抜殻-03

1/1
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/64ページ

抜殻-03

 ――――眠りも終わりの間際に差し掛かっていた。  演目は回想。長いようで短い、けれどたしかに遠い日の出来事を思い返していた。  セピア色の思い出なんて言うけれど、夢はオールフルカラー、なのにモノクロと見間違うような長い長い黒髪を見ていた。  長い髪。まだ、髪が長かった頃だ。その人は黒髪に、白い肌と、その上にいまと変わらない黒セーラー服を纏った白黒だった。  だが、刀を振り抜き、頬に強い彩度を浴びる。夜闇の中でも輝くように見えたそれは、そのとき子供だった俺が今までに見たことのない異物だった。  ――血なんて、平気だと思っていた。 「名前なんて、ない。」  残念なことに、秘密の記憶上映会はもう終盤。どこか少女じみた髪の長い魔女も、少年時代の羽村リョウジも、いったんお預けってことで。  夢の終わりに、遠い過去の向こうから先生が言ってきた。 「オレと一緒にいると不幸になるぞ」  現在の俺に向けて。赤い赤い殺人現場みたいな点滅交差点で、そのとき魔女は確かに、泣きそうな目をしていまこの瞬間の羽村リョウジを見ていたんだ――。  まだ何も理解出来ない子供の、悲しいくらい無垢な瞳の向こう側に。 †  あっさりと闇から解放され、目が覚めた。  眠気を感じない。余分なものがそぎ落とされた感じ。体を起こそうとすると右大腿が強く痛んで、そういえば、自傷して血抜きしたんだったと思い返した。  動かさないように耐える。一度傷を自覚しきってしまうとあとは痛み続けるだけだ。なるべく見ないように、もう一度眠りの中へ逃避しようと頑張る。 「――おはよう。頭痛残ったりしてない?」 「んあ?」  が、失敗。顔が影に覆われた気がして、目を開けるとアユミが心配そうにのぞき込んでいた。  いつみても赤色。少女の瞳と見つめ合い、俺は2、3度瞬きして惰眠を諦めた。 「ああ――なんともない。っていうか頭痛? 足を刺したのにか?」 「知らないの? 出血多量になると脳への血流が減って、サイアク脳障害が残っちゃう可能性あるんだよ」 「…………」  やばい。まったく考えてなかった。 「だだっ、大丈夫だ。支障ない」  慌てて額に手を当てるがたしかに重いような気がする。しかしもう一度寝れば治る程度だ。  これが、寝ても治らない程度の重さになるケースがあったんだな。 「はぁ……よかった。羽村くんったら無茶するんだから」 「悪い。が、あれは仕方ない」 「そうだね。むしろ、よくあんな機転が利いたものだと思うよ。自分を痛めつけて憑依した亡霊を追い出すなんて――」  思い返すと不思議な感じだ。あれ、相当やばい状況だったんだよな。 「………そうだ。結局あいつ何だったんだよ」 「さあ。一体どこの亡霊だったのか――」 「いやそっちじゃなくて、あの女だよ。やっぱ肝だめしか?」 「……」  あの時、俺が危うく殺すとこだった少女。そうだだんだんと目が醒めてきた。俺、亡霊に体の支配権をぶんどられて一般人に襲いかかったんだった。 「うん、肝試しだったみたい。でも他の子はあの子一人を置き去りにして逃げちゃったんだって」 「逃げた? 俺が襲いかかったからか?」 「ううん。単純に、あの心霊スポットが怖すぎたから」 「………?」  だからって、一人置いて逃げるのか。どんだけ薄情なんだよ。現代っ子は本当によく分からん。  俺が考え込んでいると、アユミはベッドの横のクッションに腰をおろした。  つけっぱなしのニュースは無機的。  華奢な背中が、どこか消え入りそうだった。 「先生がね…………『もうダメかと思った』って」  それはまた。 「……珍しいな」 「珍しくないよ。わたしだって、もう本当に終わったかと思った」 「え?」 「二度と帰ってこないかと思った。もう追いつけなくって、次会う時は羽村くんがうつろな顔して返り血だらけになってて…………敵として、戦わなくちゃいけないんだって思った」 「………………」  そうか――そうなっててもまったく不思議な状況じゃなかったんだ。逆の立場だったらと思うとゾッとする。アユミが死霊に憑かれて姿を消すなんて、もうどうしていいのか分からない。だっていうのに、先生と一緒になって、アユミを追い詰めなきゃいけないなんて悪夢だ。  血に染まったアユミと出会ってしまったら、俺はきっと明日からを生きていけない。 「……悪い。心配かけたな」 「ううん。羽村くんは悪くないよ。ただ、本当に――本当にそうならなくてよかった、ってだけ。」  