妹は捧げられた。俺が無力故に、この、“藻女(みずくめ)の呪い”を自力で体得できなかったが故に」 「なに……?」 「うちは水神様に仕える巫女の血筋でね。神通力でこの不作を何とかしろと脅されたよ。でもそんなことは不可能で、だからたった一人の家族だった妹を供物にされて、そして俺は呪いを得たんだ。遅すぎた……あまりにも意味のない、遅すぎた発露だったよ。せいぜいあのひとでなし共を惨殺するくらいしか用がなかった」 「…………」  ふざけた話だ。呪いの発露に血筋なんて何の因果もない。だっていうのに――ああ。  ――“人柱”。  追い詰められていた村人にだって家族がいて絶望があるだろう。  だからこそ生まれる宗教観念――ただの人殺しに、縋るように意味を見出し、そして殺したんだ。  武将と、それに付き従う少女の亡霊。超高速の戦闘が始まる一瞬前に。 「――――哀れだな。」  その悲しみごと斬って捨てると、魔女が宣告した。  そこから先は最終決戦。とんでもねぇ打ち合いの音が聞こえるわけだが、こっちだってもうそれどころじゃなかった。  しんでしまう。 「くっそがァァァア――!!」  もみくちゃにされる。亡霊共に挟まれて身動きない。ただ周囲からのしかかってくる重圧に押し潰されそうになっていくのを感じていた。ダメだ。両腕を取られて抜けれん。 「…………ここまでか……」 「もうっ羽村くん! しっかりして!」  前方で小型爆弾が炸裂したかのように亡者共が舞い上がり、がし、と俺は少女の腕に力づくで引っ張り出される。  目の前にアユミ。肩から抜けるかと思った。抜けかけた肩でぜぃぜぃと呼吸する。 「……わり、助かった」 「助かってないよ!」  ずばん、どばんとアユミが背後の亡霊共を退治していく。俺は疲労から膝をついてうずくまった。その瞬間、妙な風を感じた気がして。 「ん?」 「え――きゃああぁッ!?」  アユミが弾かれ尻餅をつく。勢い良く突っ込んできた何者か。追い打ちの気配を感じて咄嗟に立ち塞がると、俺の短刀にぶつかった何者かは急激に方向転換。 「ぐ……ぁ!?」  重い感触が手に残る。  黒い影、ヒトの形をした、風のような速さの獣。まるで弾丸のように向こう見ずに突進していく。一瞬、その赤く輝く双眸を見た。  唸るような声。そいつは亡霊共の間をくぐって、まっすぐに先生の背中へ飛んでいく。 「やば……先生――ッ!」  その異様な速度の背後打ちをしかし、先生は振り返りざま両断。まるで背中に目がついているような超反応だった。  しかし、信じられないことに、先生の刀が躱されている。獣は地を這うように体を伏せ、その赤い目で獲物の心臓を捕らえ、絶叫しながら両腕を振るう! 「駄犬が。」 『ぎィィイッ!?』  無慈悲で冷酷な魔女のつまさきが、ケモノの鼻に突きこまれていた。もんどり打って転がる。その様を見下ろしながら武将が困惑した。 「何……? 誰だ、それは――」 「ほぅ、千客万来か。こいつはいいね――!」  一歩、二歩。浮遊するようなステップで舞った魔女が、ようやく立ち上がったケモノに再度、さっきよりも重い大振りの蹴りを見舞う。  ケモノが悲鳴を上げて嘘みたいに吹き飛ばされ、地面を跳ね、俺たちの方に転がってくる。  脳震盪なのか何なのか、座り込んで朦朧としてる。何者か知らないがチャンスだ。 「よう、初めまして。まずは握手といこうぜ」  俺が差し伸べた右手にケモノが硬直する。知ったこっちゃない。無理クソ腕を掴んで振り回し、遠心力で勢いつけて立たせてやった。そのまま振り回し続ける。俺の周囲を駆けまわる、駆けまわる。 「はは――っ!」  いいタイミングで手を放し、転びそうになったところへ交差法。