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1
私の名前は西野高嶺。
しかし私は決して高嶺の花と呼ばれるような華やかな存在でも無く、そんな美人でもない。黒いが形はお洒落な眼鏡をかけているがおかっぱに近い髪型の個性の薄い女だ。
私は絵を描かせたら世界レベルであり、今世紀一番のアートの天才と呼ばれていただけの、他には取り柄が無い普通の絵描きだ、いや絵描き……だった。
私と比べたら、2人いる年のあまり変わらない姉達の方が華やかで美しく20代の青春を謳歌している。
23歳の私は地味なOLであり、大人しい存在であった。入社当初は私は目立っていて社内の人によく話し掛けられたが、昔についてのあらゆる質問に対して私があまりにも当たり障りの無い返答しかしないので次第に誰も私の過去には触れてこなくなった。
まずは常識を持って弁えることを覚えた社会人の私のことを語る前に、破天荒な技能を持ち常識破りな性格をしていた子供の頃の、アートの世界から最も必要とされていた時の、私の人生の全盛期について語ろう。
恥ずかしいが聞いてくれ。
2
まず、ことの始まりは私の母が7歳の私に絵を描かせたこと。その絵が拙いなりに革新的であったと母は感じ取り、絵の教室に私を連れてそこの先生にその絵を見せたら、その教室の先生はこの子には型にはまらない非凡な才能がある、人に教えられるよりとにかく自分の絵を描かせて磨かせることでこの子は大物になるとまで言われたことだ。
そして母が出した私の課題は毎日3枚は絵を描くこと。とんだ英才教育だ。
その結果、私の絵はどんどん完成度を増していった。1年後の8歳になった時の私の絵を母がどこかの絵のコンテストに応募したら、審査員の議論の余地無く優勝を勝ち取ってしまった。そこで私は天才であるということが世に知られ私はメディアに出されるようになった。
と、ここまでならまだサクセスストーリーのようだが、当時小学生できちんと学校に通っていた私にとっては悲劇が始まることになる。
元から変わり者な私はテレビに出たことですぐさまいじめの対象となったのだ。それはクラスの人気者から気に入らないという感情を持たれたからだ。
「調子に乗るな」「目立ちたがり」「馬鹿のくせに」「そんなに人の気を引きたいの」「絵なんて下らない」
人気というのは嫉妬を生み、嫉妬というのは負の感情であり、その負の感情は悪いことのしていない人間に向けられることもある。なので小学生の私は言われる必要の無い罵倒をされた。今思えば可愛らしい罵倒ではあるが、当時はこの罵倒をされる生活が私の悲劇だった。そしてその悲劇によって作られた悲しみは手を伝って、私の絵となった。
その悲しみを描いた小学生時代の絵は書く度に評価を上げ、中学生になって半年足らずで絵、アートの世界にとっての歴史に残る人間となってしまった。
しかし小学生から中学生に変わっても私をいじめていたクラスの人気者と離れることは無く、いじめは続いた。
いじめは中学生になってからはより陰湿なものになっていったので、私はさすがに腹が立ちいじめの根本であるクラスの人気者を5、6発本気で殴ったら、次の日からすぱっといじめは止まったのは私の伝説の一部だろう。勿論私の親は呼び出され、問題にはなったのだが。
とりあえず高校生になるまで私はその時代の絵の世界にとっての神様と呼ばれ頂点に立っていた。
高校生になってから私の人生は変わるのだがそれは後に語ろう。
次は私の現在、そして、運命の出会いを語る。
3
何?、大して語ってないだと?、そんな目に浮かぶ映像のように綿密に語る義務は私には無いだろう。文句を言うなら私を動かす作者の、少しおかしい頭の方に言ってくれ。
話を戻すが、私西野高嶺は、23歳の夏に運命の出会いを果たす。
先に言っておくがそれは恋愛にはならない。
相手の名前は日比野清史郎。私の働く会社の人間だ。ちなみに私は広報部で働いている。
出会った場所は会社の2階の廊下。私が会社で別の事業部の印刷した100枚ほどの広告を両手に抱え、歩いている時に、私は清史郎と出会った。
初対面だったが、清史郎は私を見て驚いた顔を見せ興味深そうに私を眺めた後「おはようございます、いや初めましてかな、えっと西野さんですよね、僕は日比野清史郎と申します、良かったらその広告持ちましょうか?」と親切にされた。
突然の出来事に私は、え、と呟き固まったが、清史郎は話すのを止めなかった。「確か広報部は3階だったかな、僕が3階まで運びますよ」