振り返った体育座りの少女は、笑顔だが、どこか痛みを堪えているようだった。 「ま。こうして助かったんだ、躱した不幸を嘆くよりかは、生き残った幸運に感謝しようぜ」 「だね――紅茶かコーヒーでも淹れてくるよ。羽村くんはそこにいて」 「ああ、頼む。」  俺たちは、過酷の後にこそいつも通り笑うべきなんだ。  面会時間が終わった病室のようにアユミを見送った。一人怪我人は取り残されて、意味のない時間を過ごすことになる。  窓の外は早朝で、まだぼんやりとした薄暗い空を晒していた。 「…………」  テレビはとある国外のニュースを流している。ひっきりなしに、同じ事件ばかりを。  カチャリとドアが開けられてアユミが帰ってくる。 「おう、随分早いな――」 「あの……」 「ん?」  ドアの隙間からこちらを見る目。アユミじゃない。なんだか亡霊みたいだ。その窓辺に置かれた花瓶のような静かさに、ぴんと来た。 「…………入ってくれ」 「はい――お邪魔します」  ドアを開けて現れたのは、やはり昨夜の少女だった。こうして見るとアユミ以上に華奢で折れそう。まず目に入る首の包帯、目が眩む様な色白の、端正なショートカットの少女。  年齢はアユミより上、おそらく同年代のように感じる。  初めて明るい場所で向き合って、その髪に赤いヘアピンなんかが付いていたことに気付いた。 「…………えと」  名も知らぬ少女は、遠慮がちに目を伏せている。放っておいたらずっと立っていそうなので、アユミが座っていたクッションを差し出した。少し足の傷が痛んだが。 「座ってくれ」 「……はい」  とつとつと羽のような足音。大人しい。優奈よりお行儀よくて、香澄くらい物静かなんてあまり見ない人種だ。――もっとも、緊張してるだけなのかも知れないが。  で、どういう状況なんだこれ。 「…………あー」  狩人には秘匿義務がある。即ち異常現象や、狩人や、それらに纏わる専門知識に情報等。これらを不用意に一般人に開示することを禁ず。場合によっては俺は名前を名乗ることすらできない立場にあるのだ。 「羽村君――って、呼べばいい……?」 「…………」  が、ご存知だったらしい。ボリボリと頭をかく。分からん、本当どういう状況なんだこれ。 「――――ああ、構わないぞ少年。普通に話して問題ない。もっとも、過剰に知識を与える必要もないが」 「む」  ドアに凭れて先生が声を発した。いつの間に。いつもの黒セーラー服ではなく、黒い私服姿だった 「……えぇと、先生。状況がよく分からんのですが。秘匿義務は……」 「もう必要ないんだよ。――そうか、その辺りもまだだったか。アユミには話したはずだが――うん、ちと横着が過ぎたな」  前髪をイジイジしたって可愛くない。俺だけのけものかよ。目の前の少女は律儀にも正座なんかして待っている。 「“調律者”――って、言うんだよ。教えなかったか? 異常現象に携わる者は狩人だけじゃない。狩人、葬儀屋、調律者。この3つで回っているんだ」  なるほど三権分立か。目の前に居心地悪そうなのがいるし、ひとまずは横に置いておくが。 「じゃあ――本当にいいんですね? 普通に話しちまっても」 「ああ。重荷にならない程度にしておけよ。簡単な説明と、口止めだけはしてある――じゃ。」  ばたんとドアを閉じて先生が去っていった。さて、一呼吸置いて目の前の少女に向き直る。透き通った瞳が俺を見返して戸惑う。本当にきれいな目をする女だな――なんて関心してる場合じゃあない。  ――あの時、俺が殺してしまいそうだった少女。亡霊に憑かれてたとはいえ、言わなきゃならないことがある 「羽村リョウジだ」 「え?」  名前を教えるっていうのは、他人であることをやめるということ。俺は巻き込んでしまった彼女に謝らねばならない。深く、深く頭を下げた。 「――本当に悪かった。恨んでくれて構わない」 「え……? あの、何言っ、て……?」  あの月光しかない廃墟の奥で、真っ暗闇の心霊スポットで、背中に亡霊を貼り付けた男に刃物で襲われるなんて…………「最悪」に分類されるたぐいの経験だ。 「あんたは俺の背中にいた亡霊を見たはずだ。怖かったよな? そして凶器を向けられた。なら、あんたは明日からうなされるかも知れない。一生忘れられないトラウマになったかも知れない。どっかしらであんたの価値観に悪影響を残したかも知れない。ましてや、一度非常識を知ったら人間はもう無知には戻れない。――――ぜんぶ俺のミスだ。あんたには俺を恨む権利がある」 「……………………」 「すまない。本当に悪かった。俺が無力だからこうなった。すべて俺の責任だ。あんたの気が済むのなら、俺を憎んで罵倒しても構わない」 「……おかしなこと言うんだね。