キスは血の味がした

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キスは血の味がした

 鞴のような、息づかい。  荒野に乱立する岩場から、それは聴こえた。  岩場のひとつを背にして、座り込む男がいた。肩まで伸びたブラックの髪。切れ長の眼。やや面長の輪郭。大きい鼻に、薄い唇と、顔立ちは整っている。しかし、彼の身体に眼を移すと、その惨状にあっと声をあげたくなる。  身につけている甲冑は鋭利なもので引き裂かれ、腹の辺りからは出血が見られる。首筋には火傷の痕。右手の指先には凍傷の痕が見てとれた。力なく首を垂れ、両手両足を投げ出している。もはや、動くことは不可能。いや、それどころか、このまま放っておけば死に至るだろう。  だが、ここは人気のない岩場。人、どころか、犬一匹の姿も見えない。それどころか、上空を飛行する鳥も、岩場に近づいた途端に進路を変更して飛び去っていく。  それは、ここが強き捕食者の領域(テリトリー)であることを意味していた。  枯草が生える荒野に重みのある足音がした。その足音は規則的に響き、一点を目指して進んでいることがわかる。その先には、岩場に倒れ込む男がいた。どうやらこの足音の主が、男を追い詰めたようだ。  獅子の顔と体。山羊のような角。蝙蝠の翼に、蠍の尻尾を持つ、おぞましい風貌。これが、この領域(テリトリー)の支配者である、悪名高き魔獣・マンティコアだ。  全長は7トール(1トール=90センチ)ほど。体高は3トール以上にも及ぶ。これでもまだ若い個体であり、成長すればもっと巨大になるというのだから恐ろしい。  男が首をあげようとする、だが、痙攣しているように、その動きはぎこちない。時間をかけてやっと首をあげると、虚ろな眼でマンティコアを視界におさめた。  男は右手を動かそうとする。その手の近くには、男が愛用している得物であろう、刀剣があった。一般に流通しているショートソードやブロードソードとは違う。反りのある片刃の刀剣・カタナと呼ばれるものだった。  マンティコアに反撃しようというのだろうか。だが、男の指には凍傷の痕が見られる。すでに感覚は失われているのかもしれない。わずかに動く指先も、やがて諦めたかのように静止してしまった。  男の名は、ヨシュア・ナイトレイという。放浪を続ける冒険者(レンジャー)であり、屈強な戦士でもあった。元傭兵であり、その腕前は普通の冒険者(レンジャー)と一線を画す。  辿り着いた先で住民からの依頼などを請けて、依頼を解決して金を得るのが、冒険者(レンジャー)の生活だ。  報奨金などで諍いが起こることもあるので、仲介として冒険者(レンジャー)ギルドが発足。住民は基本的にギルドを介して依頼を出す。体制が確立している国家ならばいざ知らず、都市国家や領主の治める地域では、地方に行けば行くほどその支配体制が強固に及んでいるとは言い難い。国や領主が困りごとを解決してくれない。そのために、魔物の退治などの荒事を冒険者(レンジャー)に引き受けてもらうのだ。  この岩場の支配者たるマンティコアは、生息域を離れたはぐれ個体である。肉を主食とするマンティコアにとって、抵抗力のない人間の住む集落近辺に棲み処を構えるのは、はぐれ個体として効率のいい生活の仕方であった。  マンティコアの脅威に日々怯え、生活もままならない町の住民たちは、互いに協力して金を出し合い、隣にある比較的大きな町の冒険者(レンジャー)ギルドに駆け込んだ。報奨金は高額であったが、冒険者(レンジャー)たちはこのマンティコア退治に見向きもしなかった。  それもそのはず。マンティコアは冒険者(レンジャー)たちの間では、あまり生態の知られていない凶悪な魔獣として有名であった。生態があまり知られていないというのは、とどのつまり、生きて帰ってきた者が少ないということを意味する。本来は正規軍や傭兵が、装備を整えて討伐すべき魔獣であり、いち冒険者(レンジャー)が、徒党を組んで倒すには無謀とも言うべき魔獣であった。  ヨシュアはただひとり、このマンティコア討伐を請け負った冒険者(レンジャー)だった。高額な報奨金に釣られたか。それとも莫大な借金でも抱えていたか。たったひとりでこのマンティコアに挑んだのだ。  結果は、ヨシュアの現状が物語っている。  初めは善戦したといってもいいだろう。マンティコアに傷を負わせることもできた。魔法にも通じるヨシュアは、攻撃のたびに手応えを感じた。  しかしそれは、ヨシュアの視点からの話だ。  マンティコアは本来、自身と同じくらいの個体を食する魔獣である。このはぐれマンティコアも、人間ばかりではなく、その翼で飛翔して、大型の魔獣を狩りにいくことがあった。つまり戦闘慣れしている。  魔物を狩る際には、魔物の生態を調べてから闘うのが常識だ。例えば、臭いに敏感だ、とか。夜眼が効くとか、音をよく聴き取るという生態。そうした情報を分析した上で、それを逆手に取って闘うのである。でもしなければ、人間が魔物と闘って勝つことは不可能だ。  マンティコアは闘い慣れしている。闘いから得た経験をもとに、技術を高める頭脳も持っている。それはほとんど人と同じだ。  初めはヨシュアの様子を窺っていた。どんな攻撃をするのか。速さはどれほどか。回復はするのか。奥の手はあるのか。たとえ傷を負っても、数日後には再生する傷だとわかれば、あえて激昂せずにじっと相手の様子を窺い分析した。  そして、取るに足らない相手だと分かるや否や、一挙にたたみかけたのだ。  それまで動き回っていた速さならば、ヨシュアでも追いつけた。これなら追いつけるとヨシュアに思わせて、一気に数段速さを上げた。後ろに回り込み、ヨシュアが振り向いたと同時に上空へ。上空からの一撃で吹き飛ばし、炎のブレスを浴びせる。さらに魔界言語で雷の魔法を使い、追い打ち。まだ戦意のあるヨシュアに対して、氷のブレスを浴びせて凍傷を負わせると、最後は尻尾の毒矢で身動きを奪い、爪と牙で甲冑ごと身体を引き裂いた。  完勝であった。  虫の息となったヨシュアを余所目に、他に敵がいないか周辺を確認したマンティコアは、満を持してヨシュアを仕留めにやってきたのだ。  咆哮。マンティコアの咆哮が、荒野に轟く。この咆哮をまともに受けると、平衡感覚に異常をきたすこともある。まさに全身凶器。恐るべき魔獣である。この魔獣が恐れる相手といえば、ドラゴン族などの高位種族だけだろう。  ゆっくりと、マンティコアがヨシュアに近づく。段々と、ヨシュアの息づかいも小さくなっている。そのまま死ぬか、それとも魔獣の一撃で命を絶たれるか。選択は二つ。  待ち受けるのは、いずれも死だ──。  
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