戸惑いながらも私は「どうしてですか?」と聞いた。
「あなたを見たら何故か少し話でもしたいな、と思ったからです、断って頂いても結構ですよ」
不思議なことを言う。今の大人しくなった私に対してそんな言葉を投げ掛けるなんて目的は何なんだ?社内恋愛を目的としたナンパとしか思えないが、しかしこの男は中々男前で、そんなことをする必要は無いように思えた。
なので、その時の私は清史郎の言葉に甘えたのだ。
「ではお言葉に甘えて」私は広告を手渡した。
私と清史郎とで、2人でエレベーターに使い3階の広報部のオフィスへと向かった。
清史郎は広報部の入り口前で私に広告を返し、とりあえずここまででいいですか、と聞いてきた。
私はそんな清史郎に、もしかしてここには入りづらいのかな、と思ったが、深くは考えず、ありがとうございました、と言って清史郎と別れた。
そういえば日比野という苗字は確か……と私は思い、その後人伝に清史郎が何者なのかを知ることになる。
広告を持ちながら私は扉を開け広報部の仕事部屋へと入った。
5年も経てば、もはや帰ってきたというような感覚にすらなる。ここは自分の家でもあるんだろう。私の戻るべき場所を選ぶのなら、私は家庭よりもこのタバコの煙が常に漂う広報部所を選ぶだろう。
私はここが好きだ。仕事内容も、ここの人間も。
私はずっとここで働いていくつもりであったのだが、しかしそれは100枚の広告を運んだ時に清史郎と出会ったことで叶わなくなる。
私は清史郎と出会ったことで、人生がUターンをする。そう、逆戻り。
とりあえず今はそこまで語っておこう。次に語るのは、私の中学校生活から高校生になるまでのこと。
4
私がいじめられなくなった後も、私は絵を描き続けた。世界がそれを求める、それに対して私は嬉しい気持ちしか持てなくてプレッシャーなど微塵も無かった。
いじめが無くなったことで私の生活は平坦なものになり、それはそのまま悲劇的だった絵の内容をシュールなものへと変えた。今思えばその頃の絵が一番私らしさが出ていたのだと思う、平坦な日々には色が無く私の個性しか絵に移動させられなかった。その結果、絵がシュルレアリズムになったと高く評価されたのは、私自身がシュールな変わり者だからだ。そして私の個性は人に受け入れやすいのだろう。
そんなシュルレアリズムな絵の世界は中学3年生になるまで続いた。
私の絵が世界的に評価される。つまり私の絵は商品にもなり、爆発的に売れた。私の家庭は私の成長速度と共に、しかしかなり駆け足で裕福になっていった。
嫉妬されるのは私だけではなくなったのが、私が中学3年生になった頃で、嫉妬の対象は私の存在に味を占めた両親にも向けられた。嫉妬をする人間は私の同級生の中の一部の親や近所の特定の人間からだった。両親は直接の自分の成果ではないものに対して自分の成果みたく語り天狗になっていたので、因果応報でもあるだろう。私は今ではそう思うが、当時は私のせいで家庭に嫌がらせの手紙が届くなど悲劇が生まれている、と捉え、私の絵は再び悲劇的な作品となっていった。私の絵はより深く、より悲しいものとなりそれは世間に大いに受けて、結果、私の絵の評価は更に跳ね上がった。
私は絵の天才のまま中学生活を終え、高校生となった。
5
次は私の仕事内容について語ろう。
私の広報部での役割は会社のウェブサイトの更新をメインにその他に細かい仕事が諸々。
私の立場は広報部長の次に偉かったのかな。私は入れ替わりの激しいこの会社の広報部の人間の中で2番目に長く勤めている人間であり、4年前に入社した大卒の広報部長よりもここでの経験年数は長いのだ。年齢は広報部長の方が上だが。
そんな感じだ。
私の仕事は重要ではないので、そんなに細かくは語らない。それよりも重要なのは清史郎についてだ。なので次にそれを語る。
6
「お疲れ様です。また会いましたね」会社帰りに会社の駐車場で清史郎は私に笑顔を向けてそう挨拶をした。
「ああ、お疲れ様です、もう帰りなんですか?」そう私は質問をした。
「ええ、今日は仕事が順調に進んだので、定時で帰れます」
ちなみに今は6時過ぎでこの会社のいくつかの部署の帰る時間である。
「社長の息子なのにね」私は少し悪戯っぽいことを言った。
「はい、そうですね、こんな身分のためこの時間に帰るのは珍しいです、大抵夜深い時間にしか帰れないので」
そう、清史郎はまだ入りたての人間だが、26歳でこの会社の社長の一人息子だ。
