蜘蛛の家に棲む彼女

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「気を使える人間になること」  これは僕が子供の頃に父親に口酸っぱく言われた言葉だ。  幼少期は言葉の意味はわからなかったが、高校生から大学生に身分が変わる頃に漠然とこの言葉の意味を知った。  気とは人間が発するものであり、しかし目には見えず、ぷかぷかと浮いているようなものや、糸のようにぴんと張ってあるものもある。それは人によって違うが、僕の知る蜘蛛の家に棲む彼女は、少なくとも彼女は、後者のぴんと張っている気を持つ者だった、だから彼女は誰が何と言おうと動物ではなく人間なのだ。  彼女の気はまるで蜘蛛の糸のようだったと、僕は感じていた。  そして僕はいつまでも彼女の理解者でありたい。 蜘蛛の家に棲む彼女 1  それはとても熱いカレーだった。  日本のどこかの住宅街の一軒家で一人暮らしをしている僕の自作のカレーだ。  まあ、あんまり美味しいカレーではないので、特に注意深く感想を探す必要は無い。  僕はせめてカレーらしく白い皿に乗せたカレーをあっという間に平らげ、考え事を始めた。  今、僕の心を射止めているものは斎藤健治という作家の、冬の蜘蛛という小説だ。  僕は作家ではないので、上手い言葉で表現出来ないが、この小説は僕の心の形にぴたりとはまった、それは本当だ。言える感想はそれくらいだ。  話は変わるが、人生というものはつまらない、というより人間社会というものがつまらない、僕なりに言わせてもらうと、嘘、に溢れているからだ。  そんな僕は社会不適合者なのだろう。  僕はそんなことを考えていると嫌な気分に陥り、明日提出する履歴書を紙ヒコーキに変身させ、天井に向けて飛ばした。  あぁつまらない、現実より虚構の世界の方がよっぽど面白い。僕はそう思う。 2  回覧板が回される時期が嫌いだ。  近所の人間は全員、私の家を気味悪がる。  蜘蛛が涌いている私の家を。  私は近所の人間から動物と揶揄されているのを聞いたことがある。近所付き合いをしなくて人と話さないから人ではない、だから動物だ、という意味らしい。  さながら、私は蜘蛛の涌いた巣に“棲む”女と言ったものだろう。  いつも私に回覧板を渡しに来るお隣さんの若く見える女性は私の家のポスト周辺に回覧板を投げる、勿論ポストにも蜘蛛が涌いているから当然だ。触りたくないのだろう。  しかし、今回は違った、冬だが蜘蛛が活発の今の時期の今月で2度目の回覧板回し、それを私に渡す役はお隣さんではなくお隣さんと仲が良い男性が代理で行った。  私は2階の寝室のベッドの上でその男性が回覧板を、ポスト周辺の蜘蛛を嫌がらずにポストに丁寧に入れたのを確認した。  それだけでも、驚愕の事実だが、部屋の窓を開けていた私は聞き逃さなかった。  男性が私の家をまじまじと眺めて「冬の蜘蛛」と呟いたのを。  この男性は変わり者だ。私は卑しく自分の身分も考えないでその男性と自分を同類だという考えに至り、その男性と話したくなった。  そして普段あまり外には出ない私は外着に着替え、髪をヘアーブラシでといて、外に出た。  幸い、男性はまだいた。しかし帰ろうとしていた。  「すみません」と私は男性に声を掛けた。  働いてもいない、学生でもない、滅多に外にも出ない私の久しぶりの発声だった、と私は思った。 3  話し掛けられたのか?、それは何故だ?と僕は疑問を抱いた。  彼女がどういう人間でどういうつもりかわからないが僕の方は彼女と接点を持ってメリットは1つも無いだろう。  何せこんな家に平気で住み、親の遺産を食い潰しながら生きる無職の女だ。僕は近所の人からこの女性、確か名前は三雲結という名前は可愛らしいこの女性の噂を聞いていた。  そんな女と関わりたくない。  僕は今、名前は可愛らしいと思ったが、彼女の方を振り向いて僕は考えを改めた。  名前だけ、ではない。容姿も中々可愛らしかった。髪の毛は茶髪のロングヘアーで、瞳は大きめで強い意思を抱えているように見える、鼻は低いが唇は薄く全体的にバランスは取れている。服装は下はGパンで、上は白と黒のチェックシャツ、カジュアルでボーイッシュだが普通だ。 「あの」と彼女は声を発した。確かに彼女の口は開いていて、その中から綺麗な音色が鳴り僕の耳に響いた。嘘ではない、妄想でもない。  僕は彼女の見た目と綺麗な声に確実に惹かれ始めていた。しかし家の玄関の扉付近で立っている彼女の周りには色んな種類の蜘蛛が動き回っている。  先程抱いた関わるメリットは無いという意見とは食い違う行動だが、結局僕は彼女に「はい、どうしました」と返事をして、彼女と関わる道を選んだ。 4  夜。  外食なんていつ以来だろう。  しかも私は男性と2人でレストランで座っている。今の自分の世間体を考えると、奇跡だと思う。  その男性、今日の昼に初めて出会った、その男性は私の家を気味悪がずにポストに普通に回覧板を入れた。  そこから私は男性に話し掛け、男性も私を拒否すること無く、まあおそらく服装、見た目は普通だからだと思う、これでも学生時代は可愛い、と言われていたのだ。話は逸れたがとにかく男性は蜘蛛の家に棲むと言われている私に嫌な顔を見せず、しかも食事に誘ってくれたのだ。  そして、今私達はレストランにいる。  というのは嘘だ、申し訳ない、見栄を張った、本当はその私を拒否しなかった今村了という男性は私と少し世間話をしてさっさと立ち去ってしまった。  今の私はその出来事に浮かれ、柄にもなく1人でファミリーレストランに来ているのだ。 「今村了か」と私は呟く。  今村了、一般的に普通とされる人だと思う、私と違って。  しかし少し変わっているように私には見えた。  まあ印象はそれくらいで、それ以上に私が特に関心を抱いたのは今村了からの質問だった。 「あなたは何故蜘蛛を駆除しないんですか?」  今村了は私にそう質問した。  当たり前の疑問だとは思うが、初対面の人のプライバシーに触れる物言いは普通とは言えないだろう。  やっぱり今村了は変わっている、少なくとも私はそう思う。  その後私の家のことを勿論知らないレストランのウェイトレスに普通に対応をされて、普通に対応し返して家に帰った。  家に面している歩道に辿り着くほど家の周りに蜘蛛がたくさんいた。家の玄関から歩道までには成人が寝転がるのが精一杯なくらいの小さい庭しかない。その庭には雑草が生えていて蜘蛛が身を隠していたり歩いていたりする。  それを見て私は仕方ないだろう、と思う。  まあその感想を抱く理由については後に語ろう。  まだ核心に突くには早すぎるから。 5  朝。  僕は寝起きのぼんやりしてるようなすっきりしているような頭で昨日とある会社の面接をキャンセルしたことを後悔していた。  その会社には行きたかった、気持ちもある。しかしそれ以上に再び人間社会に参加するのが面倒臭いという気持ちが勝ったのだ。  僕は今27歳。  僕の今までの働いた経験は大学を卒業してから新卒で入ったとある靴メーカーでの4年間くらいだ。  そこを辞めたのは去年、理由は勿論人間関係を鬱陶しく思えてきたからだ。  働くのは、というより社会というものは面倒臭い。  僕はそう思う。 6  言っておくが私は蜘蛛が好きというわけではない。  それだけは断言出来る。  ただ嫌いとか気持ち悪いという感情も抱いていない。  それは25歳の女性としては特殊なのだろう。 7  僕は家から近くにある街の中でうろうろと彷徨っていた。  そこでもつまらない、と感じていた。  どこを見ても、人、人、人。人がいる。  ただ人が嫌いというわけではない。人間関係というルールが苦手なのだ。  人の話を聞くのは好きだ。だから僕は色々な所に出掛けて、そこにいる誰かと話す。  僕が見知らぬ人間だから心の内を明かさない人もいるが、大抵の人は一度きりのみ話す人間に対して後腐れが無いからか自分のことを結構語る。  それには僕が話を聞く場として選ぶ場所に飲み屋が多く、酔った人を相手に話を聞くことがほとんどだからもあるだろう。 8  私はあの回覧板の日から2週間が経ち今村了にもう一度会いたいと思い始めていた。  私の家を知って尚、私を受け止める人間は珍しいからだ。  今日は回覧板が回る日。  また今村了が来ないだろうか、と私は思った。というより願った。 9  2週間ぶりに僕はその女性と会った。若く見えるが30歳は越えているだろう女性、高田史子さんだ。  高田さんはこの間僕に蜘蛛の家へ回覧板を届けることをお願いした女性だ。  僕と高田さんは会ったら話すがその程度であり、友人ではない。  今日はスーパーで買い物をしている時に偶然出会い、お互いが挨拶をすると高田さんは人を利用する時に使うにやにやした笑顔を作り、「いきなりだけど、また回覧板を蜘蛛の家に届けるのやってくれない?」と頼んできた。  僕は高田さんの笑顔に対して少し嫌悪感を抱いたが、三雲さんにまた会うのは本望だな、と思い、高田さんの頼みを聞くことにした。 10  私、三雲結と、今村了は再会をした。  私が自宅のポストの前で立ちながら外の景色を眺めていたら、今村了は現れた。  左手を使い回覧板を抱えながら持っている。  私は嬉しかった。また人と話せると思ったからだ。もしかしたら人と話すことが好きなのかもしれない。 「今村さん、こんにちは、久しぶりね」 「こんにちは、まさかまた会うとは思いもしませんでしたよ」 「そう、だけど二度あることは三度ある、これが本当ならもう1度会えるわ」  愛想笑いをして今村了は少し困った感じを見せる。  私に会いたくないのかしら、まあ当然か。 「回覧板もらうわ」と言って私は右手を開いて今村了に差し出した。 「ああ、そうですね、それが目的でした、あはは、忘れてました」  私がその言葉の意味を考えると、今村了は「実は前会った時から三雲さんにまた会いたいと思ってたんですよ、その思いが先行して回覧板のことを忘れてました」  ほおほお、と私は思う、今村了は社交辞令が上手いな。 「私にまた会いたいと思ったの?」 「はい、一言謝りたくて」  ああ、そっか、前の発言を失礼だと気付いたのか、私が普通ではないにせよ、だからといって何をしても、何を言っても良いというわけではないという考えに至ったのか、性格良いではないか。  私は今村了が私自身に惹かれるところがあったからまた会いたいという気持ちを抱いたわけではないことに対して少しショックを受けていた。 「何か謝らないといけないようなことを言ったの?」と私はかけなくてもいい鎌をかける。 「はい、あなたのことを男みたいですねと言ってしまってました」  私は、そっちか!と思った。そう言えばそんなことも言われていたが、謝る方がプライバシーに触れた質問の方ではないことに驚いた。 「いや全然いいわよ、むしろ嬉しかったわ、私男まさりだしボーイッシュな女性でいたいと思ってるから」  それに対して今村了は笑顔でほっとしましたと言った。  今村了は続けて「そういえばさっき二度あることは三度あるって言ってましたね、何なら今夜3度目の出会いをしませんか?」と言ってまた笑顔を作る。  笑顔が爽やかだ、と私は感じた。しかし言葉の内容が爽やかではない、会って2度目で暗にヤりましょうと言うなんて。  と、私が勘違いをして、「2度会ったばかりの人間とはまだ早いんじゃない?」と聞くと、今村了は少し考えて「何言ってるんですか、食事をしましょうと誘ってるんですよ、変なことでは無いです」と焦りながら答えた。  私は焦っている今村了を可愛いと感じながら、同時に恥ずかしかった、これでは私が淫乱女ではないか。  今村了とはその後特に会話をせず食事の場所と時間だけ決めて、別れた。  今村了は別れ際に「蜘蛛は連れてこないで下さいね」と爽やかな笑顔で言った。  こいつは天然なのかと私は思って少し苛ついたが、それを言わせる状況を作っている私も悪いので怒りを沈めた。それにまさか妄想ではなく本当に一緒に食事をすることになるなんて、と思いかなり嬉しかった。  今村了は天然だが、私を受け入れてくれる奇跡的な人だ。  私は本当に嬉しかった。 11  2度目の再会。  僕と三雲さんはそれを今からする。  僕と三雲さんが住む住宅街の近くのイタリアレストランへ待ち合わせの10分前に僕は着いた。三雲さんがここを希望し僕も了承した。  待っている間に僕は三雲さんについて考えた。  彼女は何故あの家で暮らしているのだろう。何故蜘蛛を取り除かないのだろう。  蜘蛛が好きなのか?  この前何故蜘蛛を駆除しないんですかと質問した時は、蜘蛛の研究をしているからと答えられたが、それは嘘だと隠す気も無いくらいの棒読みだったのだ。  僕が店に着いてから5分が経ち、彼女は現れた。  三雲さんの服装は僕が初めて彼女を見た時と同じものだった。  僕達は軽く挨拶をして、すぐに店に入り、イタリア料理を注文しあっという間に平らげ、二人ともウィスキーで乾杯をした。食事などどうでもいい、ここからが夜の始まりだ、と言わんばかりに。  僕達は気が合うのだろう。そうだ、きっとそうだ。間違いない。お酒を前に楽しい気分になった僕はそう思った。  三雲さんはウィスキーロックを一気飲みして、僕も負けじとウィスキー水割りを一気に飲んだ。  乾杯をしてから数10分会話を楽しみ三雲さんは唐突に「ねえ今村君、お酒好きなの?」と質問してきた。三雲さんの顔は酔っ払い特有の赤みを帯びている。 「いやいや、三雲さんには勝てませんよ」と僕は笑う。 「あははは、かもね。でもいつかは勝たなくちゃね、私に負けてたら一人前にはなれないよ」と上機嫌の三雲さんは6杯目のウィスキーロックを勢い良く飲む。  叶うわけない、と思いながら僕は3杯目のウィスキー水割りをゆっくりと飲んだ。正直最初は一気飲みしたが本当は僕はアルコールを勢い良く飲むのは好きではない。僕は酒をゆっくりと長く楽しむものだと思っているのだ。 「三雲さんは普段どんなことをしているんですか、休みの日とか」と僕は悪気なく三雲さんの酒のペースに付いていけないので、話題を変えた。  途端にそれまで楽しそうだった三雲さんの顔は無表情になった。 「私は毎日が休みよ、悪かったわね」  僕はそこで初めて失言をしたことに気付き「いや、知ってますよ、普段はどう暮らしているんですかと聞きたかったんです」と誤魔化しになっていない誤魔化しをした。 「私の趣味はオーケストラのコンサートをテレビで観ること」と、グラスを強めにテーブルに置いて三雲さんは答えた。 「オーケストラですか」と僕は聞いた。