ヘンじゃない? 助けてくれた人を憎むだなんて」  蝶のように笑われて手を取られる。顔を上げれば少女は小さく微笑んでいた。  その瞳が無垢すぎて少し恐ろしいと感じた。異常ばかり見てきた俺には、常識の側に住んでる少女の思考が掴めないのかも知れない。 「――ちゃんと聞いたよ。あなたは身を呈して私を助けてくれた。こんなケガを負ってまで私を見捨てないで、ひとつの不可能を乗り越えてくれた。どこに謝る理由があるの?」  すぐ目の前で、ぜんぶを許してしまいそうな笑みを浮かべて、少女は何故か逆に頭を垂れてきた。  何かに祈る敬虔なシスターのようだった。 「――ありがとう。あなたがいてくれたから私は生きてる。あの時、本当は怖くて泣きそうだった。はっきりと自分の死が浮かんだ。キミの背中に霊が張り付いてて、私にはどうすることもできなくて、このままわけも分からず死んじゃうんだと思った……」  少女の手は悲しいくらいに震えていた。平気そうに見えたけどやはり怯えていたんだ。何の罪もない、俺が弱かったから危機に晒してしまった少女。  やめてくれ……。  傷つけてしまった少女に、そんな聖人を見るような目で見上げられる資格なんて俺にはない。 「だから本当に、本当に助けてくれてありがとう……」  その祈りになんて答えればいいだろう。なんて申し開きすればいいだろう?  俺は知ってる。一度非常識を知ってしまった者は、必ず非常識の側に近くなる。何かにつけて最悪の非常識が帰ってくるような人生を強いられる。この少女に待つのもそんな日々で、それは俺が招いた不幸で――。  ――でもその上で、少女はいまこの瞬間俺に感謝したいと言ってる。なら俺の気持ちなんかより先に、逃げずに頷くのが俺の守るべき役割なんじゃないのか……? 「…………分かった。あんたがケガしてないのなら、それで、いい。」  それで、みっともなく許しを請おうとする自分を飲み込んだ。 「うん――そっちのケガは、大丈夫?」 「さてな。あとで様子を見てみるさ。でも、まぁ、この感じはそんなに大したことはない」 「そうなの?」 「当然だろ。どんな状況だって、これは間違いなく自分の脚なんだぜ? 致命的なことはできない。反射で避けちまうんだ。たとえば脚の構造はどうなっていて、どこをどうすれば動かなくなって、どこなら軽症で済むか――そんなのも頭に叩きこまれてるんだ」 「そうなんだ」  ……本当、俺たちも見習いとはいえ随分な量を学習してきてるもんだ。こうして一般人を目の前にして初めて気付く。  何も持たない拳を強く握りしめた。先生は達人で、アユミには怪力があり、どこぞのゴス子は呪いを持ってる。対して、無能力な俺には何もない――なんて、そんな風に諦めるのは俺の甘えだったのかも知れない。  振り払おう。迷いを捨てて、俺もしっかり前進しないと、いつか今度こそ取り返しの付かないことになる。  無理をしてでも、出来るだけ明るい声を出すことにした。 「なぁあんた、名前は?」 「私? ――さぁ、なんだったかな」 「おい……」  楽しそうな声を零して立ち上がり、そいつはあっさり去っていく。その折れそうな背中。  たったこれだけの縁。たったこれだけで終わってしまう関係。狩人と巻き込まれた一般市民なんて、そんな程度だろう。  最後に。 「――――沢村ハルカっていいます。また、会えると思う?」  赤ヘアピンの少女が振り返り、一輪の花のように佇んでいる。その穢れのない瞳が俺を見ている。  つつけば淋しい音が鳴りそうな、あまりにも澄み切った色だった。 「縁があったら」  敢えて、俺は軽く右手を掲げた。 「うん、縁があったら。また会おうね、羽村君――」  ハルカも、右手を振った。最後の一瞬がスローモーションに見えた。それでおしまい。あっさりドアは閉ざされ、少女は非常識の世界から立ち去っていった。  俺たちが暮らす、呪いと狩人と異常現象の世界に繋がるドアを閉ざしたのだ。  一人取り残されて役立たずは、握り締めていた拳をようやく解いた。やはりそこには何もない。  硝子の欠片さえありはしない。 「………………2度と、会うべきじゃないけどな。」  考えるまでもなく、狩人と縁を持つなんて不幸になるってことと同義だからだ。  テレビを見れば、8チャンネルはまた件の『麻袋事件』を報道していた。 †  リビングでアユミとコーヒーを飲んでいると、早朝にも関わらず先生がケータイで誰かと会話しているのが目に入った。  聞こえる単語は刺殺だの爆発物だの剣呑だ。ほどなくして通話終了。 「――よし。出るぞ少年、準備しろ」 「はい? ケガ人なんすけど」  重い右大腿を指さしてみせる。