清史郎は初対面では立場の上の人間だと気付かないほど、物腰が柔らかく上品で、横柄だったり偉そうにしていない。いや反対にその落ち着いた印象で高い地位の人間だと気付かれる場合もあるかもしれないが。とにかく私は正直、清史郎という人間のことを教えてもらうまでは清史郎を中途採用された高卒の新人くらいにしか思ってなかった。
清史郎の立場を知ってから見るとエリートに見えてくるのは何故だろう。人の脳はそういう風に出来ているのか。それは今でもわからない。
「今日は早く帰れて嬉しいですか」と私は聞いた。
「うーん、だけど仕事は楽しいですからね、帰宅が早くても遅くてもどっちにしろ違う意味で嬉しいですね」
その時の私は、この人は考え方がとてつもなくエリートだ、と頭の中で苦笑した。そしてこの人の仕事内容も知らないが、この人は仕事の鬼なのかもしれないと思った。
えっと確か働いている部署は経理部だったかな、そう聞いたような、違うような、どうだったっけ。そう考えながら私は「珍しいですね、大抵の人は早く帰りたいと言うのに」と返した。
「僕は変わり者なんですよ」と清史郎は口に手の甲を当てて微笑むような、感情を表に出さないよう意識しているように見える笑顔を見せる。
その時、私はこの人のことが人間的に好きだな、と感じた。
「配属先はどこなんですか」
「経理部です。一応経理部長を任されています、だけど今はまだわからないことが多くて困ってます」
「若く見えるのに経理部長ですか……頭が良いんですね」
「そんなことないですよ」清史郎は笑顔の中に少しだけ笑顔とは繋がらないはずの感情を混じらせていた。
悪いことを言ったかな、と私は思い、その後何を思ったのか、私は清史郎に「私、もっとあなたのことが聞きたくなってきました、もし良かったら今日一緒にご飯でもどうですか」と聞いたのだ。
私はすぐに、しまった、絶対に断られると思い身構えたが、清史郎はあっさり「僕も不思議と同じ気持ちです。……はは、すみません、僕は本当に変わっていますね。いいですよ、是非ご一緒させて下さい」と返してきた。
それから私は清史郎と一緒に会社の近くのレストランへ入った。移動中に乗った清史郎の、白く大きい車の中は良い香りがした。
レストランに入った私達は食事をしながら会話をした。
この時の会話は今となってはほとんど覚えていないが、1つだけ忘れられない言葉を清史郎に言われた。
その言葉が私の人生の逆行の始まりなのだ。
話が盛り上がって互いの距離感が近くなってきた時に清史郎は私にこう言った。
「実は僕、あなたの描いた作品全部持っているんですよ、本音を言うともっとあなたの絵を見たかったです」
絵を捨てて手堅く生きる決意を固めていた私にとってその言葉は残酷すぎた。
そして、私は清史郎の期待に応えたいと思ってしまい、その日清史郎と別れた後に、キャンバスと絵の具一式を購入して、ずっと家に眠らせていた、全盛期にずっと使っていた筆を再び手に取ってしまったのだ。
私の人生はこうも簡単に絵を取り戻すことになった。
……反対に次は絵をやめることを決意した高校時代の話をする。
今思えば私の人生の中で一番下らない時期だ。
私は絵描きとしての自分を貫くよりも、青春を謳歌する2人の姉に憧れる気持ちの方が強くなったのだ。
今からそれを詳しく語る。
7
私の姉の長女も次女も派手過ぎず地味過ぎず世間的に受け入れられやすい性格をしていて、友達がたくさんいて簡単に彼氏を作って大人になったら2人ともすぐに嫁入りした。
私はずっとそういう青春を楽しむ生活に憧れている気持ちがあり、それは思春期まっただ中の高校生の時に絵を捨てる決意をするほど強くなってしまった。
私の絵はアートの世界で全盛期よりは落ち着いていたがまだ根強い人気を保っていた。しかし私は絵を描くのをばったりやめ、それは両親やあらゆる企業の人間に怒られる結果となったが、私は意見を譲らなかった。一般的に楽しく生きたいという一時の感情で絵を捨てた。
その決意をした高校一年生の終わりに私はアルバイトを始めた。近所の書店でレジを打った。
視力は悪くないのでそれまで裸眼で生きてきたが、職場の雰囲気に合わせようと思い私は伊達眼鏡をかけることにした。眼鏡がいやにしっくりきたのでそれは就職して広報部で働き始めてからも続いた。
アルバイトをしている内にそれまで個性的で性格で目立っていた私はどんどんと大人しくなっていき社会というものに合わせるようになっていった。
こういう生き方が正しいのだろうと私は思いそのまま就職するまで書店のアルバイトを続けて社会性を身に付けていった。