それから一時間程三雲さんのオーケストラについての語りを聞かされ、その最中酔いすぎで場所を考えなくなった三雲さんの大声に店員や周りの客が迷惑そうな顔をし始めたので、僕は三雲さんの語りを何とか止めて一緒に店を出て、僕は泥酔している三雲さんの手を引きながら近くの居酒屋に行くことにした。 「私はねえ、チェロが好きなのよ」と三雲さんは机に突っ伏しながら言い放ち泣き始めた。  わけがわからなかったが、きっと深く悲しい過去があるのだろうと僕は思い「それは良い趣味ですね」と返した。自分の方もわけのわからない返しだった。  その後はタクシーを呼んで、三雲さんを家まで送った。三雲さんを家まで送った僕は足元がおぼつかない三雲さんを寝室まで連れていくことになった。家の中まで蜘蛛と蜘蛛の巣は溢れかえっていた。存在することが当たり前だと主張するように。  僕は大抵の虫が平気なので蜘蛛を気持ち悪いとは思わない。  そして結果的にベッドに横たわってすぐ寝てしまった三雲さんだったので、特に僕達の間に何かが起きることは無く僕はそのまままっすぐ家へ帰った。  ちなみに徒歩だ。三雲さんの家から僕の家は歩いて10分も掛からない所にある。  こうして僕と三雲さんの外食は終わった。 12  私は朝起きて二日酔いの状態になっていると自覚したので、ぼんやりした頭で、あれ昨日酒飲んだっけと、昨日のことを思い出そうとした。 「い、えっと」ぼんやりした頭が誰かを思い出そうとする。「い、い、いま……今村了」  そうだ、私は今村了、もとい、今村君と昨晩酒を飲んだのだ。 「今村君と呼んで下さい」と犬を連想させる無防備で無邪気な笑顔を見せて彼はそう言ったのを私は思い出した。  私はあることを思い立ち、シャワーを浴び体を拭き服を着て歯を磨き外に出た。  今村君に会いたい。会いに行こう。私は今村君の家を探した。  幸い住宅街はあまり広くない。探せばすぐ見つかるだろう。  私は自分が安易に考えている自覚を持っていたが、10分程歩いていたら本当に今村君の家は見つかった。  私は導かれているようだと思った。今村君の家まで一度も迷わずに辿り着いたからだ。  私はこの住宅街に住んでいる人全員の苗字を把握している。伊達に永遠に暇を与えられている無職をやっていない。なのでこの住宅街には今村という苗字は1世帯しかないことを私は知っていた。 13  僕はその日昼まで寝てしまい、朝に放送される観たかったバラエティを見逃した。  しかし、昨日は驚いた。  三雲さんが経験豊富でかつ博識で1人のものとは思えない程の複数の考え方を持っている人だと知ったから。  一応、大学までは出ている僕よりも遥かに色々なことを知っていた。  学歴からすると才女、とは言えないかもしれないが、高卒の彼女は下手すると一流大学に出ている人間より頭が良いだろう。  本当だ。僕と彼女は違う、僕なんていつでも多少の変化をすることでその場しのぎをして上手く生きてきたつもりだった。それが自分のアイデンティティだと思い、誇っていた多少の変化が本来の自分を失うだけのものだとわからず、変化をして何かを捨ててその場だけ凌いで僕は何も得ずに生きてきた。そしてその変化をすることで人に合わせ過ぎて人間関係が嫌になった。  その点、働いたことの無いだろう彼女は僕よりも自分を貫いてその上で経験を積んでいった。  外に出ること、働くことが正しいとは限らない。  無職だが持っている情報量が計り知れない彼女を見ているとそう思えてくる。  彼女は凄まじいものを持っている。  生きることがつまらない僕と違い彼女は生きることが楽しいだろう。 14  私は今村君の家のチャイムを押す勇気が持てず、結局その場から離れて3分程北へまっすぐ歩いたところにある、コンビニに入った。  今村君の家はこの住宅街の中でこの県の都会寄りの方の隅に建っている。  対して私の家は住宅街の真ん中程だ。だからこそ目立つのだ。  私はコンビニで蜘蛛の糸というタイトルの漫画を立ち読みした。今の時代立ち読みする人間は多く当たり前になっていて、店員も立ち読みする人間に何も言わない。昔を知るわけでは無いが良くない時代になったのだろう。  蜘蛛の糸という漫画は、女子高生の主人公が下校後自分の部屋に入ると、ベッドの下から蛍光灯くらいの太さの光る曲線があり、それを引っ張ってみると背中に白い文字で絶望と書かれた真っ黒な蜘蛛が引き摺られて出てきて、女子高生が小さな悲鳴を上げると、女子高生の意識は飛ぶ。  あらすじを読んでみるとそこから女子高生の物語は進んでいくらしいが女子高生が悲鳴を上げたところで私は読むのをやめた。つまらなかったからだ。  タイトルにだけ惹かれたから手に取ったが外れだった。  私は時間を無駄にした気持ちになり、それがかえって今村君と関わって時間を有意義に使いたいという気持ちを引き起こし私は再び今村君の家に向かった。 15  家の電話が鳴った。  僕は電話番号を見ずに受話器を取って「もしもし、今村ですが」と誰かわからない相手に声を発した。  相手は無言を貫いた。1分程その無言電話が続き僕は再び「もしもし」と少し大きな声を出すと電話は切れた。  僕は少し苛つき発信先の電話番号を確認する。  それは確か、僕の以前付き合っていた彼女の携帯電話の番号だった。  付き合っていたのは大学生時代だ。社会人になってからは会ってないのに何故今更と僕は思った。  それと同時に彼女は7年近く同じ携帯電話番号を使っているのかと驚いたが、反対にそれはそんなに珍しいことではないのかと疑問に思った。  今度誰かに聞いてみようと僕は思った。  そんなことも知らない僕はおそらく世間知らずなのだろう。  苛ついた気持ちを落ち着かせる為僕はインスタントコーヒーを作り、冬の蜘蛛を読みながら飲もうとした瞬間、家のチャイムが鳴った。  ピンポーン、と。  僕は玄関の扉を開けると、そこには三雲さんが立っていた。  平日の昼間に暇を持て余している2人の再会だった。 16  私がコンビニでつまらない漫画を読んでから今村君の家を初めて訪ねた日の夜、私は今村君と居酒屋にいた。  本当だ、嘘でも妄想でもない。  これで私達が会うのは5度目だ。  初めて出会った日、その2週間後に再び会い、その夜にも会って、今日の昼にも会い、その後1度別れ再び夜に会った。  私はそろそろ今村君に告げようと思っていることがあった。  だが、まだ少し早いと思い、あと3回会ったらそれを告げようと決めた。  今日は一緒に飲むことだけを楽しもう。  今日のところはそれでいい。  今村君は相変わらず酒を飲むペースが遅いが、まあいいだろう。それが今村君なのだ。  私はそれを受け入れる。  だが、私は今村君に合わせず次から次へと酒を飲んでいくが。  今村君も楽しそうだ。  私達は今日はこんな会話をした。 「あの、三雲さんは高校卒業した後は何をされていたんですか」 「ああ、卒業後は何もしてないよ、高校卒業とほぼ同時に両親がとてつもない量の遺産だけ残してどこかに消えたからね、死んだわけではないよ、多分、だけどもういないようなもんだから遺産って呼んでるだけ、それでえっと卒業後は行けるはずだった大学にも行ってないし、働くこともしなかったわよ、なんかね、両親が蜘蛛の研究者のスペシャリストだったんだけど、私は両親が消えて戻ってこなくなって、なんか無性に腹が立って家に飼われていた蜘蛛のガラスケースを全部破壊してね、たくさんあったガラスケースに入っていた大量の蜘蛛は家中に散らばったのよ、それをやった後私は虚無感に襲われて1週間くらい寝込んだの、それで大学合格は取り消されて、当然ね、入学式の日から1週間以上出席もせず音信不通にしたんだか ら、そしてある時そろそろ活動しようか、アルバイトでもしようかと思って部屋から出たら、家は蜘蛛や蜘蛛の巣で溢れていて、それを見たらああもういいや、私は蜘蛛に勝てないくらいの存在なんだって気持ちになったの、思えば親でさえ昔から私よりも蜘蛛に夢中になる人達だったからね、その時の私は多分両親の突然の失踪で鬱になっていたのよ。そして、そこからはなーんにもせずに、ただ両親が残したお金だけを使って好きなように生活をした。幸い家には両親の残した大量の小説や科学の本、蜘蛛やそれ以外の虫の生態系が書かれた本、それから哲学、心理学、ありとあらゆる頭の良さそうな本がたくさんあったわ、だからそれを読み潰して私は毎日を過ごした。そんな感じよ、だから退屈ではなかったわね。たくさん知識も 身に付いたし、両親が両方良い大学に出てるエリートだから私も馬鹿ではないんだろうね。知識の使いどころが無いけど私の中には蓄積されているわ。どう、つまらないでしょ?それが私の全てよ。本当よ、一切の嘘は無いわ」  私の長ったらしい自分の半生語りに今村君は目をぱちぱちさせるだけで、何も言わなかった。  私は何か言って欲しいから自分語りをしたのにと思い、今村君に腹が立ち、溜め息を吐いて「じゃあね」とだけ言って3万円をテーブルに置いて店から出た。  私はその態度が嫌らしいものだと自覚していたが、構わないと思って堂々と家に帰った。  私はあと3度今村君と会ったら「私と友達になって」と告げたいと思っていたが、今の私の行動でそれが不可能になったと思った。  まあいい、今村君との微々たる日々の交流は一過性のものだったのだと無理矢理自分を納得させて、少しだけ涙を溢しながら私の蜘蛛の家に戻った。  前の孤独な暮らしに戻るだけだ、悲しくなどない、そんな言葉を頭に浮かべて私は自分を慰めた。  家の中は相変わらず蜘蛛がたくさん這っていた。 17  次の日の正午、僕は昨日どうして三雲さんが腹を立てた様子で出ていったのかわからず悩んでいた。  三雲さんに会ってもう一度しっかりと話したい。  僕はそう思っていた。本当だ。 18  私は寝込んでいた。昨日の夜に今村君に嫌な態度を取ったことを後悔していたからだ。両親がいなくなった時と同じような気分の塞ぎ方をしている。  私はそうなって初めて気付いた。  今村君が大事な存在なのだと。 19  僕は家を出て、昨晩三雲さんが腹を立てた理由を直接聞きに行くことにした。 20  私は前の二の舞にはならまいと、とりあえずベッドから起き上がりシャワーを浴びることにした。  風呂を出て私は裸で髪の毛をタオルで拭きながら、今村君のことを思い出していた。  涙が出てくる。両親がいなくなった時には涙は出なかったのに、どうして。そう私は思った。  私は目元をしっかりと拭い気持ちを切り替えて濡れた体をしっかりと拭き、服を着た。  服を着たのと同時くらいに家のチャイムが鳴り響いた。  私の家を訪ねる人なんているのかと思い、今村君の顔が頭に浮かんだがすぐに消した。  髪の毛をまだ乾かしてない、どうしよう、と思って、私は居留守をするか迷った。  しかし玄関の向こうから「三雲さん、いますか」と今村君の声がして、私はロングヘアーの髪の毛をタオルで包み玄関へ走った。  玄関の扉を開けると、今村君が困ったような、申し訳なさそうな表情をして立っていた。  私は、悪いのは私なのになんで君がそんな顔をするの、と思って、「急にどうしたの」と今村君に聞いてみた。 「三雲さん、僕何か悪いことしましたか」と泣きそうな顔で今村君は言った。 「悪いことはしてないわよ」と私は返す。 「どうして昨日急に出ていったんですか」 「用事があったのよ」 「嘘だ、三雲さんは冷めた顔で溜め息を吐いた、あれは明らかに僕に向けたものだった」 「違うわよ、用事が嫌な用事だったのよ」 「僕は、三雲さんとこんなことで別れたくないです」  おいおい、恋人に言う台詞と間違えてないか、私達は数回会っただけの関係だぞ、と私は思う。  しかし嬉しい言葉だった。私の鬱々とした気分はその言葉で完全に晴れた。 「なら、これからも会いましょう。……これでいい?」私は今村君に意地悪をしたくなりあえてそういう風に言った。 「是非」と今村君は即答した。  うん、この子は頭のネジが外れているのだな、だから蜘蛛の家に棲む女と自ら志願して関わりに来る。  社会的に厄介なのは、私ではなくてむしろ今村君の方なのかもしれない。  私は今村君の真っ直ぐな視線に意地悪する気が失せて「ええ、私も今村君とは関わっていきたいわ」と言って、もういいやと思い「友達になってくれる?」と告げた。 「是非」と今村君は再び言った。 「是非ねえ、それくらい言うなら永遠の友情を約束してくれる?」と私はまた意地悪な口調を使う。私も素直ではない、友達になりたい方は私なのに。 「当然ですよ、僕は三雲さんと話せればそれでいい、他の人間関係なんていらないです」  私は少し驚いた、それは顔にも出ていただろう。今村君はやっぱり社会からはみ出している側の人間だ。  私と普通に関わることだけに収まらず積極的に関わってくる、そして平日の昼間に暇をしている、そして他の人間関係なんていらないという発言。  社会人の枠からは外れているのは間違いない。  まあ、とにもかくにも、こうして私と今村君は永遠の友情を約束して、友達になった。  私は、幸せだ、と思った。  今村君のこの状況では少し薄気味悪いくらいの満面の笑みからも幸せが感じられた。  2人共幸せならそれでいいだろう、円満が一番だ。  以上だ。 社会復帰を目指す者 1  私は三雲結。  最近今村了という変わり者と友人になった者だ。  今村了、今村君は変わっているが私と関わってくれる貴重な存在なのだ。  ちなみに、私の家には蜘蛛が溢れていて、世間には蜘蛛の家に棲む女と呼ばれて敬遠されている。近所付き合いは今村君以外とは無い。  最近、今村君は就職探しに本腰を入れたらしい。  社会復帰を目指すとのことだ。  社会復帰……私には無縁な言葉だ。 2  僕は現在スーツを着て、小さいアパレル会社に向かっている。正社員雇用されるかどうかの面接をするためだ。  僕が持っている黒色のリクルート鞄には名前欄に今村了と書かれた履歴書と念の為のポケットに入るくらいのメモ帳とボールペンが入っている。  面接を終えて僕は落ち込んだ気分で家路を辿った。  面接は僕が面接官に履歴書を見せて志望動機についてと経歴について詳しく説明させられ、その後に履歴書には書いてない質問をされた。 「服に興味はあるの?作ったりデザインしたことあるの?」 「はい、作ったことは無いですが、作りたいという気持ちは持っています、何故持っているかと言うと履歴書の通り靴を作る仕事をしていたので、服を作ることにも興味を抱いたからです」 「靴と服がどう繋がるの?あとあんまり服を好きだという気持ちが伝わらないんだけど、何かを作りたいだけじゃないの?」  