別段ギプスしてる訳ではないので一見普通だが。 「そんな掠り傷で何言ってる。お前、さっき普通に階段下ってたの見たぞ」  ずずずとコーヒーすすってため息。普通じゃない。当然ながら引きずってる。しかしまぁ無理すれば歩けないわけでもない。カップを置いて立ち上がり、アユミに一言ごちそうさまと言っておく。 「…………で。どこ行くんです? まさか鍛錬ですか?」 「いや、さっきの続きだよ。“調律者”――まだ説明が途中だったろう?」  ああ確かに。それは俺も気になっていたワードだ。  でちょっくら家を出て、脚を引きずりながら、ちっとも待ってくれない先生を必死に追いかけた。  早朝、ランニングしてるおじさんとすれ違った。運動は大事だ。習慣化しないと100%病気になる。  で、つかつかと先生は淀みない足取りで、何故か商店街の方に向かっていった。早朝、こんな時間に行ったってシャッター降りてるだけだろうに、本当よく分からない。 「…………」  ビルの狭間の灰色空を見上げ息を吐く。白い。薄暗くて雨でも降って来そうな秋の早朝、けれど、目の前はにわかに騒がしかった。  3つ。3って数字は大事だ。赤い光がくるくる3つ、おもちゃのように回転していた。  行き交う人々はせわしなく、全員が警察の制服なんか着ていて、それを少し距離をおいて見守る俺たち野次馬のざわめき。  パンダカラーのトヨタ・クラウン、そいつに記された「県警」の文字を見ながら俺は当たり前の言葉を吐露した。 「……パトカー、っすね」 「ああ。殺人現場だよ」  殺人現場であるらしい。きっと名探偵コナンでも通りがかったのだろう。こんな静かな縁条市、商店街から少し外れた唯一の都会テイストとも言える区画で、朝っぱらから人が殺されてるなんて剣呑な話だ。 「いくぞ」 「は、はい?」  つかつかと、先生は野次馬の壁を抜け前に出る。KEEP OUTの黄色いテープが張られたところへ差し掛かり、見張りの警官を無視してくぐって行こうとする。野次馬が少し騒いで、俺は硬直した。  ――当然のようにテープをくぐる魔女。止めるべきか、否か。 「こら、待ちなさいキミ」 「あん?」  目を覆う。案の定見張りの警官に止められたのだ。あきれたように息吐くポリスメンを先生は困ったような、キョトンとした顔で見返す。あ、なんか歳相応っぽい仕草。 「なんだよ、寝ボケてるのかお前。邪魔だ消えろ死ね」  仕草と言動の間に、日本列島とユーラシアくらいの距離的開きが挟まってたわけだが。  ぴくりと引きつった何も間違ってない警官が、当然のごとく、不躾で目付きの悪い美少女女子高生に文句をつけようとする。 「あのなぁ、キミ! ここはキミのような女の子が入ってくる場所じゃあ――」 「先生……!」  何考えてるんだ本当、狩人が警察にちょっかい出すなんて禁忌にも程がある。いよいよトチ狂ったのかと疑うがしかし、そこへ奥からおかしな声が掛けられた。 「あーすまん飯田、すまん。その高校生通して、お通しして。はい」  奥のほうから、ダークカラーのコートを着込んだいかにも『刑事』な中年が出てきた。  ソックリさん。このおっさん、日本人だけど明らかに刑事コロンボだ。 「は……先輩!? 何言ってんすか! また先輩は相手が女の子だからってそんな、」 「阿呆、その子は事件の参考人だぞ? 俺が呼んだんだ。いいからお前は黙ってなさい」 「え、マジすか先輩? そんな話まったく聞いてないスけど」 「マジだマジ。つか、遊びで高校生を現場に入れられるかたわけ。お前もね、少しは頭を使いなさい頭を」  なんだと? 先生、事件の関係者だったのか。隣に並んで横顔を伺うが、いつになく仏頂面でコロンボを見ている。  俺は知ってる。一見無表情だが不満な時の顔だ。どうにも先生は不快らしい。 「――さて、どうぞお嬢さん、“我々の”仕事場へ。」  そのどこかトゲのある言動に不意に理解する。刑事は愛想よく、目の前の『高校生』を歓迎している風に見えた。そうとしか思えない。部下や野次馬の手前そうしているんだろう。 「ええ、お邪魔します。ごめんなさい刑事さん、みなさんの“お仕事”の邪魔をしてしまって。」  こっちはぞわりと震えた。俺の隣で、先生が、歳相応の少女みたく湿やかに一礼したのだ。可憐でケチのつけようもない満点の微笑に、身内にしか分からない猛毒が塗りたくられていた。  不思議そうな警官はまるで気付かない。これは完全な、目の前の刑事に対する敵意だった。  しばし灰色の沈黙が流れる。両者笑顔、だがどちらもまったく笑ってなどいない。 「………………奥だ、ついて来い。」  刑事が冷めた目で促し、勝手に奥の現場の方に歩き出す。