駆け込んだアユミの飛び蹴りが今度こそケモノを吹っ飛ばし、5階建てビルの屋上から退場願う。  絶叫。そいつは中空に身を投げ出されながら、恨みがましい憎悪の赤眼で俺たちを最後まで呪い続けていた。  が、それも哀れに落ちていって、数秒後にアスファルトに激しく激突して終わった。亡霊だから滅却だ。死体も残らない。 「ったく……どっから紛れ込んだんだ、いまの」 「たぶん、争いの気配に誘われたんじゃないか、」  ――な。  そう言おうとしたアユミが一瞬にして水没した。俺も。亡霊たちも。屋上のすべてが、一呼吸の間にプールの中に瞬間移動させられていた。  意味もわからず溺れる。だがさっき、水没の寸前に俺の耳は聞いていた。あの武将が「沈め」と叫んでいたのだ。  がばごぼと溺れ、水の中で足掻き、必死で混乱してるアユミの腕を掴もうと手を伸ばしながら理解する。  ――そうか、屋上のすべてが水没してるんだ。あいつの呪いで水没させられたんだ!  耳を覆うのは水音、俺はなんとかアユミを背負って水面に顔を出し、壁もないのに屋上が3mも浸水してるのを理解する。  激しく揺れる水面、その中で、刀の音のようなものが聞こえていたことに気付いた。  なんだよあれ、鮫かよ……! 「おい、おいおいおいおい――!」  ものすごい速さでヒット&アウェイを繰り返す影。あれ、たぶんあの武将だ。だとしたらさっきから一方的に猛攻を受けてる影は先生か……! 「げほっ、ごぼ……せん、せ…………」  アユミが激しく咳き込む。俺はかつてない焦燥を感じた。いかに先生が超級だからって、水中じゃ反撃もクソもない。歩くことさえ叶わないのだ。だっていうのに相手は水族館のイルカのような滑らかさで一方的に攻め立て、これじゃ、勝ち目なんて万に一つも有り得ない。 「クソが……ッ!」  俺は糸を張って食いしばる。短刀を括りつけ、この屋上で唯一顔を出している給水タンク目掛けて――――  次の瞬間、空から雷が落ちてきて屋上を激震させた。 「は?」  雷と見間違えたって仕方ないだろう。何がか強く煌めいた瞬間・爆破されたように水しぶきが上がり、建物全体がズシンと震え、屋上に大きく亀裂が走っていたのだ。  斬――  そんな音がどこから聞こえてきたのか、屋上を覆っていた水が、幻のように消えていく。  拓けた視界の中を探すと何故か、刀を振り抜いた先生と、刀を振り抜いた武将とが背中を向け合っていた。 「…………なんて、こった」  どちらも、笑う。  両者ともに髪から水を滴らせ。 「…………………水を斬れるなんて、驚きだ…………」  がしゃん、と武将が刀を取り落とし、その場にくずおれるのだった。  ――なんだ、あれ。  先生が駆けた跡には、大きな亀裂が走って、階下が見えるぐらいに深く屋上の地面を割り裂いていた。 「――マジかよ」  斬ったのか。あの水量を、刀一本で叩き割って、水中に道を作ったっていうのか。  だとしたらもうまったく人間業じゃない。 「何、驚くほどのことじゃない。要は斬っただけだ。手から水を溢れさせるよりは、よっぽど人間業だろう?」  流れるように刀を納める魔女。血を吐きながら、楽しそうに唇を吊り上げる武将。  終わりなんてあっけないものだ。瞬く間に爪先から透明になって消えていく。 「……悲しいな。せっかく蘇ったのだから、せめて悲願のひとつくらいは叶えられないものかと、欲張って……みた、が……」  それを支える半透明な少女の霊が俺にも見えた。泣きそうな顔をして見守っている。  男の手が妹の頬に触れた。 「…………すまない半助…………果し合いは、また、いず……れ…………」  ぶわりと輪郭が崩れ、粒子になって蒸発した。  