僕はそこで黙ってしまい、面接官は溜め息を吐き「もういいよ、面接はこれで終わり、結果は一週間後に封筒で送るから」と言われ面接は終わった。  そして今に至る。  僕は自宅で落ち込んだ気分のままスーツから私服に着替え、三雲さんに会いたいという気持ちが芽生えたので、連絡を取った。  こんな落ち込んだ気分から一転して三雲さんに会いたいと思うなんて僕は変わっているのだろうか、いや違う、僕は三雲さんに慰めてもらいたいと思っているのだ。  おかしいことではない、だが、この感情はただの友人に抱くものなのか、そこが僕にはよく分からなかった。  三雲さんに電話を掛け「今日の夜会えませんか」と聞くと「いいわよ、じゃあいつもの場所でいい?、そう、いいのね、じゃ、また今夜」と返されすぐに切られた。三雲さんは眠たそうな声だった。  僕は三雲さんに慰められたかった。言い方は気持ち悪いが、それが本心だ。  とにかく今夜僕と三雲さんは会うことになった。 3  夜の7時、私は欠伸をしながら歩道を歩いていた。  眠い、正直徹夜で小説を読んでいて昼もほとんど寝ていないので私は早く寝たかったが、今村君に呼ばれたのでは仕方ない。  今村君はどういう気持ちか知らないが、私は今村君に会いたいのだ。  私と関わってくれる貴重な存在だから。  私はさっき欠伸をした地点から10メートル程進んで再び欠伸をした。目の前には待ち合わせ場所のイタリア料理店が立っている。最初に今村君と食事をした場所だ。  私は扉を開け中に入った。 4  今、僕は走っている。今日アパレル会社の面接が終わった後に三雲さんに連絡をしてからすぐに昼寝をし、起きたら7時半だったのだ。外は真っ暗だった。今日の冬の空は紺色だ。  現在8時前、待ち合わせのイタリア料理店まであと5分は掛かるだろう。全力で走ったとしても。としても、ではなく全力で走っている。  果たして三雲さんは待ってくれているだろうか、連絡をすればすぐにわかるという考えが、焦っている僕には無かった。三雲さんを怒らせてないか、それだけが心配だった。  僕は汗だくでイタリア料理店に着き、数10秒間で呼吸を整えてから店の中に入った。  いらっしゃいませ、何名様ですかと笑顔で聞いてきた店員に「あの、三雲ですが」と答えた。  勿論、僕は三雲ではない、だが、店の予約は三雲さんの名前で取ったのだ。  僕はどきどきしながら、店員が何と言うか待ったが、結果は嬉しいものだった。  店員は「はい、三雲結様ですね、まだいらっしゃいますよ、案内します」と笑顔で言って、店内の客が座る席を半分に分けた仕切りの向こう、奥のテーブルまで僕を案内した。僕はほっとした。  この店の予約席は、店の入り口から見て、白色に細い金のラインが一定の感覚で入った柄の仕切り板の向こう側にあり、仕切りより手前の飛び入り客席からは干渉されないようになっている。  この店が何故予約客と飛び入り客を分けるのかは僕は知らない。ちなみにレジカウンターは飛び入り客席の目の前にある。その裏には厨房が設けられている。  客の注文には2人のボーイが時にはレジ打ちをしたりと交代しながら承っている。  そして、僕は奥の三雲さんの席に案内された。  三雲さんは静かにワインを飲んでいた。顔は酔っている人間特有の赤みを帯びていて、目はうつろで少し体が揺れていた。  話し相手がいないから大人しいだけで泥酔しているんじゃないか、この人は、と僕は思った。 5  私が目覚めると、見知らぬ居酒屋の中で寝ていた。  性格が変わっている私はすぐに自分が衣類を着ているかどうかの確認をした。結果は当たり前のように着ていた。コートにマフラーに手袋、変な熱気のある居酒屋という店の中では暑いくらい厚着をしていた。  まあ外は寒いから良いのだが、ここでは暑い。  私は居酒屋のテーブル席のソファに寝そべっていたが座り直した、私の足があったソファの端の方には今村君が座っていた。今村君は酒らしきものをグラスで飲んでいた。 「起きられたんですね」私の動きに気付いた今村君が声を掛けてきた。 「ここどこ」と私は聞く。 「キッチンマツモトの隣の居酒屋ですよ」  キッチンマツモトとは私と今村君が時々一緒に食事をするイタリア料理店の名前だ。確かにキッチンマツモトの隣には小さい居酒屋がある。あれ、そういえば今村君とキッチンマツモトで待ち合わせをしなかったっけ、それとその前に今日は何日だ? 「状況説明して。私今なんでここにいるのかわからない」 「僕と三雲さんは昨日、キッチンマツモトで待ち合わせをしたんですが、僕が遅刻して中に入ったら三雲さんは立てないくらい泥酔していて、仕方ないから、僕がここまで三雲さんを連れてきたんです、ちなみに今の時刻は夜中の1時過ぎです、三雲さんは5時間くらい寝てました」 「うんうん、なるほど……えっと、迷惑を掛けたわね、だけどどうして家じゃなくてここに連れてきたの?、私の家知ってるわよね?」 「ごめんなさい、どうしても三雲さんと話したくて、ここに来てもらって、起きるのを待ってました」 「ふーん、だけど私まだ凄い眠いわよ、うたた寝しながらでもいいなら話してもいいけど」と私はまた今村君を困らせる物言いをする。私は意地悪でかつ素直ではない、本当は私も今村君と話したいのだ。 「構わないですよ、じゃ聞いてください」 「僕今日、就職活動をしたんですよ、場所は小さいアパレル会社です、面接の時に僕は本当に服が好きなの?って聞かれて言葉に詰まりました、そうしたら面接官に愛想つかされて面接を終わりにされました、間違いなく落ちてると思います。すみません、これだけがどうしても言いたかったです」 「アドバイスが欲しいの?」 「そうかもしれません」 「答えは簡単よ、君は就職にこだわってる、だから行きたくもないところを選ぼうとする、面接官にとってそれは迷惑よ、就職を本当に決めたいならわがままになればいいのよ、つまり本当に行きたいと思う会社を見つければいい、幸い君は大卒でしょ、ある程度選ぶ権利があるんだからいいじゃない」 「そうですね、確かに就職に固執していました。やりたいことが何かなんて考えてなかったです……ありがとうございます、何か力をもらえました」と言った今村君は少し思い詰めた顔から普段の笑顔に表情を変えた。  私は力をもらえたんじゃなくて答えが出たんでしょと思いながら「満足されたなら良かったわ、じゃ、寝ていい?」 「はい!」  はいじゃねーだろ、人を巻き込んでおいて、と私は思った。  そしてすぐに睡魔が襲ってきて全部がどうでも良くなり眠りに就いた。  多分、今回の飲み会はこれで終わりだろう、と私は眠りに就く直前に思っていた。 6  僕は相談が終わってすぐに眠ってしまった三雲さんをどう対処するかを考えていた。  僕はタクシーで三雲さんを家まで送ることにした。今日は三雲さんに迷惑を掛けたから、いやそうではなくても当然の行動だろう。  僕はまた蜘蛛の家に三雲さんを肩を組んで連れていって2階の寝室まで送った。  三雲さんの寝室に僕はいる、この妙に嬉しいようなじれったいような気持ちは何だろう。僕は興奮をしているのか。いやどきどきしている、というのが適当だろう。僕は変態か?  それ以上その感情について掘り下げて考えることはせず僕は家に帰ることにした。  家路を辿りながら僕は三雲さんと別れることに対して胸が締め付けられていた。寂しい。何なんだ、この気持ちは。何が原因で起きている?  僕にはわからなかった。 7  目覚めたら朝だった。  昼になる直前の11時過ぎ。  私は頭が痛かった。これは二日酔いだろう。今はどうして家で寝ていて昨日何があったか思い出すことが出来る。  キッチンマツモトで今村君と待ち合わせをして今村君が来ないからすっぽかされたと思って私は酒を確か15分くらいで20杯は飲んだだろう。本当だ。その記憶は確かにある。  その後今村君がキッチンマツモトに現れた時には、私は座っているのがやっとの酩酊状態に陥っていて、今村君はそんな私を隣の居酒屋に連れていき、そこで5時間寝たらしい私は目覚めて今村君と少し話してまたすぐ寝た。そして今村君に部屋まで送ってもらい今に至る。  正直最後の居酒屋から部屋まで今村君が送ってくれたのは想像でしかないが、事実だろう。  そういえば今村君は就職活動や面接がどうとか言ってたな、そこらへんがあまり覚えていない。確かアドバイスを求められた気がするが、私は何に対して何て答えたのだろう。  どんな相談をされたのか知りたいのと、素面だったらもっと確りとしたアドバイスをしてあげられるだろう、と私は思い今村君を昼食に誘うことにした。 8  履歴書を作っていた僕は三雲さんから昼食に誘われたので、履歴書作成を中断し、住宅街から少し離れたファミリーレストランに向かった。 「いきなりの誘いだから来れる時間に来てくれたらいいから」とのことだ。  僕はそこに向かう道中にあることを思い付いた。  それは確実に三雲さんの為になることだ。  僕はファミリーレストランに着いたら提案してみよう、と思った。 9  私はファミリーレストランでココアを飲んでいた。  今日は土曜日、子連れの家族が多い。  住宅街からは少し離れたファミリーレストランなので私を知っている人はいないだろうが、私は学生でも働いてもいない身、少し気まずかった。  私が今村君に電話をしてから1時間、私がファミリーレストランに着いてからは20分程経っているだろう時に今村君は私の前に現れた。運転免許は持っているが自分の車を持っていない今村君は急いで徒歩で来たのだろう。 「こんにちは」と今村君。 「こんにちは」と私が返す。 「いきなり悪かったわね、今度は私が話を聞きたくて」 「話を聞いてほしいではなくて聞きたいんですか?」 「そう、昨日の飲み会での今村君の相談を私は邪険にしたと思ったわ、というよりそこの記憶が無くてね、だからもう一度ちゃんと聞いてみたいと思ったのよ」 「わかりました、じゃあもう一度話します」今村君は少し困惑していた、今村君も何を話したか覚えていないのか、それとももう一度話すことが憚れるのか。  そして今村君は昨日言っただろうことを語り始めた。  その内容は面接での失敗についてだった。  私はそれについてどうアドバイスしようか考えた。  それ以前に真っ昼間に無職の大人2人がこんな幸せに溢れた人々の中で、明るいとは言えない人生相談を始める。なんてことだ。といってもそれを今村君を巻き込んでまでしているのは私だが。 「今村君はその会社に本当に行きたかったの?」 「昨日もその流れになったんですが……僕はその会社に行きたかったわけではないです」 「だったら自分の行きたい会社を見つけるべきよ」 「それ昨日してもらったアドバイスと全く同じです」と今村君は頭を掻きながら呆れが垣間見える困った顔で言う。  私は固まった。結局酔ってようが素面だろうが言うことは同じなのかと思ったからだ。  騒がしい周りに対して私達は沈黙を生んだ。 「とにかくそんなところね、ごめんね時間を無駄にさせたようで。ごめんなさい」 「いえいえ、大丈夫です、それに僕の方も1つ提案があるんですよ」 「提案……?」何を提案する気なんだ。いきなりだな。 「三雲さんも就職活動をしてみませんか」  私は予想外の言葉に戸惑った。  今村君は何を言っているんだ、私にまで社会に参加させようと思っているのか。  私が今までどう生きてきたかも知っているのに。  私は「考えておくわ」と言って、今村君からの提案を頭から消した。私が社会に参加など出来ないだろう。  それから私達は別の話題で話しながら昼食を摂った。  食べ終わってすぐに解散をした。私はともかく今村君は就職を決めるために忙しいからだ。  今は長い時間私に付き合ってられないのだ。 10  僕はファミリーレストランから家に帰っている途中、蜘蛛が1匹服に這っていることに気が付いた。  その時、無茶な提案をしたかな、と僕は考えを改め、悪いことをしたと思った。 11  私が就職活動、そんなことが実現するのかと思っていた私は今村君の提案を頭から消すどころかその提案に掻き乱され、コンビニでふいにタバコを買ってコンビニ前で吸っていた。  私は他のタバコより少し安いケントを選んだ。ミント味で中々美味しいと思った。  私は人生でこういう急展開が起きるとタバコに逃げるので、タバコは幾度か吸ったことがある。  就職活動……まあ1度くらいはしてみるのもいいかもしれない、面接を受けるか、と私は思った。  スーツ、ネクタイ、シャツ、ベルト、革靴、幸い母親が使っていた女性用のものが揃っている。体格もほとんど変わらないから着れるだろう。  さて、問題は私はどんな仕事をするか、だ。 12  僕がアパレル会社の面接を受けてから1週間が経ち、朝、ポストを開くと会社から通知が届いていた。  不採用。  僕は、まあ当然の結果だと受け取り、しかし少し落ち込みながらキッチンでフライパンを持ち朝御飯を作る準備を始めた。 13  私の両親は蜘蛛の研究者。  そこから派生する人脈を駆使して、仕事を決めようと思った。きっかけはあれだが、やるからには本気でやる、と私は思っていた。  最悪始めはアルバイトでも良い、私の知識があればすぐに正社員雇用となる。  私が考える行き先は大学教授の助手だ。それをアルバイトで行う。専攻する科目は勿論、生物学、更に言えば虫の研究、もっと言えば蜘蛛の研究。  ……とどのつまり私にあるのは両親が残した財産だけなのだ。私の場合、それが蜘蛛である。  私は早速、両親が残した名刺を探り、両親が研究場所にしていた研究所と交流があった大学にコンタクトを取った。  まずは近くの大学に連絡を取り、自分の両親の名前を出し、助手に使って欲しいという旨を伝えた。  最初の結果はノーだった。理由は蜘蛛の研究をしていないから、と、助手の求人をしていないから、と言われた。  2度目にここからは少し遠い大学に電話を掛けると、いきなり両親と関わりのあった教授が出た。私が自分の身分を告げると、教授は私の両親と交流した日々、共に研究もした等昔話を始めた。懐かしそうに語られた。  私が相槌を打ちながら、その話が一段落着いた時に「助手に使ってもらえませんか」と言うと、「駄目、使えないよ」と言われた。私が「わかりました」と諦めると、教授に年齢を聞かれた。「25歳になります」と答えると「まだ若いじゃない。……そうね。ならまずは私のもとで学びなさい、その後助手にするか考えてあげる」と返ってきた。  ちなみに教授は女性だ。私も子供の頃に会ったことがあるらしい。覚えていないが。声の感じからすると50歳前後の女性のように思えた。