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渋谷のとあるビル。大きな窓から、街を見下ろしていた。
「あの辺に昔は駅があって⋯⋯」
思いを馳せながら目でなぞる。
「あそこら辺に玉川さんがいて、隣を私が走ってて⋯⋯」
「楽しいのか?」
振り向くと、すぐ後ろで東横が呆れたように立っている。
頼んでここまで連れてきてもらったのだ。
「楽しいよ」
そう答えたが、本当のところはわからなかった。
「⋯⋯ロープウェイもあったなあ」
「そうだな」
変わりゆく街並み。『昔』はどんどん増えていって人々から忘れられていく。
あそこに走っていた電車のことなんて、きっともう知らない。
銀座さんも遠くへ行く。ほんの少しだけのその距離が、何故だか大きく感じる。
私は末っ子。戦前最後の路線。
みんなにたくさん甘えて育ってきた。
幼いはずの私はどんどん歳を重ね、しかし前に進めない。いまだ、壁越しの隣に幻想を抱く。
時の流れに変化は付き物なのはわかっているのに、自分だけどこか白黒の世界に取り残されている。そこから出ようとしないのは、他でもない私自身だ。
ひとりぼっちは寂しい。いつまでも慣れない。
このままだと孤独のうちに息絶えてしまいそうな気がした。
無理矢理にでも、連れ出してほしい。そう思い、お姫様じゃあるまいし、と自嘲する。
「井の頭!」
それは東横の声ではない。
振り返ると、ここまで走ってきたような二人の姿。
「はぁ⋯⋯よかった、ここにいたのか⋯⋯」
「お姉ちゃん」
「は、走ることないじゃないですか⋯⋯」
「世田谷さん」
お姉ちゃんは私の元までやって来る。
「東横と出かけたって聞いたから⋯⋯」
「そんなに急ぐほど私は何を疑われたんだ」
お姉ちゃんは無言で私を抱き寄せるとジトっと東横を見る。
「井の頭はあげないぞ」
「誰も貰おうとしてないから」
「私はあげられちゃうんですか?」
「えっ、せ、世田谷もあげない!」
「えへへ」
「井の頭はともかくさあ」
遊ばれるお姉ちゃんについ笑い声が漏れる。
「3対1で東横さんが貰われないとだね」
「えっ、いらない⋯⋯」
「シンプルに傷つく反応すんな!」
可笑しくて、楽しい。
ああそっか、昔はこんなやり取りできなかったんだ。
私たちが一緒に笑うなんて有り得なかった。
これは確かに変化のひとつで、だとしたら素敵な変化だ。
「二人とも、ここで何してたんですか?」
「こいつが高い所から街見たいって」
「街ですか。たしかによく見えますね」
世田谷さんも、窓際に寄って街を見下ろす。
「何だかたくさん工事してますね」
「渋谷に限らず、どこもかしこもそうだな」
「お姉ちゃん高架化進んでる?」
「⋯⋯」
進んでない。土地の買収だけでなく、度重なる災害のせいで建設界隈が忙しいのもあるだろう。
「⋯⋯井の頭、玉川さんがいたのってとの辺り?」
「へ?」
お姉ちゃんは、ぼんやりどこかを見つめながら尋ねてきた。
そっか、渋谷にいた頃も全然外に出てなかったから、地理に詳しくないんだっけ。
「あそこ、新しいビルの向こう、ハンズあるでしょ。うーん⋯⋯なんて言うかな。あの辺」
「雑だな」
詳しく説明しようがない。
「玉川改札ってあるでしょ」
「あったような⋯⋯」
さては西口を使っているな。
「それが、玉川さんの名残りだよ」
「そうか」
お姉ちゃんは嬉しそうに笑う。
昔に面倒を見てもらっていた、今は亡き路線の存在した証。
生きてはいるんだけどね。
「何でかなあ、昔って、どうしてこんなに魅力的なんだろう」
「あ、それ、不思議ですよね、何でもかんでも昔と比べちゃいます」
「今が不幸なわけじゃないけど、懐かしいよね。でも戻りたいかと言われたら、別にいいかな」
遠くを見つめるお姉ちゃんの手を握る。
「お姉ちゃんって呼べるもん!」
そう言うと、照れ臭そうに笑う。警戒の解けきった素直な表情だと思った。
変化は怖いけど、こういう素敵な変化もあるのなら、それを探すのもいいかもしれない。
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