キスは血の味がした

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 暗闇と静寂が支配する時間。  空には宝石のように星々が瞬き、月が淡い光を放って地上を見下ろす。  草木も眠る静寂。だが、この静寂の中を蠢く黒い影もある。  闇から出でる、黒い影。それは夜行性の魔物や獣たちだ。餌を求めて、獲物を求めて、夜を歩く。  夜の闇の中、煙がひと筋上がっている。  火元を辿ると、そこでは焚火がぱちぱちと音を立てて燃えていた。魔除けのお香も一緒に焚かれているのか、独特な匂いが辺りを漂う。  膝を抱えて座るファルーナは、焚き火をじっと見つめている。その傍らには、寄り添うようにベルが横になっている。  ファルーナとベルが座る場所から、少し離れたところで、ヨシュアが仰向けに寝かされていた。マンティコアの爪で裂かれた甲冑を脱がされ、下地のクロース姿である。ヨシュアの呼吸はあった。傷もほとんどが塞がっている。とても重傷を負っていたとは思えない状態だ。 「ふあぁぁ。このでっかいあんちゃん運ぶの疲れたわ」ベルが大きなあくびをした。 「何言ってんの。重さなんて感じないでしょ」 「アホ、元の姿に戻るだけで力使うんや」 「伝説の悪魔王が聞いて呆れるね」 「言っとけ。この世界で活動すること自体疲れるねんで。ったく、ふぁ〜。なんや、眠なってきたわ」  また、ベルが大きなあくびをする。魔除けのお香を焚いている影響で、辺りは静けさを保っている。ぱちぱちという、薪の弾ける音だけが響き渡る。  横たわっているヨシュアの瞼が、わずかに動いた。一瞬、足もぴくりと動いた。 「ん…」  うっすらと、ヨシュアの瞼が開かれる。徐々に、徐々に、眼が開く。だが、眼が完全に開いても、焦点が定まっていない。状況が把握できていないのか、ヨシュアはぼんやりとした視線を夜空に向けていた。 「眼が覚めたみたいやな」  ベルが眼を覚ましたヨシュアに気づいた。しかしファルーナは、じっと焚火を見つめたままだ。  やがてヨシュアの意識もはっきりとしてくる。意識を失う前の記憶を回想出来たのであろう。はっきりとわかるほどに眼が見開かれ、辺りを見回した後に、自分の身体の傷を確認した。  ヨシュアの記憶にあったのは、血まみれで瀕死の状態の自分だ。しかし、今の自身はどうか。傷の痕こそあれど、出血はない。ならばここは冥界か。それにしては意識がはっきりとしている。 「起きたか。身体はどう? 動かせるか?」  ファルーナがヨシュアに呼びかける。少し間を置いて、はっとしたヨシュアが、ファルーナを見る。  虚ろな意識の中、触れた唇の感触。口に広がった血の味。ヨシュアの眼前にあったのは、ひとりの女性の顔。細い記憶の糸を辿る。思い出される顔は、紛れもなくファルーナの顔だった。 「あ…。き、君が、助けて、くれたのか…?」  マンティコアに挑んだ末に、完膚なきまでに叩きのめされたヨシュア。もはや死を待つだけの身だった。それをはっきりと思い出したのだ。 「あんちゃん、ファルーナに感謝せえや。本来なら、もうこの世にはおらんで。どんな名医も高僧も、もう手遅れやっていう状態やったんやからな」  身軽に跳躍したベルが、とことことヨシュアに近づいていく。ヨシュアは面喰ってしまういる。それもそのはずだ。喋る猫を眼前にして、平静でいられるほど、人は強くないものだ。 「にしてもあんちゃんも、なかなか頑丈やな。傷の度合いから見て、即死でもおかしくないで。よほど耐性がすぐれてるんか、それともこれまでくぐり抜けてきた修羅場が壮絶だったか、わからんが、何にせよ、運がよかったわなぁ」  ベルがヨシュアの周りをくるくると回りながら言う。後ろ手を地面について座っているヨシュアは、あっけにとられて呆然としてしまっている。 「あんた、冒険者(レンジャー)でしょ?」  ファルーナが呼びかける。