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例年より平均気温は高く、今年は暖冬だとアナウンサーは告げた。動物病院内のテレビの時刻は12時過ぎ。正午のニュースをお伝えしますーーと、内容が切り替わった。持っていたコーヒーを口に運ぶ。診察室から、父が出てきた。手にはマグコップを持っている。病院のロビーは診察の予定者もおらず閑散としている。
「暇なのはいい事なのか、悪い事なのか」
わたしが漏らすと父は、ははは、とテレビを見ながら、いい事だよ、と言った。笑った瞬間に目尻に皺ができた。陽一郎も歳をとったらこんな感じになるのかな。
2人はよく似ている。
ロビーのソファ、隣に父が腰掛けた。思い出したように声をあげる。
「正月は陽一郎も、おとはもあんまり実家にいなかったなぁ。母さんと2人で寝正月だったよ」
「そう言われれば、お父さん、顔の周りに肉が増えたんじゃない?」
覗き込むと、はは、と笑った。
「そんなに短期間で太るもんかい? 餅は毎日食べたけどなぁ」
「え? 毎日? 食べ過ぎじゃない?」
「ほら、お前たちが来ないから、消費できないって母さんと一緒に食べてたんだよ」
「篠原先生〜」
戸川さんの声に振り返る。彼女はピンクのスクラブにコートを羽織っていた。
「篠原先生、おとは先生、ちょっと外に出てきます。ついでに何か買ってきますけど、要るものありますか?」
「要るもの……」
戸川さんに言われ、昼食の準備はしてきたから、と思考を巡らせていると、昨日の拓未とのやり取りを思い出した。買い物に行くと言って中々部屋から出て行かない彼。挙句に部屋から出ようとしたら、またベットに戻ってきた。
「おとは先生、なんか嬉しそう……、幸せそうですね。お正月いい事あったんですか?」
「……戸川さん、鋭いね」
「わ〜! 私にも幸せ分けて下さいよ! お正月なんて、地元で初詣に行ったら、元彼が嫁と子供と居たんですよ。なんなんですか、私、何か悪いことしましたか? ありえへんやんか」
「ちょ、ちょっと、戸川さん……」
「あ、すみません。また取り乱しました。友達とヤケ酒しましたけど、まだめっちゃ腹立ってて」
「分かった。じゃあ、わたしと一緒に外行こう」
わたしはコーヒーのコップを父に押し付け、立ち上がった。
「お父さん、ちょっと行ってくる」
「はい、気をつけるんだよ」
コートを羽織って、外に出た。正月明けの空気はのんびりとしている。電車の加速時のように徐々に正月の休みから平日の通常運転にスピードを上げていく感じ。
みんな少し気が緩んでるのか、暖冬の緩みが人の気持ちを緩ませるのか、どちらがどう作用しているのかはわからないが、忙しない年末とは異なり、街を行き交う人もまだ本調子ではない。
「今日はあったかいですね〜」
「本当、お正月も暖かかったね。実家でゆっくりできた?」
「いや、聞いて下さいよ。その実家で、妹が彼氏を連れてきて」
「……妹さん、いくつ?」
「20歳です」
「20歳……」
わたしの10歳以上、下。
「で、その妹の彼氏がIT企業に務めるエリートだったんです。高給取り。しかも、穏やかな性格で人好きするタイプ。角がないっていうか、なんていうか。相手は25歳で、私の方が歳が近くて。最後は私と彼を比べる話になって…で家に居ずらくなって、外に出たんです。で、初詣に行ったら、元彼が家族とわきあいあい。新年早々、ありえへんってなりません?」
「……そ、それは、なんて言うか、居心地悪いね」
「そうでしょ? 分かってくれますか? おとは先生は、そういえばあの鳥羽さんとはどうなったんですか?」
鳥羽祐一は仕事納めの日、関係を清算するデートがうやむやになったことを残念がっていたが、もうデートや関係を強要するような言葉を発しなかった。
彼はその後、1回だけ電話をかけてきた。大晦日の日、拓未がマンションから帰った後だった。
