kiss. 9

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◆  午前中の静けさは嘘だったかの様に、午後は定期検診、予防接種と急患が続いた。 最後の急患はリクガメだった。異物を飲みこんだとの事で、電話連絡もない飛び込みの受診だった。父が処置室で対応したが、カメの口の力は意外と強く、四肢の反応も乏しくなっていたので、急遽、頭側の甲羅に少し切れ目を入れて頭を出し、無理やり口を開けて、異物を取り除いた。異物はどうやら観葉植物のフェイクらしく、家でのリクガメを散歩させるときには視界に口に入れる恐れのあるものは置かない様に、と指導をした。 高校生から中学生ぐらいの三兄弟とその父親と思しき男性は一命をとりとめたリクガメを見て安堵していた。  甲羅の年齢にして齢30近く、手足も綺麗で、甲羅に汚れもなく、大事にされている様子だった。 「良かった、カメ子が助かって……、先生ありがとうございます」 三兄弟のうち、1番幼い男の子がそう言って、カメの甲羅を撫でた。 「カメ子って名前なんだ。可愛いね……うちの子はリクって言うんだ」 わたしがそう言うと、先生もカメ飼ってるんですね、と笑った。 「うん、でも、カメなんだね。この子、オスだけど」 「「「え?」」」 三兄弟が同時に振り返った。 「えっと、この子」 わたしはカメ子を持ち上げた。腹側の甲羅を見せると手足をバタバタと動かしていたが、無駄だと分かると引っ込めてしまった。 「これ分かる? カメの尻尾なんだけど」 三兄弟は食い入る様にカメを見ている。 「この尻尾、長いでしょ? メスは生殖器がないから、尻尾が短いのよ。でも、オスはあるから尻尾が長く伸びて、生殖器を避ける様についてるの。だから、このカメ子はオス」 三兄弟はまさか、と言う顔でお互いの顔を見合わせた。 「おい、イチロー、お前がカメ子って言い出しただろ?」 「違うよ、ジローにいちゃんだよ」 「いや、サブローがカメ子が良いって言った」 口々に話す兄弟を父親は「まあまあ、どっちでも良いよ」と笑った。 「そうですね。とりあえず室内の散歩の時は通常の観葉植物でもお腹を壊す子もいますので、注意してください。カメの性別は10歳ぐらいにならないと分からないので、まぁ、カメ子でも良いですね。可愛いですし。30歳までこんなに元気で綺麗に手入れされたリクガメは珍しいです。大事にしてるんですね」 「はい、家族ですから」 父親はそう返事して、笑った。  4人は何度もお礼を言って病院から去った。 「あんなに大事にしてくれる家族にめぐりあえるのは幸せだねぇ。今日の処置は悲劇だったけど」 父は白衣を脱ぎ、肩を回した。眉間にややシワが寄っている。  時計の時刻は夜の20時を過ぎていた。  急患が来る前に陽一郎に連絡を入れてはいたが、拓未には連絡していなかった。ロッカーから携帯を取り出す。 「おとは先生、お疲れ様です」 戸川さんもスクラブから私服に着替えている。 「お疲れ様、遅くまでありがとう。着替えた後の時間で残業時間、超過勤務カードに書いといてね」 「あ、すみません。そこまで配慮してもらって。分かりました」 彼女は着替えて、処置室の裏のパソコン横のファイルに時間を記入した。 「お疲れ様です」 「お疲れ様〜」 返事をして、わたしも着替えを済ませ、病院のロビーに出た。父が白衣を膝に置いて、コーヒーを飲んでいる。 「お父さん、まだ帰らないの?」 「うん、このコーヒーを飲んでから帰るよ。お疲れ様」 「うん、お疲れ様」 返事をして、病院を後にした。
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