kiss. 9

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◆  わたしが知っている、山郷緑、という人間は本当に自然と動物が好きだった。幼い頃から自然の中で野山を駆け回って、山では虫、蛇、狐、狸を平気で追い回し、川では魚を釣って過ごしていた、らしい。   本人が言う事なので、本当かどうかは分からないけれど、わたしはその話を信じている。中学生の頃には、もうドキュメンタリーのテレビで遠い海の向こうのサバンナに憧れを抱いていた、と言っていた。  高校は県下の有名な進学校に進んだが、勉強はそこそこに写真部に入って空と動物の写真ばかり撮っていた。何作品か賞を貰ったらしいが彼はそんな賞に興味はなく、わたしには動物の生態や天候の美しさばかりを語っていた。  日本写真芸術専門学校に進学し、有名な風景写真家、武内誠氏の師事を受け、フリーになった。武内さんがわたしの通っていた大学の教授と知り合いで、講演の話が緑くんに行き、獣医学部での公演が開催される運びになった。   最初、彼は講義をするのを渋っていた。まず口下手で人前で話すどころか写真ばっかり撮っていた彼は、話をしても聞き取りにくい掠れた声だった。しかし、自分の師が依頼を受けたと言う事で、断るに断れず、講義をした、とあとで言っていた。この内容もわたしが聞き出さないと一生知らないままだったかもしれない。  講義の後に講堂から出た彼の背中を追いかけて、わたしは緑くんの連絡先を聞いた。彼は眉を寄せて「なぜ、君に連絡先を教える必要が?」と、講義では発揮されなかった聞き取りやすい口調で、思わず笑ってしまった。  あとは4回にわたる臨時講義の度にわたしが付きまとうので根負けして連絡先を教えてくれた。 『僕は写真と動物が1番だから』 これは彼の口癖だった。 それでも良かった。そう言うと彼は特に何も言わなかった。 『写真をどうやって撮るの?』 そう聞いたことがある。 『サバンナにテントを張って、危険を承知で撮る』 『危険じゃない? 野生動物に襲われたりしない?』 『危険は承知。大自然の中では人も動物も(かす)かな存在だよ』 彼はそう言って笑っていた。  緑くんはサバンナの環境を深くは語らなかった。けれど、わたしは勝手に熱く乾いた厳しい場所で降り注ぐ太陽も肌を刺すような環境なのだろうな、と思っていた。  日本を旅立つ日。碧斗さんと空港で会った時、緑くんが立っているのかと思った。  彼を見送った空港で結婚の約束をした。 その約束をした場所で、彼によく似た人と骨になった彼を迎えに行く。荷物と重い気持ちを引きずって、それでも前に進まないと。  わたしは拓未に自分の気持ちを話すと約束をした。約束を破られる人間の気持ちはよく分かる。当てにしてないようで、その約束を一生の支えにして生きていく人間だっている。  約束なんていらない、と言いながら人はその約束を一生大事に持っている。  わたしも持っている。 「篠原おとはちゃん、だよね?」 緑くんとよく似た掠れた声で碧斗さんはわたしの名前を呼んだ。 「はい、よろしくおねがします」 「こちらこそ。緑から話は聞いてたよ」 「え?」 「聞いてない? 帰ってきたら結婚するからって言ってた」 「……そ、う、なんですか?」 「あれ? プロポーズしたって言ってたけど」 「言われました。けど……」 「そうだね。嘘つきだね」  碧斗さんは緑くんと似た顔で笑って、わたしは思わず泣きそうになった。黒髪の短髪は切り揃っており、顔は陽に焼けている。効率だけ考えたオシャレでもなんでもない髪型。でも、左の薬指には指輪。節くれだった指の関節までそっくり。 「そうです、緑くんは嘘つきです。大嘘付きです」 碧斗さんは緑くんがしなかった苦々しい表情を浮かべて、搭乗フロントへと向かった。
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