kiss. 9

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◆  八宝菜を作り直すと、拓未も陽一郎もあっと言う間に食べてしまった。2人は食べた後に、もうないのか、と聞くので、仕方なくスープを作る事を提案した。 「あ、俺もそのスープいる」 陽一郎がスマホを見ながら頷く。  中華スープは鶏ガラ、黒胡椒、卵をかきたま風にして、乾燥ワカメを少し入れた。  拓未は立ち上がって、水槽とケースを順番にのぞいている。口には出さないけれど、彼はハムが気になる様子。覗き込んでは居ないとがっかりし、口に何か入れている瞬間には目を離さない。 分かりやすくて笑ってしまう。 「これ、ウサギ?」 拓未は足元にあるゲージを指差した。 「それは、チンチラ。ウサギじゃなくてネズミの仲間。よく似てるけど違うよ。ウサギより賢いし、寿命も長い。高価だしね。その子はもうだいぶ元気だから、明日、店に返す」 わたしが返事をすると彼は座って、ゲージの中を凝視していた。耳のない白っぽい体をしたウサギ。ぴょこんと乗ったようの耳と尻尾はグレー。 「店に返す?」 拓未はわたしを見た。 「そう、その子はペットショップの子。病院に置いてても良かったけど、ちょっと経過も見たかったから1ヶ月ちょっと長い間家で見てたの。だいぶ元気になったね。元気になったら、さよなら」  胃腸障害があり、便秘と下痢、食欲不振を繰り返していた。最初は動物病院の中で診ていたが、繊細なのか、夜中にいつも下痢と嘔吐があり、環境が悪いのかと考え、自宅に連れ帰って来た。本当は家で診ると愛着が湧いて、うちの子扱いになってしまうから、避けたかったけれど、環境を変えると3日で原因不明だった下痢と嘔吐は収まり、食欲は回復した。  しかし、原因がわからないので定期的にレントゲンを取ったり、睡眠サイクルを観察するうちに1ヶ月経ってしまった。もう後1週間ぐらい診てもいいけれど、ショップも年始で仕事を開始したので、そろそろ引き取りはどうか、との打診があった。  明日、出勤時に病院に連れて行き、ショップのスタッフが迎えにくる手続きとなっている。 「なんか、寂しいな。元気になるのは嬉しいけど」 拓未はわたしの気持ち代弁した。 「チンチラは貴重で人気だから大事にしてくれる飼い主に当たる可能性も高いし。そんな人と一緒に住めばいい。元気なら、近くに居なくていいのよ」 それは願いにも近く、自分に言い聞かせる言葉。 「……おとはのその自論、やっぱり屈折してるよな〜。俺はそれが無理だから獣医にはなれない」 「陽一郎、あんた、なれないって言ってるけど、動物より太陽とか星とかの方に興味持ってたじゃない。なれないじゃなくて、興味なかったんでしょ」 「おとはだって人に興味なかっただけじゃん」  確かにね。 興味なかったよ。どうだってよかった。けど、今は違う。 「今は人にちゃんと興味あるよ。拓未がいるでしょ」 拓未を見ると彼は心配そうに陽一郎とわたしの顔を交互に見た。 「律を巻き込むなよ。どうせペットの延長線上だろ? 緑くんが居なくなってから、待ってるって言って、後腐れなさそうな男ばっかりと適当に遊びで付き合って、相手が飽きる前に飽きての繰り返しで、男ナメるなよって俺、何度も言ったよな」 もう清算したのよ、それに拓未は最初から違う。 「拓未は違う」 否定して、陽一郎を睨む。 「拓未は元気になっても、誰にもあげない」 ペットじゃないけど、人科のオスだけど、あげないのよ。だって、彼はわたしと一緒に居たいって言ったから。居なくならないって約束したらから。誰にもあげない。  ムキになったわたしを見て、拓未は笑った。声をあげて笑っている。 「………まぁ、律が笑ってるからいいけど。おとは、律に感謝しろよ。