ーー『デートが流れたのは残念だったけど』
鳥羽祐一はあっさりとした口調だった。
『篠原さんが人に大人しく手を引かれるとは思わなかったから』
どう言う意味よ、と非難めいた口調で聞き返すと彼は小さく笑った。
『だって、あれだけ職場に行ったり、連絡しても憮然とした、コントロールされる事が嫌いな女が、突然、現れた男に抵抗もせずついて行くって、かなりショックだよ』
電話の向こうの声は無理やりの明るい声。
『あ、自分を素直に出せる人が篠原さんにはもう居たんだって思うと、やけに冷静になった。大人しく田舎へ帰ろうか、………って言いながら、篠原さんにもう一度デートやり直さないか、なんて言われないか、期待してる自分も居るんだけどね』
最後の言葉にわたしは笑ってしまった。そう言うの言っちゃう人なんだ。
『ほら、男の情けないところが好きって言うパターンもあるかな、と思って』
『それは、ないよ。わたしもう決めたから』
『そう……、じゃあ、僕はおよびじゃないね』
『うん、振り回してごめんなさい』
わたしの言葉を聞いて、彼は、う、と声を詰まらせた。
『……ずるいなぁ。最後まで篠原さんはずるい。素直じゃない子のごめんなさいって許す以外の選択が出来ない』
わたしが返事をしないでいると、鳥羽は沈黙の後に静かに言った。
『さようなら、ピヨりんは責任持ってずっと一緒にいるから心配しないで』
わたしの返事を聞く前に彼は電話を切った。
「鳥羽さんはもう田舎に帰ったよ」
戸川さんにそう告げると彼女は目を見開いた。
「え? おとは先生、そんなに再起不能にしたんですか?」
「再起不能……、違うよ。戸川さん時々、言葉が容赦ないね」
わたしが笑うと、彼女も一緒に笑った。
街路樹の飾り気のない枝の間を、木漏れ日が通り過ぎ、歩道に影だけ残す。昼の短い影を見ながら、コンビニを目差した。
「元々、実家から呼ばれてたんだって」
「鳥羽さんご実家どちらなんですか?」
「九州……だったかな? 覚えてないけど」
「あ〜、だからちょっと強引だったんですかね?」
「関係あるかな? 言葉は標準語でそんなに方言がなかったから、どことか気にしたことはなかったけど」
「あ〜、地方出身は標準語にコンプレックスありますからね。私もこっちではツッコミ我慢してます。ボケてもみんな、ふぅん、ですし」
「そうなんだ。わたしはずっと同じ町で育って、大学は県外に出たけど、隣だからそこまで遠くってわけじゃなかったし……」
緑くんが世界中飛び回っていたから、わたしは彼の写真で外の世界の空気を感じ、満足していたのかもしれない。
「そ、れ、よ、り、も!」
戸川さんは急にわたし顔を覗き込んだ。
「幸せそうな、理由を教えてください」
「……恋人が、出来たの」
恋人。なんて、響きが悲しく聞こえない、自分の発した声が弾んでいたのに僅かながら驚いた。
「えー! いいなぁ! どんな人ですか? 優しいですか? 何してる人?」
「ちょっと、戸川さん声大きいよ」
コンビニに入ってちょっとしたお菓子と飲み物を買った。
「せっかくだから、遠回りして帰る?」
「おとは先生、お弁当まだじゃなかったですか? いいんですか?」
「天気がいいし、暖かいし、そんなに人も多くないし」
自分で言いながら、戸川さんに言いたいだけの素直になれない自分を笑う。
「とか言って、おとは先生、病院の中じゃ、篠原先生がいるから口に出せないですよね、恋人の事。だから、この道の裏。住宅街に赤いベンチがある公園があるんです。そこ行きましょう。休憩時間まだありますし」
彼女はコンビニの袋を持って、向きを変えた。
1つに結われた黒髪が尻尾のように揺れ、ブラウンのアイラインを引いた、流し目彼女の魅力的なお誘い。
「うん、そうしよっか」
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