少女も俺たちに一礼を残して、あとを追うように消えてしまった。 「………………」  気が付けば他の亡霊たちも消えている。俺は力なく尻餅をつくのだった。 「―――安らかに眠れ。妹ともども、今度こそ穏やかに、誰に邪魔されることもなく……」  先生にしては珍しく感傷的な言葉だった。なんて思っていたのが顔に出てたのか、気がつきゃその雨夜の瞳が俺を見ていた。 「らしくない、って顔してるな。ひどいじゃないか少年。オレにだって、哀れな兄妹を不憫に思う程度の機能は備わっているんだぞ?」  まったくだ、と俺は笑った。水を飲んでしまったのか苦しそうに胸を撫でているアユミを見て、その向こう、屋上のへりに俺は見てはいけないものを見つけた。 『ぎぃ……ぎ、ィィイ……!』  這い上がってきたっていうのか。どこか歪な形になった黒いケモノがそこにいた。  警告灯みたいな赤い両眼が、まっすぐにアユミだけを捉えている。猿のように跳んでくる。どうしてそんな悪夢みたいに速いのかって俺は舌打ちした。  こんなんじゃ――俺が、盾になるしかないじゃないか。 「が、ァあああああああああああああああああッ!?」  咄嗟に割り込んで、背中を盾にして、そこで俺はようやく気付いた。  相手の狙いは直接殺傷することではなかったのだ。全身が感電したように痺れ、特に心臓を握り潰されるような痛みに掌握され、殺サレタクナケレバ明ケ渡セ、という声に屈服させられる。  俺は絶叫した。羽村リョウジっていういままで生きてきた全てが、黒い呪いに塗り潰されていく。  珍しく先生が絶望したような顔をしていて、なんだか不思議だった。 「羽村く……ん……?」」  目の前のアユミの声が遠い。気が付けばそれは収まっていた。俺は間違いなく羽村リョウジだ――ケレドコロシタイコロシタイコロシタイコロシタイコロシタイコロシタイコロシタイコロシタイコロシタイ。 「    !!   ――ッ!?」  アユミに襲いかかる。押し倒して押さえつけて決してしてはならない事を強制されそうになる。先生が俺を蹴り飛ばして最悪の事態を回避、“コイツ”は先生には勝てないことを理解しているから迷わずその場から逃げ出した。  魔女の怒号を背に受けながら、完全に取り憑かれた羽村リョウジの体は猿のような速さで階段を滑り降りていく。ものすごい速さで廃墟の中を逃げ、出口を目指して駆けていく。  ――街にはたくさんの獲物がいて賑やかなことを知っている。“おれ”は街へ繰り出して、憎き狩人の体を使って虐殺を行う。すごく皮肉だ。最高に楽しい。ああ、とっととこんな廃墟を抜けだしてしまいたい。  ……………………ん?  なんだ生暖かい気配がする。あの魔女ともあの赤髪とも違う気配。こんな廃墟に? まさか。野良猫でも迷い込んでいたのだろうか、だがそれにしては大きさが人間。温かい。きっとハラワタに腕を突き込んでも温かい、どうしようもないほど蠱惑的な女の香り。  ああ、殺そう。下の階だ。すごい速さで階段を駆け下りながら羽村リョウジの知識を参照、そうか、この廃墟はよく馬鹿なガキ共の肝だめしに使われていたんだ。なんて喜ばしい、なんて麗しい。  ――――こんなにいい香りの女、そうそういない。  ぴた、と足を止め壁に身を隠して息を潜める。もうすぐそこ。愚かな女は懐中電灯であちらこちらを不安そうに照らしつけながら、何にも気付かず愚かにも愚かにも最期の一歩を踏み出すだろう。  あと15秒――ああ、もうダメだ。待ち切れないいますぐ殺そう。こっちから仕掛ける。こっちから殺す。こっちから飛びかかっていって無残に引き裂いて殺そう。  魔女はまだ追いついてこない。