お前みたいなひねくれた30過ぎの女なんて相手にされないんだからな」 陽一郎は納得がいかない表情を浮かべた。陽一郎は完全に拓未の味方だ。 わたしが完全に悪者。なんでよ。 横を見ると拓未はまだ笑っていた。 「拓未、笑いすぎじゃない?」 拓未は、やべっと表情を変えて、立ち上がって、キッチンに立つわたしの横に来た。 「それも含めて、全部が可愛いと思ってる」  耳元に口を寄せて低い声で囁く。鼓膜を震わす甘い声。  パッと耳を押さえて拓未から距離を取る。拓未は楽しそうに瞳を揺らして、薄く笑っている。 やだ、その目。わたしの反応を楽しむ顔。でも、そんな視線を向けられている自分も嫌ではない事にますます嫌になる。 「何度もそれ言うの、やめてよ」 仕方なく、彼を見上げる。同じ部屋に弟がいるんだけど、避難したい非難の意味を込めて。 「あの〜、お2人さん〜、今度は目で会話しないでください。俺は、どうしたらいいですか〜、外に出ましょうか〜」 陽一郎の声に、拓未は吹き出した様に笑った。 「俺の家じゃないんだから、陽一郎は居ろよ。スープ飲んだら、ゲームしよう」 拓未は陽一郎の隣に向かった。横に座る。  なんでいちいち、そんな近くに座るの? 仲良すぎじゃない?   ムッとしている自分に気づいて笑ってしまう。2人は肩を寄せて何かを話始 めた。あっちの2人の方がよっぽど仲のいい兄弟に見える。  手元の視線を鍋に移し、かき混ぜた卵をスープに入れた。  片手鍋の中で勢いよく菜箸を動かす。液体の中で攪拌された黄色味が徐々に薄くなる。人の記憶も感情もこうやって生卵から形を変えて、スープに混ざり合って、飲み込んでしまえばなかった事になるのにな、と思うけど、でも食べた事実は残っている。  器を2つ出してつぎ分ける。  食べた食材は血肉となって、体を巡る。エネルギーになる。  人との思い出もきっとそういうもの。 段々と混ざり合って、過ぎてしまった後に気づく。あの出来事は優しかったのか、悲しかったのか。  器に入れて客観視して、飲み込んでしまえばきっとそれは自分のエネルギーに変えられた時。  器を持って、2人の背中をぼうっと見つめる。  拓未が今ここに居なかったらわたしはきっとこんな気持ちでスープは飲めない。陽一郎も笑ってはいない。  2人の元にスープを持って近づく。 「陽一郎は変わんねぇな。朗らかっつーか、人が集まるタイプっつーか、悪意がないって言うか」 「それ褒めてる?」 「いや、褒めてるよ。俺には無理だなって。賑やかで朗らかで、人が集まる。みんな陽一郎と仲良くなりたいんだろうなって思ってた」 陽一郎が照れたように頭をかいた。 「………あんたたち、ほんとに仲良いね。拓未、ご飯食べに来て、陽一郎に会いに来てるみたい」 ため息をつきながら、器を差し出すと拓未が受け取って机に置いた。 「俺がここに来るのはお前に会いたいからって何度も言ってる。中々、伝わらないな、この鈍感ひねくれ女め」 ひねくれぇ?  それがいいって言ったのは拓未なのに、と目を見開く。 「拓未、スープあげないよ?」 腕を組んで拓未を見上げると、うっ、と小さなダメージを受けた様な表情を浮かべた。 「……それは困る、おとはの飯楽しみにしてたのに」 拓未はわたしの腕を持った。 「もうおとはの飯以外、美味いと思えないし、食いたいとも思えないから食べてって言ってよ」 「いや、だって、ひねくれ女とか言ったし、なんか、いつも、陽一郎、と、楽し、そうだし……」 すぐに陽一郎のところに行っちゃうし。ってバカみたいな乙女思考に腹が立つ。けど、素直にそんな事言えない。 「………もうお前らさっさと結婚しろ…」 陽一郎は心底呆れた顔を浮かべて、ため息をついた。
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