両親と変わらないくらいだ。 「少し考えます」と私は答えて、「待ってるからね」と言われて電話は切られた。  大学生になる、それも社会復帰ではあるだろうが、どうしよう。  私に出来るのか。幸い今電話を掛けた大学には電車で通える。さてどうするか。 14  僕は自分が何をしたいのかを発見した。  思えば前に靴メーカーに就職したのは歩くのが好きで靴も好きだったからだ、そして物作りも好きなのだ。学生時代は美術が得意だった。  僕は今やりたいことは人との“会話”だ。それは人付き合いとは少し違う、人の悩み相談だ。  僕は産業カウンセラーをやりたい。  そして驚くことに大学生時代はあまり気にしていなかったが、僕は自分が持つ資格を調べていたら産業カウンセラーのスクールに通い切っていたことを思い出し資格も1つ持っていたのだ。  僕はネットで産業カウンセラーを募集している会社を探し、1つの会社に電話を掛けてみた。  その会社は近くの大きい病院であり、面接の日は決まった。3日後の月曜日だ。 15  私は大学に願書を出した。働かなくても、また学生をやるのも悪くないという考えに至ったのだ。  今は1月の終わり、この大学の願書受付が始まったばかりに私は願書を出した。おそらくこれでやる気はアピールできるだろう。入試は3月だ。それまでに勉強をしておく。まあ高校生の時は学年トップクラスの成績だったから大丈夫だろう、両親譲りの頭脳はあるのだ。嘘臭いが本当だ。私は本当に勉強が出来た。 16  僕は病院の面接を受けてから少しが経ち、採用をされた。  そして落ち着いたら三雲さんに連絡を取ろうと思った。  だが、その前に僕の前にある女性が訪れて、僕にもう一度付き合いたいと告げた。  その女性は大学生の頃に付き合っていた天野栞というだった。  大学生の時とは雰囲気が変わっていて、悪く言えばどこにでもいそうな一端の大人になっていた。  僕達は縒りを戻した。 17  私は10日後に入試を控えている時に、今村君から連絡が入った。 「話したいです、会えませんか」  私は会えると答えて、夜にキッチンマツモトの隣の居酒屋で待ち合わせることにした。  私はそれまでに1日の勉強量のノルマを終わらせ、居酒屋に向かった。  中に入ると既に今村君はカウンター席に座っていた。 「お久しぶりです、三雲さん」 「ええ、久しぶり」  久しぶり、確かに久しぶりだ。私と今村君は1月程会っていなかった。お互いがお互いを誘わなかったからだ。  私の方は勉強に忙しかったからだが、今村君の方はわからない。就職活動が上手くいってないからか? 「三雲さん、まずは乾杯しましょう」 「何か嬉しそうね、良いことあったの?」 「はい、内定もらえたんです」 「あらそう、おめでとう、どんな仕事に決まったの?」 「病院の産業カウンセラーです、場所は僕の家の近くの病院です」 「へえ、カウンセラーの資格持ってたんだ、頑張ってね」 「三雲さんはどうです?、就職活動とかされてたんですか?」 「ああ、私は大学生になるわ、通いきったら教授の助手になるって条件付きでね、それはまだわからないけど、まあ研究者だった両親のコネね」 「おめでとうございます」今村君は幸せそうな笑顔でそう言った。  他人のことをこんなに嬉しく思えるこの子は本当に良い子だ、と私は思った。……この子と言っているが、今村君の方が歳上なんだよな、とてもそうは見えない風貌や雰囲気だが。複雑な気分だ。  私がそんなことを考えていると今村君の携帯電話が鳴り出した。  今村君は電話に出ると「うん、今ちょっと飲んでる、すぐ帰るから」と言って電話を切った。  私はからかうように「誰?もしかして彼女?」と聞くと今村君は困ったように笑って「はい、そうなんです」と答えた。予想外の答えだった。  今村君に彼女が出来るなんて。私にとって衝撃的な事実が発覚した後に私達は解散した。短い飲み会だった。  その後私は10日後試験を受けて、その更に10日後に合格したことがわかった。  これであと入学手続きをすれば晴れて私は大学生だ。  このきっかけをくれた今村君には感謝しないといけないな。  だけどもう会うことは無いだろう。今村君には彼女がいる。私とは友達とはいえ会うことはよろしいことではない。  さらばだ、今村君、と私は思った。 18  僕が病院の面接を受けた日に1つの電話が入った。大学生時代に別れた彼女からだ。  僕はその電話に出ると、彼女、天野栞は「ひ、久しぶり、了」とぼそぼそと声を出した。 「久しぶり、いきなりどうした?」 「私、了のこと最近思い出して、また会いたくなって、駄目かな、近い内会えない?」  僕は少し考え「いいよ、今どこに暮らしてるの?」と答えた。 「実は了が住んでる辺りに越してきたんだ、就職の為だよ、……偶然だよ」  どうやら栞は僕に未練があるらしいと僕は悟った。 「そうなんだ、じゃあ、いつ会う?場所はどこでもいいよ」 「私が決めていいの?」 「うん、こっちが予定を合わせるから」 「なら、明日の夜7時、キッチンマツモトっていうお店に待ち合わせしよ」  キッチンマツモトか、変な巡り合わせを感じるな、と僕は変な考えを持った。 「いいよ、じゃあまた現地で」 「うん、待ってるから、じゃあね」  僕は電話を切った。  次の日僕は6時50分にキッチンマツモトに着いた。既に栞は着ていた。  カールがかかった首元まで伸びた髪に、比較的大きい目に長いまつげ、団子鼻に締まりの無い唇、赤いチノパンにオレンジ色のコート、悪い見た目ではないが美人ではない。  僕と栞は店に入り、食事をしながら、別れてから今までの暮らしを語っていった。  栞は小さい会社に事務員としてずっと勤めていたが、2年で辞めて、ファッションデザインの専門学校に通い、その学校で斡旋された新しい仕事を見つけてこの街に越してきたらしい。新しい仕事は服飾デザイナーだという。その職場が僕が面接で落ちた会社だった、皮肉だなと僕は思った。  ある程度、半生を語り終えると、栞はもじもじし出した。  僕が「栞、どうかしたか」と聞くと、栞は「了……あの」と呟いた。 「どうした」と僕は再び聞く。 「また付き合ってくれない?」と今度ははっきりとした声色で栞は言った。  僕は黙って考えた。付き合ってメリットはあるのかと自然にそう思った。僕はもう栞のことは好きではないのだ。  しかし僕は答えが出る前に軽はずみに「いいよ、栞がいいなら」と言った。何故こう答えたかと言うと僕はおそらく就職が決まって気持ちがはしゃいでいたのだろう。  それを聞いて、栞は嬉しそうに笑い「本当に?ありがとう」と言った。 「本当だよ」  僕と栞は再び付き合うことになった。 19  私は大学生活を送る為の準備を始めていた。  今時の私服を買ったり、今の大学生の性質について調べたり等。  それくらいだ、今村君とは会っていない。連絡も来ない。  生活から色が抜けた、と私は柄にもなく思っている、多少の変化はあれど前の生活に戻っただけなのに。それくらい今村君の存在は私の中で大きくなっていた。  悲しい。またこの感情か。いい加減にしてくれ。これから大学という舞台で新しいスタートを切るというのに。  どうすればいいんだ、私は。  そう思っていたら今村君から連絡が入った。  またキッチンマツモトで食事をしようとのことだ。  こうしてまた私の心は掻き乱される、少なくとも私はそう思っていた。 20  春の直前、僕と三雲さんはキッチンマツモトで2人の生活環境が変わる前の最後の食事を始めた。  三雲さんはどこか浮かない顔をしている。  どうしてだろう。僕と栞の関係があるから思い詰めているのか?、何故誘われたのか、と。そこまで僕は考えて、自分は何様だ、と思った、僕は三雲さんの心を汲み取る立場では無いだろう。  と思ったが、あれ、そういえば僕の方が三雲さんより歳上なのか、なら三雲さんの気持ちを汲むことはおかしいことではないのか。むしろ僕の方が三雲さんをリード出来てないとおかしいのだ。  僕は勇気を出して「三雲さん、友達は友達ですよ、僕には今彼女がいますが、それが僕と三雲さんの関係を無くさないといけなくなるようなものなら僕は彼女の方を取り除きます、三雲さんは僕の彼女のことを気にしないで下さい」と説教混じりの発言をした。  それに対して三雲さんはいつもよりは力無く、しかし普段に限りなく近い微笑みを見せて「言うじゃない、今村君。ふふ、だけど気持ちが多少すっきりしたわ、ありがとね、気を使ってくれて」  僕は得意気に「いえいえ、だって僕達は永遠の友情を誓ったじゃないですか、僕はそれがこんなことで無くなるものだと思ってないですよ、だから、これからも」と言ったところで、三雲さんは「ええ、友達でいましょうね」と笑った。普段の笑顔だった。  これでいい、これでいいんだ、僕達の関係は。  僕は無意識に自分を誤魔化すように自分にそう言い聞かせた。僕は自分が三雲さんをどう見ているかをはっきりとわかっていなかった。  だけどこれでいい。  これから新しい生活が始まる。  だけど僕達はこのままの関係を続けていく。  ……それでいいんだ。 セパレートウェイズ 1  僕は今村了、病院に勤めている。  役職は医者でも看護師でもなく、産業カウンセラーだ。  春になり、4月を終え、5月を終え、僕はこの仕事に就いてから3ヶ月目を迎えていた。  話は変わるが、僕には人が見たくないような家に住み独特な世界を持っている博識な友人が1人いる。  その友人の名前は三雲結。蜘蛛が溢れる家に住み、性格が変わっているが聡明な女性だ。僕は彼女を三雲さんと呼んでいる。ひょんなことから出会った僕達は意気投合し、かれこれもう半年以上仲良くやっている。  今日も僕達は夕食を共にする予定だ。  何やら三雲さんは僕に相談したいことがあるらしい。  電話越しでは深刻な悩みを抱えているようだった。  夕食の時間までまだ3時間程あるが、僕は三雲さんの悩みがどんなものなのかがとても気になっていた。 2  私三雲結は大学に通いながら両親と仲の良かった女性教授と話していて、両親のことを聞く度に両親のことがもっと知りたくなった。  私は他人越しに誰かのことを聞いても物足りない。その人の真実は本人の口から聞きたい。  だから私は直接両親に会おうと思い8月の大学の夏休みの間に探すことにした。  そして私はそれには同伴者が欲しいと思い、私は大学で出来た数少ない友達よりも先に今村君が頭に浮かび、私は今村君を夕食に誘った。 3  僕と三雲さんは恒例の如くキッチンマツモトで夕食を摂ることにした。  三雲さんと食事を摂りながら世間話をしながらも僕は早く三雲さんの悩みが聞きたいという気持ち一心だった。  それを察したのか、それまで談笑をしていたため笑顔だった三雲さんは突然真顔になり話題を変えた。 「ねえ今村君、電話で言った相談なんだけど」 「はい」僕も真剣な顔を見せた。 「8月にちょっと行きたいところがあるんだけど、そこに一緒に行ってもらいたくて」 「8月ですか、多分大丈夫だとは思いますが、日数に依ります」 「それが……未定なのよね、それについては今から教えるわ」 「私両親を探そうと思ってるの、消息不明のね、わかるのはとある県にいるかもしれないという情報のみ、その県がどこかはその内教えるわ、隠す必要も無いしね。……話は逸れたけど、とにかく私は今村君と一緒に両親を探したい、それには理由が無いわ、同伴者が欲しいだけ、どれくらいの日数掛かるかはわからないけど、どう一緒に来てくれる?」 「いいですよ、だけど僕はまだ会社に入ったばかりでそんなに有給は取れません、取れるとしても最高で5日ですね、それでもいいなら付き添います」 「本当?ありがとう、ならそれについてはまた連絡するわ、今はまだ両親についての情報がまとまってないから、確証が得られたら計画を一緒に立てようか」 「そうですね、ではその時はまた連絡を下さい」 「最後に1つ、そういえば私は良いんだけど、今村君の彼女は許してくれるの?」 「ああ、それならまあ上手く誤魔化しますよ、友達と旅行に行くって言います、それなら嘘ではないですし、安全な道でしょう」 「そう、りょ……うかい。私から頼んどいて悪いけど君の彼女に恨まれるのは嫌だからね」三雲さんは言葉の始めに欠伸をした。失礼だな。 「では、食事と済みましたし、そろそろ解散しましょうか、また会いましょう」 「そうね、君には待ってる人がいるからね、前みたいに夜中まで一緒に飲むのはもう無理なのね」 「残念です」そう言って僕は席を立った。  三雲さんは「私はもう少し飲むわ」と言って少し寂しそうな笑顔で僕を見送った。  三雲さんと栞、2人のどちらかを選ぶなら僕は栞を選ばないといけない立場だ。  だが、いざその選択が迫られた時に僕はすぐさま栞を選ぶことが出来るのだろうか。  三雲さんは大事な存在だ。僕は三雲さんをただの友人として見れているのだろうか、それが僕にはわからないのだ。  いや、わからないままでいい。僕には栞がいればいい、心が張り裂けそうだとしても僕はそう答えなければいけないのだ。  栞が全てだ。 4  早いところ、8月は訪れた。私は家のことを隠しながら上手く大学生活を送っている。  私は両親が所在するだろう場所を示す確かな情報を仕入れた。自分達が残した金が娘に興信所を使われ、自分達を見つけるきっかけになるなんて両親は思いもしないだろう。  両親の居場所は掴んだ、そしてそこまでに行って両親と話すのには5日あればお釣りがくるほどだった。  つまり今村君の都合に合い、更に今村君は付き添いを了承した。  そして今新幹線に乗り両親がいるだろう都道府県に向かっていた。  2人掛けの席では隣に今村君がいて、小説を読んでいた。私は窓際に座っている。  私は今村君に「何て小説を読んでるの」と聞くと、「“夏の争い”です」と小説から目を離さず答えられた。この小説っ子が。というより今村君は季節が好きなのかと思った。  最初に会った時は冬の蜘蛛と呟いていたからな。  目的の県に着いて、私達はまず予約していたホテルにチェックインした。  その後は、今村君には悪いが、私の都合で真っ直ぐ両親がいるという場所へ向かわせてもらった。  そこは研究者でも、大学でも無く、一軒家だった。  私は少し拍子抜けしたが、迷わずチャイムを押した。 「はい、三雲です、何の用ですか」とインターホン越しに私の母親の声がそう言った。嘘ではない、本当だ、確かに聞き覚えのある母親の声だった。  私は「久しぶりね、お母さん」と返した。  その瞬間、インターホン越しでも驚きと焦りが感じられた。いやしかし、そう感じたのは私の想像の産物なのかもしれなかった。  