誰も見てない。すべて都合がいい。にたりと唇を吊り上げる。  ――――――凶器を手に、俺はケモノのように襲いかかった。 「……………………え?」  鼻先をかすめる甘い香り。  そうしてついに、俺はそいつと出会った。  そいつはどこか不思議そうに俺を見ていた。懐中電灯ひとつを手に、無防備にもこんな心霊スポットをほっつき歩いていやがった、愚かで馬鹿な同い年くらいの女。  目が合った瞬間に空白になる。その眼は異様なまでに虚無で、底なんてなくて、人間らしい負の感情や汚れが1ミリグラムも介在していない。  ――――完全に透明な、底が見える海のように澄み切った瞳がそこに待ち受けていた。 「あ…………」  少女は恐怖などしていない。  ただ傍観()ている。  白い白い白い、首に包帯を巻きつけた傷だらけの少女が俺を視ている。  ――――途端、首筋の鬼の刺青が熱を持った気がした。 「ぐ――ぅらああああッ!」 「え!?」  短刀を振り下ろそうとした右腕を、俺は左腕で引っ掴み、迷わず自分の右大腿に突き立てていた。  当然ながら転倒する。痛みによって羽村リョウジが少しだけ回帰、だが、体はなおも起き上がって目の前の少女を殺したがっている。  くそったれが、飢えた犬かよ……ッ! 「逃げ、ろ早く――邪魔だ! んなとこでボーッとしてんじゃねぇええッ!」  叫んでも、少女はただたじろいで俺を見下ろしているだけ。さっきの印象は勘違いだったのか、間違いなくそこには恐怖と混乱が浮かんでいる。 「あなた、背中に、それ……幽……霊……!?」  分かってんなら逃げるなり悲鳴上げるなりして欲しい。一般人ってのは本当に邪魔だ。 「おらおらおらどうだよ、痛いか? おい、もっと捻るぞクソがッ! 嫌なら出てけこのクソッタレがァあああああ――ッ!!」  俺はしたくもない自傷行為を行い、知恵の限り自らの身体を痛めつけた。痛覚がない。まだ俺の意識に返還されていないのだ。体が、ケモノの気配が痛みに悶えているのだけが伝わってくる。  覚悟を決めて左手首を切り落とそうと短刀を振り上げた瞬間、ようやく悲鳴をあげて背中の気配が離れていった。  ガラスの砕けた窓から、赤い眼光の軌跡を残して、すさまじい速度で去っていく。  あちこちに反響する最後の声が異様だった。 「…………ハ……ザマァ見ろ、ってん……だ……」  べチャリとあっけなく頬をつく。気が付けば血溜りだった。我ながらやり過ぎってもんだ。人間なんて2Lで死ぬってのに。  自分の血に溺れそうになったところを支えられる。 「……しっかりして……死なないで……!」  白い女の頬に血が跳ねる。しかし願ってもない。一人寂しく死ぬなんて、御免だからな。  溶けていく視界の中で、ようやく追いついてきた先生とアユミの幻影を見た。本物だったのか幻だったのかは曖昧だが、ともかく3人が耳元で騒いでてうるさかった。  でもよく分からない。そのショートカットの見知らぬ少女。  赤の他人のくせに、そいつが1番泣きそうだったのだ。本当によく分からないんだが、その少女の腕に抱かれ、その少女の香りに包まれながら、俺はひどく安心して意識を手放したのだった。  闇の中で物思う。死んだも同然の真っ暗闇で。  出会った瞬間のアイツの眼。完全透明。一体どんな内面をしてれば人間はあんな眼が出来るんだ? どんな人生を送ってこればそんな顔になるんだ? あんなの、俺、一度だって見たことない。  何故か目に焼き付いた首の包帯。  どこかで、ガラスの割れるような音が聞こえた。
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