また、少し間を置いて、ヨシュアが頷く。側にいる奇怪な猫の存在は、とりあえず忘れようと判断したようだ。 「冒険者(レンジャー)だ。名を、ヨシュア・ナイトレイという」  胡坐をかいて居ずまいを正したヨシュアが、神妙な面持ちになった。一度、ファルーナを見つめると、ゆっくりと頭を下げた。 「この度は絶体絶命の危機を救ってくれて、感謝申し上げます。貴女の名前をお聞かせ願いたい」  ヨシュアの真摯な姿勢に好感を持ったのか、ファルーナが柔らかい笑みを浮かべた。 「ファルーナだ。ファルーナ・ファータ=モルガーナ・フルーレル・ジーナローズ」 「ファルーナ。お前、忌み名も名乗ったらあかんやろ…。それ、口にしたらヤバいで」 「あっ」  ベルの指摘に、ファルーナがはっとする。口元に手を当てて、咳払いをする。少し恥ずかしそうな表情をしている。 「ファルーナだ。ファルーナ・フルーレル・ジーナローズ! これが私の本名だ! さっき聞いたのは忘れろ!」 「あ、あぁ…」  あまりのファルーナの剣幕に、ただ頷くしかないヨシュアだった。そのヨシュアの眼前に、ベルがちょこんと座った。 「俺は奈落(アビス)の悪魔王のひとり、ベルゼビュートや。訳あってファルーナと契約を結んで、今はファルーナの使い魔(ファミリア)をやっとる。この猫の姿もな、この世界に降臨するための仮の姿や」  突拍子もない話題に脳が追いついていかないのか、ヨシュアがきょとんとする。魔法を使うことはできるが、魔法についての深い知識は持ち合わせていないらしい。 「ほんで、ヨシュア言うたな。お前に今から嬉しい報せがあるで! なんと、今日からお前も、ファルーナの使い魔(ファミリア)。つまり、俺と仲間や‼ 嬉しいやろ~!」  きょとんとした表情のまま、ヨシュアが静止する。まるで時間そのものが停止したかのように、じっと動かなくなってしまった。 「え…?」  時間を置いて、ようやくヨシュアが口にした言葉。それは疑問、だった。自分の頭の中で、どんなに考えても答が出なかったのだろう。湧き上がってくるのは疑問しかなかったに違いない。 「まあ、現実を受け入れられんのはわかる! せやけど、しゃーない! ぶっちゃけ言うと、お前は一度”死んだ”んや! マンティコアにこっぴどくやられてな! すうっと、意識が落ちていく感覚、覚えてるやろ?」  ベルが訊くと、ヨシュアが回想するように視線を宙に泳がせた。虚ろな意識。触れた唇の感触。そのわずかな時間に残る感覚、それをヨシュアは覚えていた。 「あ、あぁ。覚えている。でも、ほんの微かな感覚だ」 「せやろ。あれは冥界に落ちていく感覚や。あのまま魂が冥界に引きずり込まれて落ちていく。それを”死”と、この自然世界(ナトゥーア・プレーン)では言うんやな。普通の人間なら、そんな感覚記憶してへん。お前の中にその感覚があるっちゅーことはな。つまり、一度お前は”死んだ”んや」 「でも、生きてる」  話が飛躍しすぎて感覚が麻痺しているのだろうか。もはやヨシュアにとって、猫が喋っているとか、そんなことはどうでもよくなっているようだ。 「ああ、今はな。でも、いずれまた”死ぬ”。生き続けるには、ファルーナの”魔力”と”血”を、永久に補給してもらわなあかん」  そこまでベルが言うと、ファルーナが立ち上がった。ヨシュアのもとへやってくると、右手を差し出す。 「お前にはすべてを話さなければならない。ヨシュア・ナイトレイ。私と、お前の間に結ばれた”血の契約”について。そして、私の秘密についてだ」  ヨシュアの背筋が震える。ヨシュアには、眼前にいる美しい女性が、あのマンティコアよりも恐ろしいものに映っていた。  ファルーナを見上げるヨシュア。そのファルーナの背後では淡く発光していた月が、不気味に紅く変色していた。
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