隣に立っている今村君は静かにインターホンを眺めていた。 「結なの?どうして今更訪ねてきたの」 「子供が親に会いに来たいと思うのが悪いことなの?」 「……そんなことないわ、だけど私達はあなたに会わせる顔は無いわ」 「私にはあるわよ、さっさと中に入れてくれない?」 「わかったわ、玄関の鍵は開いてるから入ってきなさい」  私と今村君はこの木造の家のスライド式の玄関の戸を開けた。  中に入る。当然蜘蛛は1匹もいない。いかん、私も取り乱しているな。普通の家に入ってすぐ蜘蛛ががそこら中に這っているなんて状況はないだろう。いくら親子とはいえ私の方はするべくして蜘蛛の家を作ったのだから、両親がそうしたわけではないのだから。  両親の家が蜘蛛の家になっているわけなどないのだ。  玄関で私は靴を脱ぎ、母親を呼んだ。「来たわよ」と。  すぐに母親は出てきた。母親の顔は私とさほど変わらない、違うところは母親は眼鏡を掛けていることくらいだ。あと顔のシワはもちろん母親の方が多いが。  一緒に暮らしていた時より少し老けたようだった。  母親は黒いシャツとズボンの上に白衣を着ていた。まだ研究は続けているのかもしれない、と私は思った。  不思議と私は母親との再会にそれ以外の意見は持たず、感動や怒り、そんなものは感じなかった。まるで実家に久しぶりに帰ってきたくらいの感覚だった。  やつれている。研究者をやっていた時に醸し出していたぴりぴりした空気は今は無かった。 「本当に久しぶりね、結」 「うん、久しぶり、あ、えっとその前にこの男の人は只の友達、恋人とかではない、私が無理言って付き添ってもらったの、今村了君よ」  私と話そうとしていた母親は少し困惑した顔を見せ「ええ、よろしくお願いします、今村さん、娘がお世話になっているのね」と言って頭を下げた。 「いえ、こちらこそ結さんにはたくさんのことを教えて頂いていて、僕の方こそいつも助けてもらっています」少しずれているだろう挨拶をして今村君も会釈をした。  今の時刻は正午。私と今村君はこの家で食事をしていくことになった。  私と今村君は梅茶漬けを振る舞われた。  私の母親も同じものを食べた。  昼食中にした私と母親がした会話は私が両親がいなくなってからどう生きてきて今は何をしているか、くらいだ。母親に両親がいなくなって私が取り乱したことは言わなかった、失踪をした理由もいまはまだ聞かなかった。  あとは父親は何故いないのかを訊ねた。  その答えは「お父さんは今蜘蛛の生態について調べにいってるわ、今もまだ私達は蜘蛛の研究でご飯を食べているの」だった。  私はなるほどと思った。この両親にはそれしかないのか。まあ詳しい事情は追々聞こう。  今村君の方は昼食中に母親に質問を数度されていた。 「結との関係は?」 「仕事は何をしてるの?」  質問はそんなもの等だった。大きく分けて、初対面の人間に聞く、その人のことを把握する為にする質問と、私との関係性についての2つだった。  食事を終え私と今村君と私の母親の凛は、父親の総一郎のいる研究所に行くことになった。それは私の意志でありわがままだった。待つよりもさっさと父親に会って核心に触れたい。即ち失踪の理由を問い詰めたい。  かくして私達3人でこの家からそう遠くない研究所に向かった。母親は私のわがままに対して「研究の邪魔にはならないようにね」とだけ言って許可を出した。  研究所に着いて私が最初に思ったことは"思ったよりも大きい"だった。研究所は白く長方形で山の入り口に立っていた。大きさは縦は見た目だけでも10mはあるのはわかり、横幅はそれの倍以上だった、そして窓は入り口側だけで6つあった。私は研究所というのはもっとこぢんまりとしているものだと思っていた。  かなり大きい小屋くらいのサイズをイメージしていた。  母親がまず研究所に入り、私と今村君は外で待たされた。入るのに誰かの許可がいるのだろう。  5分程経ち母親が入り口から出てくると、父親は入れ違いで家に戻ったらしいということを伝えられた。 「すぐに戻ってくるとのことだから待ちましょう」母親がそう言って私達3人は研究所前で立ち話をしながら待つことにした。  途中今村君が気を利かせたのか「トイレに行きたいのでコンビニ探してきます」と言い立ち去っていった。  私と母親は2人きりになった。  沈黙が訪れたがすぐに母親が「彼いい人ね」と言って沈黙を破った。 「そう、本当にいい人よ、私と関わってくれるくらいだからね」 「それどういう意味?」母親は眉間にシワを寄せた。 「私の家ね、いや今はだけど。お母さん達も住んでたあの家は今は蜘蛛屋敷になってるのよ」 「それって私達のせい?」 「違うわ、私が勝手にやったこと、だけど確かにきっかけを辿れば両親に辿り着くわ、私お父さんとお母さんがいなくなって荒れたのよ」 「それで家に飼われていた蜘蛛の入ったケースを片っ端から割っていった、解き放たれた蜘蛛達を私は数日間放置して蜘蛛の家の出来上がり、今ではあの家は近所から蜘蛛の家と呼ばれて持ち主の私は蜘蛛の家に棲む女と敬遠されているわ」 「私達のせいね、ごめんなさい……だけど、私達近所付き合いはちゃんとしてたはずよ、理解を示してくれる人はいなかったの?」 「人の情けというのは世間体には勝らない儚いものということじゃない?だけどお母さん達のせいとは思わなくていいわよ、私が自分でやったことなんだから」 「ごめんなさい」 「謝らなくていい、それよりもお父さん来たわよ」  母親は辺りを見渡す。  父親は私達が来た道から歩いてきていた。おそらく家に戻る時もその道を通っただろうに、何故すれ違わなかったのだろう。  父親は私に気付くと歩きを止め、膝から崩れ落ちた。  父親に私と母親が駆け寄ると、父親は私に土下座し「すまなかった」と大声を上げた。  私は「まず立って、聞きたいことがあるから訪ねてきたの、話を聞きたいから立って」と冷たく言い放った。別に父親を恨んでいるわけではないが、ここまでの謝罪をされたら場の雰囲気に飲まれて謝罪された側は怒ってなくても怒っているふりをするだろうからだ。そう思うのは私だけか?  父親はしばらく土下座の姿勢をやめず、「結、許してくれ」と涙声を使った。自責の念で泣いているのだろう。  男にしては長髪で肩まである髪に、下がり眉、しかし我が強そうな目にだらしのない口角の下がった唇。父親は一緒に暮らしていた時そんな顔をしていて、事実芯の強い性格をしていた。  その見た目は遠くから見ただけでも変わっていないようだったが、今その顔は地面を向いている。 「もう謝らなくていいから、さっさと顔を上げて、私は怒りに来たわけではなくて話を聞きに来たの、そもそもが両親を恨んだりはしてないわよ」 「本当か」父親は顔を上げた。やっぱり顔は変わっていなかった。  父親は立ち上がった。しかし泣いていて、子供のようにこちらの顔を伺っていた。正直情けなく思える。私の知る父親はもっと威厳のある人だったはずだが。少なくとも娘の前で弱いところを見せるなんてしない人だった。  自責の念。私を置いていった罪悪感でここまで変わったのか? 「お父さん、もう泣かなくていいから、質問をさせて」 「いいぞ、何でも答える、だけど仕事が終わってからでもいいか、今からこの書類を職員に渡しに行かないといけない」 「いいわ、家で待ってるから」  私と母親は家に戻った。  研究所に戻る父親は涙を止め私の知っている芯の強い顔に戻った。少し凛々しいと私は感じた。  家に着いた時私は何かを忘れていると思った。  何だっただろう。  そうだ、今村君だ。コンビニに行ったきり戻ってこなかったから、忘れていた。  私と母親が家に着いてから30分程で今村君は家に戻ってきた。  焦りながらも、悲しそうな切なそうな顔をしている。  私はそれを見て今村君は本当に天然で子供っぽくて可愛いわと感じた。  とりあえず、父親が帰ってくるまで決戦はお預けだ。  そう、質問攻めとその受け答えという決戦の。  その時間が来るのが楽しみだ。  今村君は「どうして置いていったんですか」と顔を渋くして言う。  本当に可愛いわ。  父親は夕方の6時頃に帰ってきた。  その時点で母親の手料理は出来ており、私と今村君、父親と母親、その4人で真四角の厚い板に足が4本付いたテーブルを囲み一緒に食事を摂った。  まず父親に今村君についての質問をされた。  それには母親の時と同じように紹介をし、その後私はすぐに本題に触れた。  父親にこう質問をした。 「何故私だけ残して姿を消したの?」と。 6  僕は研究所前からコンビニに向かう時に栞から電話が掛かってきて、すぐに出て、話をしながらコンビニを探した。  コンビニは中々見つからなかったが、それがかえって良かった。  コンビニの中で口喧嘩をすると目立つからだ。  栞は怒っていた。「私に黙って旅行に行くなんて」そう言われた。  最初は女性と一緒に行っていることを知られていない分、怒りは小さく少し不満げなくらいだった。  しかし僕の返した言葉がその怒りを増幅させた。 「いや女性と一緒だから、3人になると気まずくなるかなと思ったんだ、だから知らせなかった」  あっさりばらしてしまったのだ。  僕は馬鹿だ。それは至るところで実感する。  その後は栞の怒りの捲し立てという攻撃と僕の言い訳がましくて何が悪いのかわかっていない言葉達という防御、その2つで成立した攻防が繰り広げられた。  その間僕はずっと行きたくもないコンビニを探していた。 「他の女と行ってる?そんなことあっさり白状するなんて正気なの?」 「女といっても友人だよ、不倫とかじゃないし浮気でもない」 「そんな問題じゃないでしょ、私はあなたの何なの?」 「いや恋人でしょ」 「だから、──」  こんなやり取りを繰り返していた。  僕は馬鹿だ。  栞とは仲直りできず怒らせたまま電話を切られた。  そんな感じに、三雲さんが父親の方と再会している頃に僕は旅行後、修羅場を迎えることが決定したのだった。 7  私の父親は何も答えなかった。  だから、私は無理矢理口を割らせた。 「黙ってても私は納得しないわよ」 「その答えを知るまで私は帰らない」 「真実を語らないなら、この場で私は手首を切ってもいいのよ」 「本当のことがどうだとしても、それを知ることが今私の生きている目的でもあるのよ、それを無視しないで」  黙っている父親にここまで言葉を仕掛けて、ようやく父親は口を開いた。 「わかった、話そう」  父親は語り始めた。 「あれはもう8年も前か、その頃私と凛は2人で行っていた蜘蛛のある研究に手こずっていた、2人の知識を駆使してもわからないことがあり、また設備も足らなかった、その苦しい時に知人が所長をやっている今の研究所から声が掛かったんだ、三雲さんらの知識が欲しい、と」 「それで私達はその話に乗っかった、私達の研究にも力を貸して欲しいという要望を飲んでもらって」 「私達は当然家族全員で越すつもりだった、だが、結、お前は高校生活を楽しんでいただろう、私達はお前の人生を邪魔したくなくてお前を置いていったんだ、お前に引き抜きの話をしていたら必ず付いてきていただろう、そうしたらお前は蜘蛛の研究者の道を歩まずにはいられなかっただろう、それの理由は知人の所長が私達の娘にも期待を必ず掛けてくるだろう人間だからだ。私達はお前に蜘蛛の研究者になって欲しくなくて、いや、お前に自分の道を進んで欲しくて、お前を置いていく形で移住した、それがお前の知りたかった真相だ、どうだ、納得できたか」 「まあそれが本当なら、納得出来るわ、そして両親に対する気持ちも変わるわ、私は正直両親にもう親として何の期待もしないくらいの気持ちだったけど、見直したわ、突然の失踪は私を思ってのことだったのね、確かにだからこそ私が高校を卒業する時にタイミングを合わせたのね、私が自分で生きていけるように、許す許さないという言葉を使う権利が私にあるのなら私はお父さんを許すわ、勿論お母さんも」  真実はこうも簡単に明らかになるのか、呆気ないものだ。 「本当に悪かった、まさか私達がいなくなって結が道を踏み外すとは思わなかったんだ」  それを聞き私は茶碗に入った熱いお茶を父親にかけた。  そしてこう言った。 「私が道を踏み外した?何を言ってるのよ、私はこれでも真っ直ぐに生きてきたつもりなのよ、例え人には理解されないとしても」  私は溜め息を吐いて立ち上がり「もういいわ」と言って家から飛び出した。  今村君を残して。  両親は私を追いかけるだろうか。  父親はまた許しを請うだろうか。  私は本当にそう思っていながら走っていたら、後ろで何かが砕ける音がした。それと同時に何かが何かに勢いよくぶつかる音も。  両親の住んでいる家は一軒家であり森の中に建っていて、玄関を出て少しのスペースを挟んで車道があり、しかし車が来ているか確認出来るカーブミラーは存在しない。  冷静に車が来ていないことを確認してから走り出した私は予想出来ていたはずだ。  両親が必死に私を追いかけてきたら、車が来ていることに確認せずに私を目指して走り結果撥ねられる可能性があると。  それが現実になる可能性があると。  ……そしてそれは現実になったのだ。  両親は2人共スピード狂の馬鹿な若者が運転していた軽自動車に撥ねられ、本人達の自宅の壁に打ち付けられていた。  2人共同じところに重なって倒れていて、体の形は正常とは言えないものになっていた、腕や足が反対向きに曲がっていたり、踵が股の辺りに折れ曲がっていたりしていた。2人の倒れている辺りには血が溢れていた。  赤い液体は止まらずどんどん面積を広げていった。  スピード狂の馬鹿な若者は青ざめた顔で車から降りてきて、事態を把握した瞬間、車にもう一度乗り逃げていった。  私はそれを追い掛ける気も、ナンバープレートの数字を記憶して警察に通報する気もなかった。  両親は間違いなく即死だった。犯人に罪を償わせようと、両親が戻ってこないのはわかっていた。なので私は立ち竦んで、呆然としていた。  今村君はその間救急車を呼んでいたように思える。それすら曖昧にしかわからないほど私の思考は両親のことで埋まっていた。  それは走馬灯のように今になって、両親と過ごした楽しかった日々がフラッシュバックしていた。  それはもう戻ってこない。あの楽しかった日々の続きはもう発生することはない。  私の両親は私のせいで死んだ。  最終的に私の頭を占めた事実はそれだった。 8  僕は三雲さんが家を飛び出してすぐに三雲さんを追い掛けた三雲さんの両親と、その直後に起きた事故をはっきりと目撃をした。  すぐに僕は救急車に連絡を取った。  