私が絵を描くのをやめて家は前ほど裕福ではなくなったので、両親とは確執が生まれそれは結局元通りになることはなかった。
私は高校卒業をして家を出た。就職してからはアパートに一人暮らしをした。その時に絵を描く道具はほとんど処分したのだが唯一絵を描くのに使っていた筆だけは持っていった。
高校生活はそんな感じだ。
次で私の人生の終わりを語る。この言葉の意味も同時に語ることになる。
どうか最後まで聞いてくれ。
8
再び絵を描き始めた私は出来上がった絵を清史郎に見せた。
清史郎には絶賛され、その絵は世に出さないと駄目だとまで言われた。
時間は残されていないと思うので、結論を言うと、私の絵はもう世間に通用しなかった。
全盛期に世話になった会社に絵を持ち込んだが、一度裏切った私の絵を大きく売り出すことはしてもらえず、それ以前に私の絵はとてもつまらないものになっていたのだろう、結果、私の絵は世間に受け入れてもらえなかった。
そして広報部での私は大人しくいられなくなり、急に個性的な人間に戻り、仕事もこなせなくなり仕事仲間からは冷たい目で見られることとなった。
そう、私は中途半端なことをしたために個性的で天才の私と、一般的で社会に通用する私と、同時に2つの自分の未来、いや可能性を潰してしまったのだ。
喪失に包まれる中、私には清史郎しか残らなかった。そして私は自殺を決意する。
そして私の人生の最後、私に絵を描かせたことに罪悪感を抱いた清史郎は、私の自殺するという決意を聞いて、なら僕も一緒に逝きますよと答えた。
私と清史郎は私の部屋でお互いにナイフを手にして向かい合い、それをお互いの胸に突き刺した。
今これを語っている私は走馬燈という体験をしているのだろう、それを語るという手段で見知らぬ誰かに伝えているのだからやっぱり私は変わっている。
私は意識が微かに残っている状態で苦しげに清史郎を見ると清史郎の方はとっくに目を閉じて表情は満足そうに微笑んでいるようにも見えるが間違いなく死人のそれとなっていた。
この部屋でまだ生きているのは私だけ、しかしもう動くことも出来ない。間もなく意識も無くなるだろう。こうして一般的な顔を持っていた二人の風変わりな方法の心中は成功したのだ。
私の人生はこんな感じだ。そうこんな感じで終わっていく。
良い人生だったのかはわからない、救いがあるとすれば語り継がれるものを残せたことくらいだろう。
死ぬ間際になって、私の心中には絵を描きたいという感情が溢れてきた。
しかしもう遅い、私は死ぬのだ、もう死ぬのだ。
さよな……。
9
ここはどこだ。
見馴れた木造の天井が見える。
私も馬鹿ではない、そしてわかっているのにわからないふりもしない、そんな演技はしない。
ここは私の実家だ。
あの心中の後にここにいるということは私は生きているということだ。
胸の痛みは無い、体は動いたので、右手で清史郎に刺された部分をさすると傷痕らしきものが存在した。
それにより間違いなく私は生きているという実感を得た。
次に頭に浮かんだのは、そうか、死ねなかったのか、ならこれからはどう生きればいいのだ、という死ねなかったことに対する後悔だった。
絶望の心中とは別に、近くから明るい声が聞こえた。
それは私の母親が私の姉達と父親の名を呼ぶ声だった。
その声は元気だった。状況がわからない、私がこんな状態なのに出せるような元気の良さでは無いように感じる。母親にとって今の私はそれくらいの価値なのか、と私は諦めの気持ちを抱いた。
だが、それは私の見当違いだった。
母親は家族を呼んだ後に、こう言った。
「今高嶺の部屋から動く音がしたわよ」
……母親は私を見捨ててはいなかったらしい。私は馬鹿か、もし見捨てているならそもそも家に私を連れてくるわけが無いだろう。
そんなこともわからずに何を一人絶望に満ちているのだ。
私の価値は知らないが少なくても名前負けする程でもないということか。
現に家族が私の為に集まってくれているではないか、私は絶対的に幸せ者なのだろう。変わり者よりも馬鹿者よりもそれ以上に幸せ者だ。
過去のことは語ったが、これから先の未来のことはわからない。だが、家族と仲良く生きていけれたらいいな、と私は願った。
私の語りは以上だ。
もう幕が閉じる頃だろう。
なので最後に、心中した直後には言えなかった言葉を言っておく。
さよなら。
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