慌ただしく警官や検察が駆けまわる中、その背中は言外に『嫌なら帰れ』と言っていた。 「やれやれ…………まったく、自分から呼んでおいてとんだ待遇だな」  肩を竦めて先生が歩き出し、置いていかれそうになって慌てて続く。追いついてから俺はさっきの状況を思い返した。 「……先生、あの刑事と知り合いなんですか?」  さっきのやり取りは、初対面では有り得ないものだと思う。というか、様子からするに、向こうは先生が狩人だと知っていた気配すらある。 「知り合いなんていいものじゃない。少々顔を合わせたことがあるだけさ。今回だって、たまたま仕事の都合がそうなったから呼ばれただけだ。――向こうにしちゃ、よほどのことでなければ狩人なんて呼びたくはないだろうけどな」  ――やっぱり、あの刑事は狩人を知ってるんだ。知った上で事件現場に呼んだ。  協力関係、ってことか? 「気になるか? 少年」 「え……」  くるりと振り返り、ブルーシートの殺人現場を背にして魔女は言った。 「あれが、あの刑事こそが“調律者”なのさ。」  あの刑事が?  調律者。それは一体何なのだろう。問う間も与えずに先生は先へと進んでいく。  ――――そこには、まったく隠されてもいない死体が転がっていた。 「っ!」  とっさに見ないよう目を逸らす。自分の寝ぼけ振りを悔いた。そうだここは出来たての殺人現場だったんだ、何をぼーっとお呼ばれ気分で歩いてんだ俺は。 「…………刃物か」 「え?」  ポツリと、先生は初見で感想を漏らした。死体の周囲で検察が仕事している。刑事は軽く報告を聞いてからこっちに向き直った。 「察しがいいな。さすが、殺しの死体を見慣れてるだけのことはある」  もう愛想笑顔なんてどこにもない。刑事はただ気怠そうだった。タバコに火を付けながら言ってくる。 「お察しの通り、凶器は刃物さ。傷口から言えば切れ味はなかなかのもんだ。傷の数で言えばめった刺しもめった刺し、しかもひとつひとつが致命傷なくらい深い。大した馬鹿力だよ、まったく」  話を聞きながら俺は死体を見ようと薄目を開けるが、赤い。こっちは歩く死者の幻影なんて慣れっこだが、鮮血で全面赤に染まった顔などがヤバげ。やめておいた方がよさそうだ。  しかし先生は平気なようで、じっくり観察して、顔を険しくした。 「…………おい、傷の口径が合ってないぞ」 「そうだ。刃物は複数本、折れたのか使えなくなったのか知らないが、何故かこのめった刺し死体は“複数の”刃物で殺されてるんだよ。――そっち側の、儀式か何かかね?」 「そんなものはないよ。そんなのがあれば宗教だ。オレたちの側だと断定した根拠は?」 「あれだ」 「ん――」  刑事が示した先、警官たちが行き交う向こうで、一人呆然とうなだれている若者がいた。  私服だから新人警官って感じじゃない。大学生か? 恐ろしいものでも見たような顔をして、浮浪者みたく地面にへたり込んでいる。 「見覚えのある顔だな。誰だ?」 「幽霊がお見えになるんだとよ。随分前に、他の事件であんたらと関わったようだが?」 「ああ…………そうか、調律者か」 「え――」  調律者? あの大学生も? 刑事はかろうじて分かるが、あんなただの若者まで。どうなってんだ一体。 「よう、どうした。何か悪いものでも視たのか? そこの霊能力者」  先生に声を掛けられると、そいつはびくりと発作のように肩を震わせた。暗澹とした目で先生を見上げる。 「……アンタか…………まだ、生きてたんだな」 「お陰さまで。なんだ、死ぬと思ってたのか?」 「当然だろ……自分から死者共に関わるなんて、そんなの、長生きできるはずがない……」  煩悶するように頭を抱え、若者は震え始める。怯えてる風だ。 「――――ここで、何を視た?」 「何も……何も視えてなんかない。ただ、深夜に友達の家から帰る途中、急に恐ろしい気配を感じたんだ……あんなの、あんなのってねぇよ……ッ!」  青年は恐慌に憑かれ、怒り狂ったように叫んだ。 「なんなんだよあれ! あんな、あんな強烈な気配は一度だって感じたことがない! 僕は大通りを歩いていたんだぞ!? なのに、こっちの方から世界の終りみたいな気配が漂ってきて……関わりたくなんてなかったけど、だけど放っておいて何かあったら困るから、だから……ッ!!」 「犯人は?」 「知るかッ! 僕が見たのはあの死体だけだ! 凶器も落ちてないし、犯人なんてどこにもいやしなかった!」 「…………」  奇妙だな。複数の刃物ってやつ、ひとつ残らず持って帰ったのか。嫌に用意周到で、なおかつまったく意味がわからない犯人像だ。  先生もしばし考え込んでいた。 「藍! 碧!」 「ひィ――っ!?」  