三雲さんと三雲さんの両親は長い年月が経ってからやっと再会が出来て、和解を出来る寸前まで行ったのだ。  それをこんな形で終わらせたくない。  僕はその一心で呆然としている三雲さんの代わりにすぐに駆け付けた救急隊に状況を説明した。  僕はこれを悲劇にしたくない、こんな風に三雲さんの人生に悲しいことを増やして欲しくない。本当にそう思っていた。  しかしその思いは叶わなかった。  三雲さんの両親は病院に運ばれすぐに死亡が発覚した。  僕は三雲さんに何も声を掛けられなかった。  三雲さんは終始心ここにあらずという状態で一点を見つめていた。 9  両親が死んだ。  私のせいで。  私の心は暗闇の中に沈んでいた。  目の前には何かが写っている。おそらく病院の待合室の椅子だろう。しかし私の心はそれが何故なのかという認識をしていない。  何故私はここにいる。それは両親が死んだからだ。それはわかっている。だが、目の前の景色から入るべき情報が入ってこない。  両親のこと以外に対しての思考が停止している。  今の私はそんな状態だ。  隣には今村君が座っていた。  私に何かを言っている。  しかし聞き取れない、というより言われた言葉を脳が認識してない。  私はどうすればいいのだ、そんなことを考えた時「三雲さんにはまだ僕が残ってますよ」という声が聞こえた。  それは間違いなく今村君の言葉だった。それにより私は周りのものに対して視野を向けることが出来るようになっていった。  私は隣を見る。今村君はこちらを真っ直ぐ見つめて私を慰める言葉を言い続けていた。  いつからそれは始まり今は両親が死んでから何時間経っているのだろう。  私の思考は回復を始めた。 10  旅行後に三雲さんは両親の葬式を出すと言っていた。  しかしその葬式がどこでやったかも僕もわからなくて、出席もしていない。  今はあの日から10日が経っている。  僕は今三雲さんと会えない状態に陥っている。  理由は後に語ろう。 11  私の名前は天野栞。  本来私には章の語り部をする権限は無い。  なのでおそらく、この1回で終わるだろう。  今回私が章の主役をもらえたのは、私の口から語らないといけないことがあるからだ。  私の彼氏は今村了。  語らないといけないのは、その馬鹿な彼氏の、私という彼女に対する粗そうと、それにより私が出したルール。  了は浮気同然のことをした。私じゃない女と2人きりで遠出をしたからだ。それが粗そうの方。  そして私が出したルールの方は、半年間の自宅謹慎だ、当然会社にだけは行かせるが本当はそれすら嫌だ。それともう1つのルールは2度と蜘蛛の家の女と会わないこと。連絡も取れないように私は今、了の携帯電話を会社に行っている時以外は管理している。  了は私のものだ。  誰にも、ましてあの近所内でおかしい人間として有名な蜘蛛の家の女なんかに渡したくはない。  私は蜘蛛の家の女を許さない。 12  私は寒気がした。それは一瞬の出来事だったが、漠然と良いことではないことだとわかっていた。何となく今村君の彼女だというあの女のことが頭に浮かび嫌な気分になる。  今現在両親の死から10日が経っている。私はもう立ち直っていた。そうなれたのは旅行の帰り道で今村君がずっと励ましてくれていたからが大きい。  話は変わるが私はもう今村君と会えないそうだ。  そう、それは私と今村君が一緒に旅行したことに激怒した今村君の彼女が決めたルールだ。  確かに私達の行動は彼女の視点からすれば許されることではない。だが、私はあの女が嫌いだ。あの独占欲丸出しなところと、わがままに生きてきたことがわかる雰囲気と面構えが気に食わない。  とにかく私は名前も知らないあの女のことが嫌いだ。 13  栞は、僕と三雲さんの旅行後、僕を使って三雲さんを自分の前に呼び出し怒りを見せつけた。  何も知らなかった三雲さんは謝りはしたが、栞のまるで三雲さんが僕を誘惑したと言わんばかりの態度に嫌悪感を示していた。  三雲さんは最初は謝罪の意思があり低姿勢だったが、途中栞の横暴さを感じ取ってからはどこか冷めた態度で、「はい。はい」と、当たり障りのない言葉でその場を凌いでいるだけだった。  僕は、この2人は相容れない、そう感じた。  そして結論を言うと僕は栞の三雲さんへの敵意を抑えることをせずに、僕は栞の方の付き、栞の言うことを受け入れることにした。  結果、僕と三雲さんはもう会うことは出来なくなった。 14  私は今村君と会えなくなったのだが、特にその出来事は生活の中の他のことにまで影響はしなくて、私は相変わらず順調に大学生活を送っていた。  今村君、さよなら、と再び思うべきか?  そんな具合いに私は今回のことは真剣に考えるに値しないことだと思っていた。  今村君の彼女の効力など大したことではないだろう。  今村君もその内彼女に愛想つかせて私のところに戻ってくるだろう。まあそう言うと私と今村君は交際をしていたみたいたが、それは違って、只の友人なのだが。  私は今村君を待てばいいだけだ、こっちからまた会えるように働きかける必要は無い。  今村君、信じているぞ。 15  僕は苦しい生活を送っていた。  栞のルールに従い始めてから3ヶ月が経った。  半年間の自宅謹慎もまだ半分しか終えていない。その間僕は三雲さんと会っていない、いやこっちのルールは半年経った後も会うことは出来ないのだが、僕は三雲さんと会いたいと思っていた。  三雲さんに会いたいという気持ちは高まってきているのと、最初は息苦しいだけだった自宅謹慎も今では結構な苦痛を感じさせる。  会社に行く時以外、外に出られず、家では栞にあれやこれやと束縛をされる。  僕の気持ちは限界に近付いていた。 16  今村君の彼女と会ってから3ヶ月が経った。  私の方は特に変化は無い。  順調に大学生活を送っている。  他には何もない。 17  僕は半年間の自宅謹慎を耐え切って外に出ることは自由に出来るようになった。  ただ三雲さんには会えないままだ。  正直寂しい。  僕は今回の出来事で三雲さんへの自分の気持ちを自覚出来てきた。  栞に対して愛想を尽かしてきていることも。  僕は栞に別れを告げようかと思い始めていた。 18  あれから半年が過ぎた。  私は大学に通いながらも、生活に何か物足りないという気持ちを抱いていることに気付いた。  そしてそれが今村君という存在と関わっていないことだとすぐにわかった。  今村君は半年間1度も会いに来なかった、連絡も来なかった。  やれやれ、そろそろ私の方から動いてみるか。  そう私は思った。これが私の本当の気持ちだ。 19  ピンポン。  土曜の昼間共に会社が休みの僕と栞が昼御飯を食べようとしていた正午に家のチャイムが鳴った。  ちなみに栞は半年ほど前まで一人暮らしをしていたアパートから出て僕の家に暮らしている。  奇しくも僕と三雲さんの旅行が同棲のきっかけとなったのだ。勿論栞は僕をそばで監視したいからだ。  栞を待たせ僕が玄関の扉を開けた。  玄関先に立っていたのは宅配業者のお兄さんだった。両手で段ボールを抱えている。  僕は伝票に受け取りサインを書いて荷物を受け取った。  荷物は僕宛の物だった。  中身は両親から送られた米だった。  僕はありがたいな、と思い、玄関に背を向けて、米を台所に持っていこうとした。  栞が「誰だったのー」と台所のテーブルに座りながら声を掛けてきたのと同時に再び、チャイムが鳴り響いた。  僕は何だろう、さっきのお兄さんが何か忘れていたのかなと思い玄関の扉を開けると、そこに立っていたのは三雲さんだった。 「久しぶりね、今村君」  驚く僕に事態を受け止める時間を与えずに三雲さんはそう言った。 「久しぶり……です」  僕はそう返した。  感動、歓喜、戸惑い、焦り、これら全てが同時進行で僕の頭を駆け巡る。  そしてそれらの感情は1本にまとまり1つの疑問へと姿を変えた。何故三雲さんは僕を訪ねてきたのだ、という。  だがやっぱり会えて嬉しい、その感情が僕の意思と関係なく僕の胸の中を暴れ回りながら膨らんでいった。  三雲さん、僕はあなたが好きだ。それを今の僕ははっきりと認識した。  好きだ。  後ろから栞が「ねえ誰が来たのよ」としゃしゃり出てきた。  僕は三雲さんを見つめていて栞の方を見ることもしなかったが、栞が怒りを露にしているのはわかり切っていた。  今から修羅場が始まる。  結末がどうなるかなんてどうでもいい。  僕は三雲さんが好きだ。今はその感情があればいい。僕はそう思っていた。  本当だ。これは僕の人生において一番の真実だろう。  栞なんて──。 20  私は今村君の家を訪ねた。  それに対して嬉しそうな今村君はまあ置いといて、その後ろに立っている女の方が問題だろう。  これから修羅場というものになる。  構わない、私は悪いことはしていないのだ。 「あんた……」あまりの怒りに今村君の彼女は言葉を詰まらせる。  今回私が来た目的は、彼女に私と今村君の仲を邪魔するようなことをやめさせることだ。  彼女の勝手な都合で、私は友人を失うというのは気持ちの良いことでないからな。 「歓迎はされないか、まあ当然ね」 「今日私が来た理由はわかる?、えっと……今村君の彼女さん」 「理由なんてどうでもいいわ、あんたは私の了を誑かした、それを私は許せないのよ、だから私はあんたと了を会わせないルールを作ったのよ」 「そう、あなたにとって今村君は"物"なのね、アホ臭いわ、ねえ今村君、あなた彼女さんに人間扱いされてないわよ、いいの?」 「……」今村君は何も話さない。 「もういいから、了、そんな蜘蛛女追い出してよ、この家にまで蜘蛛が涌くわよ」 「栞、彼女をそんな風に言うな」 「今村君、悪いけど黙ってて、こっちから話振っといて悪いけど今村君が喋るとややこしくなりそうだわ」 「あんた了を馬鹿にしてんの?」 「してないわよ、まあいいわ、単刀直入に用件を言うわ、栞さん、あなた1つ勘違いをしているわ、私と今村君は友人よ、今日はそれを言いに来たの」 「友人?、本当なの?了」 「そうだよ」今村君はこの状況に疲れてきているようだ。 「栞さん、あなたは独占欲のあまり、勘違いをしていたのよ、だからさ、もうやめない?今村君を束縛するのを。いや束縛は自由にしてくれたらいいわ、だけど私は今村君とこれからも仲良くやっていきたいの、それを邪魔しないで欲しいのよ」 「……許さないわ、許さない、了が他の女と仲良くなるなんて許せない」  私は溜め息を吐く。話は通じないか。 「もうわかったわ、私は今村君を諦めるわ。ごめんなさいね、お2人の仲を邪魔して、どうぞ末長くお幸せに。ごめんなさいね、栞さん、今村君を誑かせて。私は失礼するわ、じゃあね、今村君、栞さんを悲しませたら駄目よ、その娘は傷付きやすそうだから、じゃあ、本当に、さよなら」  私は玄関から出た。  言い合いの後、折れた私に対して栞さんは何も言わなかった。顔には怒りは見られず、言い過ぎたという反省の色すら見られた。良いところもあるのかもしれないな。  今村君は悲しそうだった。行かないでと目で訴えていた。そう私は感じた。まあ私の妄想かもしれないが。実際には真顔だったのかもしれない。  今村君が私をどう思っているのかは私にはわからないから。  さよなら、今村君。  こういうの何て言うんだっけ、なんか昔の洋楽に有ったわね。えっと、そうだ、意味が合っているかはわからないけど、セパレートウェイズ。  そういう昔の歌があったわ。私は野球には詳しくないけれど。  とにかく私と今村君の関係は終わった。  まあいいや、大学の人達ともっと仲良くなろう。それで心の穴は塞がるだろう。  もしかしたら、家にも呼ぶことがあるかもしれないから、家の蜘蛛を駆除しようかしら。  それでいいわ。  今度こそ、本当に、さよなら、今村君。  楽しかったわ。私は結構今村君のこと好きだったわよ。  じゃあね──。 三日月 1  僕の名前は今村了だ。  栞という女性と共に暮らしている。  僕には以前三雲結さんという友人がいた。  それは5年も前の話だ。  今、彼女はどうしているだろう。  僕は自宅の台所でそんなことを考えながら、ティッシュペーパーで紙飛行機を作り、天井に向けて飛ばした。 2  プルルルル、ガチャ。 3  僕は5年前に病院で産業カウンセラーという仕事に就き、今ではその部署の主任を任されていた。  馬鹿だった僕も積み上げていくことで出世は出来た。  この世も割と救いのあるように出来ている。 4  ……。 5  僕は最近同棲をしている栞からそろそろ結婚をしないかという雰囲気を出されている。  確かに僕と栞は同い年で今年で32歳。  結婚をするのなら今の内なのだろう。 6  ……。 7  僕はある日1人で近所の居酒屋に飲みに行った。  そこで後ろ姿が三雲さんと似た人を見つけた。  咄嗟に声を掛けて人違いだと気付いた僕は、まだ三雲さんに対する思いを消せれていないのだろう。 8  ……。 9  僕は今の仕事が楽しい。  この仕事をずっと続けていきたい。 10  ……。 11  ある日、僕は栞と喧嘩をした。  理由は僕と栞がベランダで話している時に、ふと栞が三日月を見て「綺麗だね」と言った。  僕は「そうかな」と返した。  それが栞には気に食わなかったらしく「私が綺麗だと思うものは了も綺麗だと思わないと駄目でしょ」と怒ってきた。  栞はそんな女だ。しかし僕みたいな馬鹿には丁度良いのだろう。だから別れることは無いのだ。 12  ──。 13  僕のやっている仕事の内容は主に職場で悩んでいる人の相談を聞くことだ。  僕は案外、的を得たアドバイスが出来て、悪い事態を解決に導くことが出来る。  しかし、5年前のあの日には僕はその力を発揮出来なかった。  今でも後悔している。 14  ……。 15  僕には友人と呼べる存在が少ない。  職場の人間とはそれなりの付き合いをしているが、あまり距離が近い人間がいないのだ。  三雲さんみたいに僕を受け入れてくれる存在は滅多にいないのだろう。 16  ……。 17  僕の両親はここから遠い田舎で百姓をやっている。  時々米や野菜を送ってくれる良い両親だ。  三雲さんのこともいつか紹介したかった。 18  ……。 19  三雲さん、そろそろ何か言ってよ。  僕は返事の無い受話器の向こうへそう声を荒らげた。  僕には三雲さんが必要だ。  僕は電話の向こうへそう伝えた。 