キスは血の味がした

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 石材と木材で造られた家屋が建ち並ぶ街並み。夜は家屋から漏れる灯りや街灯が、道標となる。  ハイデというこの町は、都市国家ヴェルダン市国の地方にある町である。  静かなひと時を過ごす住宅区とは別に、宿屋に併設されている酒場は賑わっていた。  ハイデにある宿屋の中では、中規模な部類に入る宿屋"いななく仔牛亭"。併設されている酒場では、仲間と共にテーブル席で、豪快にエール酒をあおる冒険者(レンジャー)や、カウンター席で静かに飲む行商人、隅のテーブルで語り合いながら飲む町民など、客層は多様である。  木造の温かみのある酒場。木製の丸いテーブルとウッドチェアーの席が十五席ほど。カウンター席は十ほど並ぶ。  カウンターの向こう側では、マスターがカウンター席のお客と談笑したり、奥のキッチンでは、コックが調理を続け、ウェイターは忙しくホールを動いていた。  吹き抜けの二階席は、四角いテーブルとソファーの席が三つほどあった。  オーダーが届くのが遅かったり、ウェイターに声をかけづらいのが嫌われているのか、二階席のお客は、ファルーナとヨシュア、ベルの一組だけだった。  テーブルには塩漬け豚肉とジャーマンポテト、この地域で流通しているリンゴ酒が並んでいた。 「なんや、ヨシュア。呑まんのか? マンティコア退治で、しばらく遊んで暮らせるだけの金が入ったんや。ちょい派手に呑んでも平気やで?」  プレートに入ったミルクカクテルを飲みながら、ベルが陽気に話しかける。ヨシュアはリンゴ酒の入ったグラスを手に持ったまま、中身を干すのを忘れているように、ぼうっとしたままだ。  一方、ファルーナはヨシュアの様子を気に掛けながらも、好物のジャーマンポテトを頬張っていた。まだ熱いのに、食べる気持ちが勝っているのだろう。かぶりつきたいのをこらえて少しずつ食べていた。  ヨシュアが呆然とするのも無理はない。わずか半日の間でヨシュアの身に起こった出来事は、常人の理解を遥かに超越している。  まず、そもそもマンティコアに単身挑んだというヨシュア自身の話が信用されないし、そのマンティコアによって一度”死んだ”というのは、もっと理解されないだろう。現にヨシュアは生きている訳である。  さらに件のマンティコアを倒したのが、ヨシュアよりも遥かに華奢な女性ひとりと、一匹の猫。その女性は喋る猫を使い魔(ファミリア)として連れていて、ヨシュアはその女性によって死の淵から舞い戻った。そして今後、ヨシュアはその女性の”血”を供給しなければ、死んでしまうということ。  そして何より、その女性、ことファルーナの秘密を知ったヨシュアは、この先のこと、そして自分自身のこと、ファルーナのことを、深く思案していたのだ。 「あの、ファルーナ、さん…」  唐突に、ヨシュアが口を開く。血まみれだったマンティコアとの闘いの時とはうって変わって、こうして普通にしていると、ヨシュアははっとするほどの美男だった。呼びかけられたファルーナもまた、凛とした美貌を持っている。まさに美男美女。ウェイターも気安く近寄れないほどの雰囲気を醸している。 「ファルーナで、いい。そんなに他人行儀にしなくてもいいし」 「あ、ああ。わかった」  ファルーナの血を受けなければ生きられない。そんな身体になってしまったとしても、二人はまだ会って間もない。いきなり距離を縮めるのは無理があるだろう。 「その、古くから伝わる、”白き聖女と黒き魔女”だっけ? 君はその伝説を受け継ぐ者って言っていたよね」 「ああ。古に伝わる、伝説の黒き魔女の血を受け継ぐ者だ。我が家は代々、魔女の家系。だから、常に姓を変えながら、”忌み名”だけを受け継いできた。