先生がどこへともなく叫んだ瞬間、大学生が悲鳴を上げて逃げた。そりゃあそうだろう、前触れもなく両隣に不気味な双子が現れたら誰だって驚く。何にも増して亡霊だ。見た目は人間と変わらないとはいえ、あの青年は霊視持ちだし。 「おいおい……」  にやりと悪霊の笑みを浮かべる着物娘たち、かすかに警官がザワついた。青い目と緑の目をした、揃いの下駄なんかはいた双子。雪音さん小飼の霊感担当だ。 「――――」  体育座りのまま、双子がそれぞれ右手と左手を伸ばす。人差し指が死体に向けられていた。 「どかーん」  藍がそう呟いた瞬間、刑事がぴくりと震えた。 「ばきゅーん」  碧も、そんな意味のわからないことを言った。双子の言葉はいつも支離滅裂だ。俺たちにさえよく分からない。 「あしき者。よくにとらわれ暴力をわるいこととはおもわない。ちからは手段。あってあたりまえのもの、決してなくてはならないもの」 「あしき者。よくにとらわれ暴力をわるいこととはおもわない。ちからは必然。それはものを買うための金のようなもの、なのです」 「…………っ」  なんだろう、刑事が動揺してる。タバコを踏み消して険しい顔をした。 「――ご明察だ。こいつはな、指名手配されてた爆弾魔なのさ」 「爆弾魔?」  あの死体が? 遠目に服装を観察するが、血まみれの男は、スーツを着ているってのにどこか近寄りがたい印象を持ってる。  そうか、あれ、一般人じゃないな。 「少し前に、都心のほうでバスが爆破された事件があったろう。テロだなんだと騒がれてたが、結局は暴力団の抗争の一端だったってやつ。覚えていないか?」 「ああ――」  そんなが事件あった。つい最近のことだってのに、『麻袋事件』のインパクトが強すぎて押し流されていた。 「ふーん。じゃ、あの死体はどこぞのヤクザの組員で、しかも爆弾まで使うような過激な輩だったってことか」 「そう――それが俺たちの知らぬ間にこの街へ逃げ込んでいた。そして、今朝方どこぞのわけの分からねぇ人間外に惨殺されちまったわけだ。裏稼業が、別の裏に喰われちまった。因果応報とはまさにこのことだな」 「よく出来た偶然だ。いいんじゃないか? それはそれで、ひとつ仕事が減ったじゃないか」  揶揄するように先生が笑った。まぁ確かに、すげー偶然だ。お陰で一般人の犠牲が減った。そんなこともあるんだろう。 「“勧善懲悪という言葉がある”」  水をさすように、藍の唇が歌った。殺人現場に不穏な空気が交じる。 「――何?」 「“善を立て、悪は挫かなければならない”――」  碧も歌った。まったく同じ挙動で立ち上がる双子。手を取り合い、祈るように、遊ぶように純真無垢な顔を並べて。 「「“では――――――死ね。”」」  何か、ここにはいない誰かを真似た。それは双子が感じ取った呪いの残照だ。底知れない双子霊の向こう側に、まだ見ぬ殺人鬼の影を視た気がした。  それもすぐに霧散してしまったが。 「あ、おい――!」  それきりキャハハと声を上げ、からころと下駄を鳴らして逃げ去って行ってしまう。行き交う警官たちの足元をすり抜けるように。  追おうとしたのだが、人混みでフェレットを捕まえるようなもんだろう。 「ったく……」  振り返れば先生も刑事も難しい顔をして、それぞれ考え込んでいる。殺害手段も犯人像もまるで分からない。一体、犯人は何者なんだろう。  先生は死体に目を向ける。ものすごい力で刃物を突き立てられ、ひとつひとつが致命傷になるほど深い傷だという。  路地裏。閉鎖された、密室のような牢獄のような、それでいて仄暗い社会の影のような場所。 「勧善懲悪……だと……?」  確かに、ここで罪人が殺されたのだ。 †  殺人現場からの帰り道、先生は黙々と前だけを見据えて歩いていた。こっちを見てる風もない。弟子が足を引きずってようがお構いなしだ。  何かを考え込んでるのは明白だろう。何を考え込んでるかも分かりやすい。  少々息が切れてきた。駅前広場に差し掛かった所。日が登りつつあるような早朝のためひと通りはほとんどない。  水槽みたいな薄闇に柔らかな線状光が差し込む宮代駅。右半身だけを光に照らされながら、俺と先生は白い息を吐いて、距離を置いて歩いていた。単に置いていかれつつあるだけだが。 「………………ん?」  何だろうこの既視感。先生の背中を追っている。昔とは違って、肩まででバッサリ髪を切った魔女の背中を。 「ああ――」  そういえば、今朝の夢もこんなだったなと思い返した。意地になったように前だけを見据える先生、それを追い掛ける慌ただしい少年。 「――――先生、」 「あん?」  過ぎた幻影とは違って、現在の先生はあっさりと振り向いてくれるのだが。