20 「今村君、電話してくれてとても嬉しいわ、だけど私達の関係は終わったでしょ、あなたは5年前栞さんを選んだ、去っていく私を引き留めなかった、その時私がどんなに悲しかったかわからないでしょ、本当は悲しかったのよ、私が今村君とずっと仲良くやっていきたかった、だけど今村君はそれを選ばなかった、そうなるように動かなかった、5年も音信不通にして今更何よ、何が言いたいの」 「何?私とまた会いたい?よく言えるわね、そんなこと、私達の関係は終わったのよ、それを受け入れたのも今村君よ。知ってる?人の心は、月と違って欠けた後に当たり前のように元通りにはならないの、私の心は三日月よ。私は今村君と私というどこか欠けている2人が揃って初めて満月のように満たされたものになると思っていたわ、そう、相乗効果でね」 「悪いけどもう私も三十路でね、あれから大学を通い切ってそれ以降それなりのキャリアも積んできたわ、プライドがあるのよ、私を1度突き放したあなたと再び関わる気は無いわ、そんな簡単な言葉を並べられてもね」 「じゃあね、今村君」  ずっと黙っていた私はそう捲し立てて一方的に電話を切った。  じゃあね、今村君。  今度は心の中でその言葉を思い浮かべた。  5年前のことは今村君のせいではないことはわかっている、しかし今村君は栞の言いなりになって私と関わることを本当にやめた、私はそれがとても悲しくて、そして許せない。  ごめんね、今村君。  私は久しぶりに自棄になって、家から夜の街に出た。  そして近所の居酒屋に向かった。  そこに今村君がいることを知らずに。  居酒屋の中に入った私は驚愕した。  こんな偶然があり得るかと思った。5年間1度も訪れることが無かった偶然が。  今村君とばったり会うという、"再会する"という偶然が起きるなんて。  ……思いもしてなかった。 三日月2 1  さっきの今だ。声を掛けられるはずがない。私は今村君に気付かないふりをして、離れた席に座った。  そういえば電話の時に今村君の周りは騒がしいな、とは思っていた。  迂闊だった。その時に今村君がここにいる可能性に気付いていれば良かった。  ここはキッチンマツモトの隣の居酒屋で、私達の家から共に近所であり、私達がよく一緒に飲んでいた場所なのだから。  今村君は店の入り口から見て一番奥のカウンター席に座っていて、私は入り口から一番近いテーブル席に座った。離れているとは言え遮るものが無いので、見つかる可能性はある。  私は店員に注文を聞かれて酒を頼んだ時に気付いた。下手したら今村君に見付かる可能性がある状態でも店から出るという選択をしない私は心のどこかで今村君と話したいと思っている、と。  私に気付かない今村君はちびちびと酒を飲みながら心なしか悲しそうな顔をしていた。  しかし、そもそもが電話で真剣な話をしようという時に居酒屋にいるのがおかしい。そのどこか変なところが今村君らしいが。  しかしその事実に私は怒りよりも今村君が5年前と変わっていなくて安心した、という感情の方が大きかった。  ……私は決して今村君のことを嫌いになったわけではない。しかしお互いに合わせる顔は無い。だから声は掛けない。  そう思った私は再び自棄になり酒を浴びるように飲み始めた。  周りの中年男性連中が、おお良い飲みっぷりだねえと騒ぎ始める。  やめろ、私を目立たせるな、そんなことをしたら──。  案の定、店の入り口から見て一番奥のカウンター席に座っていた今村君はこちらを見ていて私と目が合った。  今村君は目を丸くしていた。  こうして私達は5年越しの再会をした。 2  僕は目を疑った。  僕のいる空間の中に三雲さんがいるからだ。  5年越しだ。  再会だ。  嬉しい、そうやっぱり嬉しい。そう思うのはまだ早いのだろうがそれでも嬉しい。  僕のすぐそばに三雲さんが存在している。  嬉しい。  僕は考えるよりも先に体が動き、その体は三雲さんのもとに辿り着いた。  三雲さんと、話したかった。  5年間ずっと胸に隠していたその思いが僕を動かしたのだ。  それが今ようやく叶う。  三雲さん、と僕は声を発した。 3  私を見つけて瞬く間に私のそばに来た今村君は「三雲さん」と私の名前を呼んだ。笑顔だった。  私はおいおい、さっきの今という言葉を知らないのか、今村君はと思い、それか状況判断能力が欠けているのかと思い、最後にそれとも電話で冷たい対応をされて尚私を見つけて私と話したいという気持ちを抑えられなくなったのかと思った。  私は最後のが正解だとはわかりようもなく、喜ぶ前に怒りを今村君に向けた。 「今村君、さっき言ったことは理解出来ているのよね?」  私のその言葉を聞いて修羅場を期待したのか、周りの酔っ払った中年男性達は、おお痴話喧嘩かあ、いいぞやれやれえと騒ぎ出した。  やめろ、私達を目立たせるな。と思ったが、別に目立って困ることは無いのかとも思った。  あと痴話喧嘩では決してない。 「僕はやっぱり三雲さんとこれからも関わっていきたいです」 「それは君の我が儘でしょ、私は嫌なの」嘘だ、嫌ではない、本当はそれを望んでいる。 「駄目ですか」今村君は悲しそうな顔を作る。  その顔は以前とは違い心のままの顔ではなく、"作っている"という感じだった。成長したな、今村君、演技が出来るようになるなんて。  私は勝手に感心しながら「駄目よ」と返した。私の方が心の内を隠せず、微笑みながらそう答えてしまった。私は5年間でそれほど成長していないのだな、と思った。むしろ前ほど人を遠ざけることが苦手になった。人付き合いが上手くなったとも言える。……いや、成長していると言えるのか。  それはまあいいとして、とにかく今、簡単に今村君のことを私は許す気は無い。  もっと何かが欲しい。それは謝罪でもなく誠意でもなくプレゼントや愛の言葉でもなく。  ……。  そうか、私は今村君から何かを求めているわけではなくて、ただ……今村君と普通に関わりたいのか。  そう気付いた私は今村君に8割程残っている私の飲みかけのウイスキーを渡し「私とこれからも関わりたいなら杯を交わしなさい」と言った。  間接キスかい、いいねえ、ひゅーひゆー。周りの酔っ払った中年男性達が五月蠅い。  しかし私も酔っているからこんな阿呆みたいなテンションでこんな提案が出来るのだ。人のことは言えない。  今村君はそれを受け取り、グラスを少し眺めてからウイスキーを一気飲みした。  私が目を見開いていると、今村君はどうだ、と言わんばかりの自慢げな顔で「飲みましたよ」と言った。  私は驚いた顔を隠すために溜め息を吐いて、微笑み「今村君、変わったわね」と呟いた。  私は今まで今村君にこの5年間で手に入れた携帯電話の電話番号を教えてその日は分かれた。  帰り道、私は良い気分であったと同時に漠然と何かが変わるという感覚に浸っていた。その感覚は人生の転換点を表すように思えた。これから人生が別の方向へ進むという。 「人は新しい世界に触れた時に変化をする、か」私は顔を赤くしてふらふらと歩きながらそう呟いた。この言葉は私が5年前くらいに今村君と初めて出会った時に胸に抱いた言葉だ。その時も今のこの感覚はあったのだろう。おそらく。あまり覚えてはいないが。  まあとにかく、これで私は今村君とまた関わることが出来、そして新しく関係を作っていくことが出来る。  幸せだ。やっぱり人生こうでなくては。私にとって今村君という存在は至極当たり前にそばにいるべき存在なのだ。そうなのだろう。  ねえ私?そう思うだろう?  私は帰り道、歩きながら一人で大笑いをした。  偶然近くにいた通行人が変な目で私を見る。  それすら久しぶりのことだが、そんなことはどうでもいい。  また今村君と話せるのだ、語り合えるのだ。はははは。  私の人生はこれでいい。 4  僕は三雲さんと分かれた後真っ直ぐ家に帰って、楽しかった気分は徐々に落ちていった。  家に帰る、即ち栞の元に向かうということだ。  憂鬱、そんな気分に僕は陥っていった。 5  私は今大学へ向かっている。教えてもらう為ではない。教える方だ。  それと研究の為だ。  蛙の子は蛙ということだ。  私は両親の知人の教授のもとで蜘蛛の研究をしている。  助教。それが私の仕事だ。私は両親からしっかりと頭の良さを受け継いでいるらしく、なので就けた仕事だ。まあ教授のコネもあるが。  今村君は仕事ではどんな感じなのだろう。 6  僕は今仕事中で1人の看護師の悩みを聞いている。  どうやら仕事が出来ないわけではないが思っていたものと違うのが問題らしい。  上手く気持ちを切り替えられないか、それを相談された。  僕に求められているのは適切な助言を渡し状況を解決する、ということだ。  はて、どうやってこの人が仕事を満足に続けられるような答えを出すか。 7  私は広い講義室で講義を行っていた。  生徒達は多い。私の講義の内容は主に蜘蛛を取り扱うもので生徒の関心を持たせるには難しいものだが、私の容姿が生徒を呼び寄せているらしい。  生徒達は私が蜘蛛の家の女だったことを知らないのだろう。それか知っていても受け入れているのか。どっちかだろう。  私は一般的に美人とされるらしい。  勿論、身なりはきちんとしているつもりだが、そういえば、確かに今村君にもそれらしいことを言われたことがある。  私はこの大学の教える身の中で結構な人気者らしい。 8  僕は休憩時間内に看護師の彼の悩みに対する、答えを見つけ出して、休憩後、またカウンセリングを行い、彼に答えを示すと、彼は「そうですね、そうします、ありがとうございました」と言ってくれた。  この誰かの悩みが解消された瞬間が好きだ。  この瞬間が僕を恍惚させる。  勤務終了後、僕は、5年前は三雲さんにアドバイスをもらっていたのに今ではアドバイスをする方だ、と思い、思い出に浸った。  三雲さんに助けられていたことが産業カウンセラーになることを後押ししてくれたのかもしれない。  僕は三雲さんに感謝しないとな、と思った。  そして家に帰った、僕は今日栞に別れを告げようと思っていた。  決戦が始まる。少なくとも残留が確定することが無いようにしなくては。 9  私の日々は卒なく過ぎていっている。  特に語ること無し。 10 「栞、話がある」  僕と栞は夕食を一緒に摂っていて、僕の方からそう切り出した。 「何、話って?」栞は怪訝な顔をする。これから僕が言う言葉を僕の雰囲気を感じ取り予期したのかもしれない。 「回り道をせず包み隠さず言う。僕は栞と別れたい」  栞は涙を流し始めた。想定内だ。 「嫌よ、そんなの、了と別れるなんて」 「僕の方はもう限界なんだ、栞からの束縛、携帯電話を逐一確認されたり交遊関係を曝け出さないといけないことが」 「許さないわ、そんなの」栞は泣きながら5年前と同じような台詞を吐く。想定内だ。だが僕のことを所有物のように思っていることが伺えるその言葉に今の僕は腹が立った。 「いい加減にしてくれ、僕は栞のオモチャじゃない、もうそろそろ解放をさせてくれ、もう限界だ、僕は栞のことをもう好きだと思っていない、その反対の感情でいっぱいなんだ」 「……嫌いということはまだ私に関心があるってことでしょ、ならいいじゃない、恋人のままでいようよ」  どんな頭をしているんだ、この女は。  僕は話にならないと思い「出てってくれ」とだけ行った。 「嫌よ」と泣き止んでいる栞は言う。  本当にこの女は自分の思いしか見えていない。 「出てけ」僕は再び同じ内容の言葉を言う。  もう疲れた、こいつとは話したくもない。 「わかったよ、そこまで言うなら別れてあげる、この家からもすぐに出ていくわ、了、あんた必ず後悔するからね、あんたを選ぶ女なんて他にいないんだから」 「もう黙れ、あと住むところが見つかるまではここにいさせてやる、だから明日必ず決めてきてくれ、もう僕は1日でも早く栞の顔を見ない生活を送りたい」 「わかったわよ」料理の入った皿を床に投げて、栞はそう叫んだ。  これで決着した。僕の勝ちだ。  残留にはならなかった。  ひとまずずっと抱えていた問題を解消出来て僕はほっとしていた。  だが、恍惚はしなかった。  そんな気分ではなかったから。 11  私はある日講義を終えた後1人の大学生に呼び出された。  髪の毛は長く茶髪で所謂いけている部類の男の子だった。 「ごめんね、結さん、いきなり呼んで」  私は生徒達に結さんと呼ばれている。そしてため口を使うことも許可している。結さんと呼ばれているのは、結ちゃんと言えるような雰囲気を私が持っていないからだろう、容姿は良いと言われるが雰囲気に堅苦しさがあるのだ。 「俺、結構前から結さんのことが好きでさ、ねえ、付き合って欲しいんだよね、駄目?」この大学生は真剣な顔をしていて私をからかっている様子は感じられなかった。 「いいわよ」私は何となくそう答えた。  勿論私はその大学生を好きなわけではない。しかし彼氏もいないし、これも何らかの経験になるだろうと思い、私は了承したのだ。 「本当!ありがと、じゃあこれ俺の連絡先だから持っといて、あとこれから結って呼んで良い?」 「いいわよ、だけどみんなの前では結さんと呼びなさいよ、そして関係も公にしないこと、面倒臭いことは嫌いだから」 「わかった、了解、じゃあ今夜連絡してね」と結構顔の良いいけている大学生は笑顔で去っていった。  私は渡されたメモ用紙を見る、奥村健助と書かれ、その下に携帯電話の番号とメールアドレスが書かれていた。 「奥村君ね、それとも健助かしら」呼び方をどちらにしようか私は悩んだが、まあ追々決まっていくことか、と思い考えるのをやめた。  そして、彼氏か、高校生以来だな、と思った。  実は私は処女ではない、高校生の時に当時の彼氏と交わっている。その彼氏も今の奥村君のような見た目に近かったな。  私は嬉しい気持ちも多少はあったが、面倒の臭い火種を生むのだけは避けたいと思っていた。  例えば奥村君に好意を抱いている大学生女子から嫌がらせを受けるとか、大学生に手を出したことで私の立場が危うくなるとか。  だから公にはしたくないのだ。  あの子はそれをちゃんと守ってくれるかしら。  私は彼氏が出来たのと同時に心配の種が増えた。  しかし悪い気はしていなかった。 12  栞は僕の言った通り、別れを告げた翌日に出ていった。  名残惜しい。という気持ちは全く無い。本当だ。  こんな僕を好きでいてくれたことだけは感謝する。じゃあな、栞。 13 「こんにちは、奥村君」  今日は奥村君と遊園地に来ていた。私が奥村君に誘われたのだ。他にも数名来るのかと思ったが2人きりだ。  付き合ってから1週間が経っている。  私も大体奥村君の性格を掴めてきていた。まあ毎晩電話しているからな。  