その”忌み名”は決して口外してはならない。すれば、禍が降りかかると言われていた」  伝説の黒き魔女。その名を、”ファータ・モルガーナ”という。黒き魔女にだけ使うことができるという、魔女語魔術(ウィッチ・ロアー)を操り、世に滅びをもたらすと伝えられていた。 「君はそれを誰から聞いたの?」  ヨシュアが訊ねると、ファルーナの表情が曇った。わずかにうつむき、辛そうな顔をしている。それを察したのか、ヨシュア慌てたように質問を取り下げる。 「いや、いいんだ。答えられないならそれでも」 「…祖母だ」  ヨシュアの意思に反して、ファルーナはぽつりと漏らすように口を開いた。顔をあげたファルーナの表情に、もう曇りはなかった。 「私は祖母に育てられた。祖母は元気だったが、流行り病にかかってな。臨終の際に薄れゆく意識の中で教えてくれた。だから、詳しいことは私もよく知らないのだ。ここ数年、自分で伝承のことを調べている」 「そうなのか。それで旅を続けているんだね」 「ああ。伝説を扱った文献や書物を探している。”白き聖女と黒き魔女”の伝説とはなんなのか。そもそも、その伝説によって何が起こるのか。私がもし伝説の血を継ぐ者なのならば、それを見極めておく必要があるし、知る資格があるはずだ」 「そうだね。それは俺も同意するよ」  ファルーナは三つ目のジャーマンポテトに手を伸ばした。本当に好物らしく、両手で握ってかぶりついている姿が、少し愛らしく映っている。  ヨシュアの視線が、今度はベルに向いた。ベルはプレートに載った塩漬け豚を、がつがつと食べていた。ヨシュアの視線に気づいたベルが、口の周りをぺろりと舐めた。 「なんや?」 「いや、ベルはどうしてファルーナと行動しているかなと思ってね。君は奈落(アビス)の悪魔王なんだろう?」  もう一度口の周りを舐めたベルが、ヨシュアの前に移動してちょこんと座った。 「奈落(アビス)は別名、地獄とも言う。地獄と冥界の違いがわかるか?」 「えっと…。それは不意打ちだな」  ヨシュアが頭の後ろを左手で押さえた。そのやり取りが可笑しかったのか、ファルーナが吹き出すように、くすりと笑った。 「冥界は、自然世界(ナトゥーア・プレーン)に生きる命の霊魂が、死後に運ばれるところや。善人でも悪人でも、王様でも庶民でも、エルフでもドワーフでも、果ては転生する精霊の魂も、一度は冥界に運ばれる。そこで、邪心を持つ者ってのは、奈落(アビス)に落とされるんや」 「誰がそれを決めるの?」 「誰とかやのうて…。ヨシュアは、もの食ったら、それを噛んで飲み込むわな。それを胃の臓が溶かすやん。そんで余分なもんを糞として出すやん。そんな感じや」 「そんな感じやって。なにも糞に例えなくても…。まあ、つまりそうなってるんだね」 「せやな」 「でも、世には悪人が絶えないよね?」 「それもな。邪心っつーのは、いつ芽生えるかわからんのや。輪廻転生する魂も、常に同じように生まれる訳ちゃう。善人が悪人になることなんてようあることや。もう、ホンマに、こいつは何度転生してもあかんわ! ってやつが奈落(アビス)行き決定になる。そいつらはインプみたいな小悪魔になって、世に禍をもたらそうとするんやな。仲間を増やそうとすんねん」  ファルーナはベルの話をすでに知っているのか、それとも関心がないのか、ジャーマンポテトを追加注文し、リンゴ酒を一気にあおった。 「俺らは悪魔を束ねる王。悪魔っちゅーのは、奈落(アビス)で生きとる。寿命はない。魂がなくなった時、消滅っちゅーて完全に消える。魂がなくならん限り、何度でも甦る。まあ、自然世界(ナトゥーア・プレーン)にいる輩には、悪魔の魂を消滅させるんは無理やな」 「奈落(アビス)に落ちた霊魂が、悪魔になるの?」 「インプみたいな小悪魔になることはあるけどな。悪魔っちゅーか、高位の悪魔は”魔神”って言うんや。