少し嬉しい。あの他人だった日から随分と変わったもんだ。 「なんだよ少年、煩いな。置いて帰っていいか?」  ニヒルに笑うその仕草は、昔よりも皮肉そうだけど――  これはこれで、慣れ親しんだ安心ってやつなんだろう。右足引きずって歩き出す。 「いや、煩いはないでしょう。先生が教えてくれるって言ったんじゃないですか、『調律者』のこと」 「む――」  横着はよくない。先生だって今回ばかりは自覚したからこそ教えてくれる気になったのだ。それでも、「やっぱり面倒だからやめ」と言い出さない保証はないが。 「仕方ない――いいか少年、というか、さっきのを見てまだ分からないのかお前」  言われて思い返すのは、あの刑事と若者の振る舞い。特に後者は霊視可能と来てるので、定義的には霊視ランク最低でもC以上ということになる。俺と同等か、それ以上か。  で、結局何だったんだろうあの2人。 「……えーと、さっきの2人が事情通だってことは分かりました。でも、だからってどこまで知ってるかは分かりませんです」 「ま、そうだな。さっきの大学生の方は、知っての通りの霊視者だ。別段大して知識を持ってるわけじゃなし、大した視力でもないが――それも狩人基準だな。そうそう、確かいつぞや事件に巻き込まれていた。お前らが初実戦に出るより前だったか?」  となると、ネバーランドの件より以前だな。霊が視える。狩人基準で大したことはなくても、一般基準で言えば十分に特異体質だ。 「刑事の方は、もう少し知ってるな。あいつはね、昔、狩人(オレたち)のことを嗅ぎまわっていたんだ。言わばスパイか敵かってところだな。過ぎた話だが」 「な――っ、」  命知らずだ、コロンボ。狩人相手に秘匿を暴こうとしたっていうのか。 「……それ、結局どうなったんです?」 「聞くまでもない。それがきっかけで奴は“調律者”になったのさ」 「…………」  だから、何なんだそれ。 「簡単な話さ。懐柔したんだよ。“我々の秘匿は決して世の中にとって暴かれるべきものではありません、我々は人々の混乱を防ぐために日夜戦っています、だからあなたも我々に協力して下さい”――ってな」 「懐柔って……それは本当に懐柔なんですか?」 「実質は脅迫だ。例えばあの刑事や霊能者が秘匿を漏らせば制裁もあり得る。オレたちは存在がまるごと秘匿なんだ、だからこそ、『知ってしまった者』を囲い込んで秘密の共犯者にするわけだ。」  なるほど、少しだけ掴めてきた気がする。つまり彼らは一般市民だ。ごく普通に生活し、ごく普通に刑事として働き、しかし狩人の存在を知っていてなおかつ邪魔はしない。  また、秘密も尊守する。不承不承な部分はあるのかも知れないが、秘密を漏らせば、漏らした相手もまた脅迫され囲い込まれてしまうことを知っている。 「つまり“調律者”ってのは、一般人の中の協力者ってことですか 「ああ。ほとんどは事件で関わり合いになってしまった者たちだな。事件が起き、その全貌を秘匿し、しかし事件が起きれば関係者が出来てしまい、その中のごく一部はオレたちを知ってしまうから、囲い込まざるを得なくなる」 「じゃあ昨日の女――ハルカも、ですか?」 「ああ。あいつは亡霊も、亡霊に憑かれたお前も視てしまったからな。必要最低限の知識を与えて、強く口止めをして開放した。だからあいつも既に“調律者”なわけだ」  そして――秘密を漏らせば、罰せられる。やっぱり異常を知るとろくなことがない。墓の下まで持ってかないといけない秘密を負うなんて苦しい話だ。 「でも……そんな約束、守るものですかね?」 「守るさ。狩人は人を殺せる人間だぞ。そして、調律者は他の調律者が誰であるかを知らない。調律者には秘密尊守と共に報告義務も課せられているんだ。例えばポツリと秘匿を漏らしてしまった相手が、万が一調律者でないとは限らない。意外と多いんだぞ。また、秘匿を漏らしたことが他の調律者の耳に入らないとも断言できない。狩人が殺害者と知ってなおその脅迫に逆らう、そんな命知らずは多いと思うか?」 「…………まぁ」  俺なら、黙ってるだろうな。異常の空気に1秒だって触れていたくない。忘れたことにして生きるのが賢明だ。 「そして、秘密が漏らされた所で、不思議なことにめったに大事には発展しない」  なんだって? そんなばかなことがあるもんか。呪いにユーレイ、異常現象、心霊スポット、こんなの飛びつかないはずがないじゃないか――。 「――――あれ? これって、もしかして」 「気付いたか。そういうことだ」  世にはホラー番組なるものがあり、都市伝説と呼ばれるものがあり、心霊スポットらしきものもいっぱいある。  悪霊だの呪いだのなんて怪談をいくつ聞いたことか。