奥村君は派手な方の人間で女遊びをしようと思えば出来る見た目と甘い性格を持っている、しかし今のところ私の目から見て一途だと感じさせるものもある。  そんなところだ。私は遊ばれているわけではない。これからどうなるかわからないが、とりあえず奥村君は私との約束を守ってくれていて面倒ごとにもなりそうにもないので良い。  夕方、遊園地から出た後は私は奥村君の車で家まで送ってもらうことになっていた。  帰るまでの間、私達は楽しく話した。私は奥村君と話していて結構楽しいと感じている。  奥村君と関わっている時に考えてはいけないだろうが今村君のことを思い浮かべる、奥村君と話すのは今村君とは違う風に楽しい。おそらく今村君とは相性が良いのだろう、彼は人を楽しませるのが特別上手いわけではないから。しかし奥村君はやり手だ。人の心のつぼを知っている。なので楽しい。  つまり言いたいのは奥村君と私はまだ相性が良いとは言い切れないということだ。  私の蜘蛛が取り除かれ普通の一軒家になった私の家に着き、まあタイトルと反してしまうが、奥村君は少し中で休みたいと言ってきた。  私は瞬時にその言葉の意味を読み取った。奥村君は私とヤりたいのだ。  まだ付き合って1週間、この子は私の体が目的だったのか。いやそれもまだわからないか。最近の高校生の中には付き合った初日にヤるカップルもいるらしいから。それも前に奥村君に教えられた情報だが。  私は奥村君を家の中に入れることにした。  さて、どうなる。 14  僕はある日三雲さんの家を尋ねることにした。  三雲さんの予定が空いていて一緒に飲みにでもいけたら、という安易な考えだった。  その時刻は夕方が終わり本格的に夜になっていく頃だった。  まず最初に驚いたのは、というより、三雲さんの家に最初気付けなかったのはそこら中に這っていた蜘蛛がいなくなっているからだった。  蜘蛛の家の女、そう呼ばれていた三雲さんは5年間で一般的な人間に自分を変えたのだ。  やはりこの人は普通の人とは違う、普通の人は悪いものは悪いままに、良いものは良いままに、そう生きているので、三雲さんみたいに簡単に自分をねじ曲げられるのは普通とは言えない。良い意味で普通とは言えない。  その次に驚いたのは三雲さんの家の前に車道を使って横向きに付ける形で黒いバンが停まっていたことだ。その車を僕はごつい、と思った。大きな車だった。  三雲さんの車か?と僕は思ったが、何故か胸騒ぎがした。  その胸騒ぎは家を尋ねることが良いことか、このまま帰った方が良いか、僕の判断を鈍らせた。  結果僕は三雲さんの家を訪ねて……しまったのだ。 15 「たくさん本がありますね」  私の家のリビングに置いてある書斎を見て奥村君は驚いていた。  その言葉に私は反応をせず「夕食食べてく?」と私は奥村君に聞いた。 「はい、是非!」と奥村君は笑顔で快活な返事をした。 「ちょっと待っててね」  私は2人分の夕食をあっという間に作った。メニューはオムライスだった。すぐに作れる料理で思い付いたのがこれだった。  私は夕食後に奥村君、いや"奥村"がどう動くかが予期出来ていた。  案の定、奥村は私にソファでテレビを観ませんかと言って体の距離を詰めてきた。  私達は30分程は何ともなくテレビのバラエティを時々笑いながら観ていた。  30分程経った時に奥村は私の肩にさりげなく手を回してきた。  私は攻めてきたな、と思い「ちょっと奥村君」と焦った様子を見せて言ってみると、奥村は展開を早めてきた。  強引にキスをされた。  私は抵抗するが、奥村は私の両手を塞ぎ口付けをやめない。  その内、奥村は私をソファに押し倒し、口の中に舌を入れてきた。  私が、奥村の舌を噛み切ってやろうか、と思っていると、家のチャイムが鳴った。  私は驚いたが、訪問者が誰かは察しが付いた。  察しが付いたのには理由は無かった、私が呼んだわけでも、今日会う予定を作ったわけでも無かったからだ。それでも私は誰が来たのかを瞬時に気付いた。  それはもう感覚の世界だろう、私は感じ取っていたのだ。  私に危機が迫ってきた時には今村君は現れると。  いや、感覚ではないか、この思いは私の願望だ。  この状況で私を救うヒーローは今村君であって欲しいという私の願望だ。  私には今村君が特別な存在なのだ。蜘蛛の家を失った今でも。そこには恋愛感情は無いとしても。  私を救うのは今村君であって欲しい。  だから異変に気付いてさっさと中に入ってきてくれ、今村君。 16  僕は三雲さんの家のチャイムを鳴らした。しかし返事も無く三雲さんは出てこない。  何故だ?留守なのか?明かりは付いているのに?  僕は何となく不穏な空気を感じ、また葛藤を始めた。もしかして三雲さんは彼氏とかとお楽しみ中なのではないか?だったら僕は邪魔物だろう。  このまま黙って帰るか。  僕が数10秒そう悩んでいて、帰るかという答えを出した時、家の中から男の声が聞こえた。  それは怒声や話し声ではなく、いてぇという悲痛な声だった。その次にそれと同じ声がてめぇという怒りを含んだ声を出したので、僕はようやく事態を何となく把握し、家の玄関を勝手に開けて、無断で中に入り込んだ。  駆け足で、僕はリビングへ向かった。  漠然とだが、そこで事が起きているとわかったのだ。 17  私は奥村の舌を噛んでやった。これは今村君だろう訪問者がすぐに入ってこなかったから、仕方無くやったことだ。  まあ悪いのは中に入るか躊躇っている訪問者でも私でもなく奥村だ。だから良いだろう。  奥村はいてえと荒げた声を出し次に私に向かっててめえと怒りを向けてきた。  奥村が右手を振り上げて私に暴力を振ろうとした瞬間、玄関の扉が開く音がして、そこから誰かがこっちに向かって急ぎ足で向かってくる音がした。  奥村は振り上げた拳を下げて「誰だ」と呟き焦りを見せた。  閉まっていたリビングの扉が開き、今村君が出てきた。  私はようやくか、と思い安心した。それと同時に今村君で良かった、とも思った。これが今村君ではなくもしかして奥村の仲間とかだったとしたら、私はこの後複数の男に好き放題に犯されていただろう。  本当に良かった。 「今村君、状況はわかるわよね?」 「で、奥村、あんたも状況はわかるわよね?」 「逃げるなら今の内よ」私は奥村に向けてそう言った。  しかし何を思ったのか、今村君の方がリビングから出ていき、玄関からも出ていってしまった。  私は、はあ?と今村君に心の底から呆れ、何をしに来たんだと思った。  奥村は「男連れかよ、結、最低だな、だけど男がヘタレで助かったぜ、続きをしようか」と言い始めた。  私は溜め息を吐き、奥村よりも今村君に怒りを感じながら「まあ仕方ないわよね」と呟いた。  それを私が諦めたと受け取った奥村は再び私に迫ってきた。  だが、すぐに離れた。というより吹き飛んだ。  床に横たわる奥村は唖然としていた。  私は迫ってきた奥村の左頬に右ストレートを打ってやったのだ。これでも私は多趣味でありボクシング観戦も中々好きなのだ。  追い打ちをかけるように私は倒れたままの奥村のこめかみに蹴りを入れた。  次に仰向けになった奥村の腹に踵落としを。次に右腕に向けて勢いよく膝を入れ、最後に左の太股を思いっきり殴った。  奥村は呻き声を上げて、痛みに耐えながらも動けずにいる。 「逃げてもいいわよ」と私は言った。 「続きをしたいなら次は道具も使わせてもらうけどね」  奥村は眉間に皺を寄せ私を睨む。  1分が経ち回復した奥村は立ち上がり「これで終わると思うなよ、俺には"お友達"がたくさんいるんだからな、すぐにお前を集団で回してやるからな」と捨て台詞を吐いて、リビングから出ていった。  全くヤることしか頭に無いのかと思い、私は肩を竦めるとリビングの外でゴツンという鈍い音がした。  私が見に行くと、そこには金属バットの先端を前にして持っていた今村君が立っていた。その先端は奥村の顔の高さと同じくらいだった。  つまりまた床に倒れている奥村の顔には今村君が突き出した金属バットがヒットしたのだろう。 「お前、お友達と三雲さんを回すと言ったな、それを本当にしてみろ、その時は僕のお友達がお前を袋にするからな」今村君はそう言った。ドスの利いた声で。 「ひい」と情けない声を出し奥村は走って逃げていった。奥村が玄関から出ていく瞬間、今村君は「餞別をやるよ」と言って奥村の背中に金属バットを叩き付けた。またしても先端が奥村にぶつかり、奥村は倒れたが、すぐに立ち上がり消えていった。  少しの沈黙の後、私は「今村君、やるわね」と若干引き気味に言った。まさか今村君がこんな風に豹変するなんてと思っていたからだ。  それから「いや、その前にお礼を言わないといけないか。ありがとう、今村君、助かったわ」  男らしく凛々しい顔の今村君はそれを聞いて「ああ」と声を上げて、膝崩れした。  私が疑問を顔に浮かべると、今村君は「怖かったですよ、三雲さん、あんな派手な男に立ち向かうなんて」と普段の調子で言った。  それが私の暴力について言っているのか、今村君が奥村に立ち向かったことが怖かったのかを言っているのか私にはわからず、とりあえず「何言ってるのよ、私は私でやることをやっただけだし、今村君は私をかっこよく助けてくれたじゃない、結果的に良いじゃない」と言ってみた。  今村君は「やることをやっただけ?、三雲さん、あの男とやったんですか?」と険しい顔で聞いてきた。  あぁそういうことか、と私は理解し、ややこしくなるのは嫌だと思い、素直に「やらせてないわよ、今村君が金属バットを持ってくる前に、私はある程度あの男を痛め付けておいたのよ」と答えた。 「なるほど、三雲さん、喧嘩も出来るんですね」と今村君は頭を掻きながら苦笑した。 「だけど、今村君の追い打ちのお陰で今後、あいつは私に手を出せなくなったわ、本当にありがとうね、感謝するわ」 「なら良かったです」と今村君は言って、「じゃあそのお礼に飲みに行くの付き合ってもらえませんか」と言ってきた。 「ああ、それが目的で家に来たのね、なるほど、いいわよ、行こうか、お礼に奢るわ」  そうして私の身に起きた事件は終息を迎え、今村君と飲みに行くことになった。  今村君は中々やるわね、見直したわ、と私は思った。  その日で私の今村君に対する印象が大きく変わった、今村君を"可愛い"から"男らしい"と思うようになった。  いや、男らしいではないか。  今村君はかっこいい。私は今回のことでその事実に初めて気付いた。  本当に出会えて良かったわ。ありがとうね、今村君。私は今村君と居酒屋に向かいながら笑顔を隠せずそう思った。本当だ。 「何を笑ってるんですか」今村君にはそう言われた。  だけど、にやにやが止まらない。私はこんな良い男と関わることが出来ているのだから。  私は感情を抑えきれずに人のいる外で今村君に抱き付いた。 18 「あ、ごめん」  いきなり抱き付いてきた三雲さんはすぐに僕から離れ謝った。 「どうしたんですか、三雲さん」  僕は自分でも顔が赤くなっているのがわかる。心臓が高鳴っている。 「あんなことされた後だし、今村君はかっこよかったし、気持ちが昂ったんだよ、多分、気にしないで」 「かっこいい……からかわないで下さいよ」  そのまま僕達は会話を続けながらキッチンマツモトの隣の居酒屋に入った。 19  今の私は出来上がっている。  つまり酔っている、かなり。  あはははは、と訳もわからず笑いながら今村君の肩を叩く私がいる。  それを心の中の理性の部分の私、これを語っている私が見ている。  今村君はやめてくださいよーと笑顔で私に言っている。楽しそうだ、今村君も相当酔っている。  次は本能の部分の私に語ってもらおうか。  私は今村君が好きだ、好きだ、好きだ、好きだ、愛している、彼氏にしたい、愛し合いたい、私だけを見て欲しい。  只一つ惜しいのは理性や本能を統合して司っている私は本能の私の感情に見向きをせず押し隠している。  つまり、三雲結という人間は心の底では今村了のことが好きだとわかっていない。本能の私にとってそれはとても残念だ。 20  星空が見える。もう時刻は2時を回っている。AMだ。  僕はいつものごとく酔いすぎで1人では歩けない三雲さんを肩に抱えて、家に送り届けようとしている。  三雲さんの部屋に入るというだけでも心臓は高鳴るが、今隣の三雲さんは半分寝掛かっていて、時折「ん……」や「ああ……」等艶のある色っぽい声を出していて、僕の理性は飛ぶことは無いが飛びそうだった。  ふと覚醒した三雲さんは空を見上げる。 「今日は三日月ね、ねえ今村君三日月も三日月で綺麗だと思わない?」 「そうですね、とても綺麗ですよ、三雲さんくらい綺麗です」と僕は答えた。冗談を言ったわけではない。  三雲さんは僕の頭を軽くチョップし「あほ、口説くなんて10年早いわよ」と言って笑った。  僕はそのやり取りに楽しさを感じていた。  幸せだ。こんな日々がずっと続けば良い。  僕は完全に眠った三雲さんを抱えて星空を見ながらそんなことを考えていた。  僕は5年前から最近までに生じていた三雲さんとの亀裂は消えてなくなったと思う。  本当に幸せだ。三雲さんがいればいい。その想いが僕の胸に溢れていた。  僕はそれからしばらく星空を見ながら歩いた。  途中流れ星が見え、僕はこの日々がずっと続きますように、と願いを星に託した。  三雲さん、好きだ。他にこれ以上語ることは無い。僕はその後三雲さんを部屋まで送り届けて、自宅に帰った。  三雲さんが襲われてから飲みに行って帰るまで、この夜はこうして終わった。  僕はこれからも三雲さんと関わっていくだろう。  とりあえずこの話は終わりだ。  三雲さんとはいつか結ばれたいが、まあ叶うかとうかはわからない。  さらばだ、また会おう。僕は誰に向けてそう思ったのかはわからないが何となくそんな言葉が頭に浮かんだ。 結と了。エピローグ。  三雲さんは蜘蛛の家に棲む女ではなくなり、近所付き合いも順調に進み始めているらしい。  僕の方は相変わらず病院で産業カウンセラーを続けている。毎日がとても楽しい。  僕と三雲さんは友人であり恋人ではない。しかし誰よりもお互いを求めている2人である。  僕達は今もその関係を続けていてその関係はこれからも続いていくだろう。  まあそんなところだ。  繰り返すがまた会おう。僕と三雲さんのエピソードは実はもっとある。いつかそれを語れる日が来たら語りたいと思う。  ではさらば。   今村了、そしてここにはいないが、三雲結。 おわり
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