俺らのような”魔神”は奈落(アビス)で生まれる。魔神はみんな奈落(アビス)出生や。自然世界(ナトゥーア・プレーン)の伝承に、たまに出てくるやろ? なになに魔神っつーけど、あれ、みんな悪魔のことやで。みんな悪さするの好きやからな。ほんでさらにや。常に身内で喧嘩すんねん」 「け、喧嘩…」 「せや。やっとることは人間と同じやな。ところがや、最近奈落(アビス)を揺るがす大事件が起こったんや!」  いきなり大声を出したベルが、身を乗り出した。その迫力に気圧されたヨシュアが、思わず身を硬くしていた。 「な、なに…、それは?」 「奈落(アビス)一の実力者、大魔王”メフィストフェレス”が、自然世界(ナトゥーア・プレーン)の精霊に封印されたんだって」  ベルの代わりに、ファルーナが答えていた。ファルーナはやはり事情をすべて知っていたようだ。しかし、話に深く関わる気がないのか、追加注文したジャーマンポテトを手に取った。  ファルーナを見ていたヨシュアが、ベルに顔を転じた。するとベルが深いため息をつき、首を何度も横に振った。 「”メフィストフェレス”ちゅーたら、聞いただけでどんな悪魔も震えあがる、絶対王、魔神王とも呼ばれる存在やで? 奈落(アビス)でも最大の勢力を誇るまさに大魔王や。それが、興味本位で自然世界(ナトゥーア・プレーン)に遊びに出て、力が顕現する前に可愛い妖精にほいほいついていって、封印されたんや。この機に敵対勢力が侵攻するし、傘下勢力が造反しよるし、もう大変やねん。んで、俺らメフィスト配下の悪魔王が、下級悪魔も動員してメフィストのアホ探しとんねん。…せやけど魔神も含む悪魔っちゅーのはみんな、能天気でいたずら好き、好奇心旺盛やからな。みんなメフィストのこと忘れてどっかしらで遊んでんねん! 今、奈落(アビス)でメフィストの代わりに勢力の総指揮執っとるアシュタロトがブチ切れや! はあ、もう怖くて帰れへんわ…」  一気にまくし立てて疲れたのか、ベルはその場でごろんと横になった。 「自然世界(ナトゥーア・プレーン)で活動するには、依代が必要や。そしてそれを維持する”力”も必要になる。その”力”っちゅーのは、魔神としての力じゃあかんねん。この自然世界(ナトゥーア・プレーン)の”力”でないと、この姿を維持できん。せやから、ファルーナの使い魔(ファミリア)になって活動してるんや。べつに、”力”はなんでもええんや。神器(アーティファクト)でもええし。不思議な魔導石でもええし。でも、ファルーナの”力”は強大やし、こいつ守っとる限り自然世界(ナトゥーア・プレーン)で活動するのは困らんからな」 「なるほど。つまり、この世界の力を受けないと、活動できないのか。その代り、ベルはファルーナに、魔神として持っている魔力や魔法元を与えて手助けしたり、時には戦闘を支援するんだね」 「せやな。お互い持ちつ持たれつや」  ヨシュアも聞き疲れしたのか、リンゴ酒を飲んで、塩漬け豚を食べた。テーブルにはいつの間にか、追加注文のリンゴ酒が届いていた。 「あんたは?」 「え?」  今度はファルーナがヨシュアに訊く。グラスを持ったまま、ヨシュアがファルーナに顔を向ける。 「私とベルのこと話したんだからさ。あんたのことを聞かせてよ」  ファルーナのヴァイオレット色の瞳が、ヨシュアを見つめる。魅入られてしまいそうなほどのその美しい瞳に、束の間ヨシュアは見とれていた。 「せやで、人のことを聞いたら、自分のことも話す。これが自然世界(ナトゥーア・プレーン)の常識やろ」  ベルも顔をあげてヨシュアの方に顔を向けた。 「…そうだね。じゃあ、俺のことを話そうか」  ヨシュアがリンゴ酒を、一気に飲み干した。
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