世の中ってのは、けっこう異常現象の存在を認知している。 「なのに…………誰も、信じて、ない……?」 「そうさ。人は異常を与太話だと笑い捨てる。恐れた所で心の奥では決して信じてなどいない。どこかで一人が信じた所で、そんな弱気な人間は隣の正常な人間に笑い捨てられる。これはね、昔からある自浄作用みたいなものなんだよ」  集まった所で――珍妙なオカルトマニアが、詐称の霊視能力者たちを引き連れ、街の片隅で的はずれかつチンプンカンプンな会話をするだけだ。何の意味もない。真性オカルトマニアが語る真実など、そんなのヤク中が語る意味深なポエムと何が違わない? 「また、不思議なことに、人間には詐称の異常現象を大量生産する性質があるからな。木が森の中に隠れ、異常に対する自浄作用が働き、そうして結局は事件にもならない。――考えてみるといい、いまこの瞬間にどこぞの小娘が『幽霊は実在するんです!』ってテレビで叫んだところで、一体どこの誰が信じる? せいぜいが痛いアイドル化されて使い捨てのイロモノとして商売道具にされるだけさ」  パンダか。確かに、世の中っていうのは変わったものを『みせもの』にして嘲る風潮がある。これはどんな働きなのだろう。もしかすると、理解不能なものに対する精神防衛の顕れなのだろうか。 「じゃ、締めに日本最大のホラーを教えてやろうか」 「へ?」 「現在、日本人口の何割が調律者であるかは、我々狩人も詳細には把握していない。くだらない統計を取るほど人手が余ってないからな」  そうなのか。本当ずぼら極まりない。あるいは余計なものを残さないようにしてるのかも知れないが。 「――あの。それのどこがホラーなんです?」 「想像しろ。『もしかすると、何も知らないのは自分だけなのかも知れない』―――ってな」  ……それは、とある『一般人』の話だ。  もし『そいつ』が異常現象を戯言だと嘲っていたとしても、夢物語だと嘲っていたとしても、もしかしたら『そいつ』以外の周囲の人間は全員が秘密を共有しているのかも知れない。  そいつが背中を向けた時だけみんな目が変わる。  みんな本当はそれを知っていて、けど『そいつ』にだけずっと死ぬまで黙っているだけなのかも知れない――なんて。 「…………」  日本最大のホラーってのはつまり、自分以外の日本人すべてがホラー側を知る調律者であるのかも知れないってことか。なるほど、確かに日本最大だろう。 「ん――」 「はい?」  先生が俺を見た。否、俺の背後に立っていた何者かを。 「――おい、俺の許可なく勝手に帰るな」  ぼぅとタバコに火を灯し、刑事は渋い顔をする。噂をすればの調律者・コロンボだった。 「なんだ、まだ何か用があった? 朝食でもご馳走してくれるわけか」 「フン、ブタ箱のまずい飯ならいつでも食らわせてやるさ――この、」  ひとでなし――と刑事は言った。一瞬俺を見た気がする。よく分からない。  ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜ、刑事は用件を白状する。 「……死体の処遇だ。どうする。こっちで処理しちまって構わないのか」 「ああ、構わないよ。重要なのはそっちじゃないからね――」  あっさりと、興味を失ったように踵を返す先生。 「おい、待て。勝手に帰るなと言ってるだろう? せめてこう――なにか、ないのか。犯人像なり特徴なり背格好なり」 「そんなものはないよ。ただ双子がいつも通りおかしなことを口走ったね。それだけさ」 「…………」  刑事はなぜか焦っているように感じた。先生はなぜかこの刑事と話すときだけ、口調に少女が混じっている気がする。本来はどうなのか知らないが、このケースの場合はおそらく本気で興味がないということの意思表示なんだろう。  ――――ひどく、冷たい響きの声なんだ。 「ち……忘れるなよ、犯人は俺が捕まえる。司法の裁きを受けさせる! 貴様らの出番なんぞない。いいか、お前らみたいなヤクザもんが出しゃばるんじゃねぇ!」 「な……っ」  なんだ、あいつ。激昂するように吐き捨てて去って行った。人差し指を突きつける様が目に焼き付いてしまった。  遠くなる背中に、しかし先生は一度も振り返らなかった。 「………………さて、」  何が始まるのかな――――と、先生は消え入りそうな声で呟いた。その寂しそうな背中は、けれど顔を見ればいつもと変わらず微笑んでいるんだろう。何も違わない。こんな程度のことをいちいち気に病む人じゃない。  魔女が、凛と顔を上げる。東の端から無責任に幕を開けていく、まるですっからの青空に向かって。
/64ページ

最初のコメントを投稿しよう!