kiss. 10

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 渡されていた双眼鏡を覗く。  ドライバーと碧斗さんが何かを話していたが、わたしの視線は先のチーターに目が吸い寄せられた。  飢えた眼をしている。チーターなんて動物園以外では見た事はない。獣医学部の知識では座学がメインで、触った事など実習で撫でる程度だった。  細かいチーターの個別差は分からないが、その子の視線の先には茶色の角が2本生えた動物が草を食べていた。 「草食動物はトピと言う牛の仲間。あのチーターは狩をするんじゃないかなって」 「そうなんですか」 あの子から視線が外せなかった。  チーターは腹部が(えぐ)られたように凹んでおり、ただ獲物を見据えていた。  よく観察すると茂みに隠れているのは1匹だけではなかった。4頭のチーターが皆一様に同じトピを、同じ眼で見ていた。  円陣のようなフォーメイションでポツンと草を食べるトピに、チーター達は近寄っている。 「あの4匹は兄弟みたい。チームで狩をする瞬間が見られるかもしれない」  碧斗さんが発した言葉が終わると、1番先頭のチーターが、一瞬、歩くのを止めた。 じっと獲物を見つめ、走り出し、一気に加速した。  気が付いたトピが逃げ出したけれど、時すでに遅く、チーターは300メートルほど追いかけて飛び掛かり、弱点である喉元に噛み付いた。  トピはチーターよりもふた回り程度体が大きく、簡単には倒れない。  息をするのも忘れ、真剣にその成り行きを追う。  次々にチーター達がトピの背中に飛びかかった。  3頭目、4頭目がトピの臀部に噛み付いた時、トピは横に倒れた。  首に1番最初に噛み付いた子はトピが動かなくなるまで、咥えた口を離さなかった。 「トピが窒息するまで、噛み付き続けるんだ…」 わたしの言葉にドライバーが反応して英語を返した。 「狩が成功してもハイエナに横取りされるから、他のチーターはもう食べ始めてるってさ」  空腹なチーターが、獲物に向かって走る様には息を呑んだ。 「まさに弱肉強食だね。緑はこんなのばかり撮っていたな。だから、あいつは淡々としてた。当たり前みたいに命の奪い合いを見ていた」 「命の奪い合いを写真に撮ってましたね」 「地球は人間のものじゃないってね」 「緑くんの口癖ですね」 目の前で繰り広げられた動物の営みを日常と感じていた彼。 「……おとはちゃん、もう時間だよ。戻ろうね」 碧斗さんの声に頷いた。  車は発進し、わたしはもう一度、振り返った。  口の周りを赤黒く染めたチーター。トピを貪り喰う野生の肉食動物。生きるのに必死な動物だ。大型のネコ科の生き物。不意に拓未を思い出した。飢えた乾いた眼。鋭い眼で助けを拒絶していた彼は、本当は何よりも助けを求めていたのかもしれない。 「日本に帰りたいな……」  ここに、わたしと言う人間の居場所はない。  山郷緑が見ていた世界があっても、彼はもうここには居ない。  彼が見ていた世界は無情で、でも真実だった。人間が生きていく上で知っておかなければならない現実。知らないふりをしている人もいるけれど、紛れもない現実。人間は動物を殺してその命を食べて生きている。肉食動物は草食動物を食べている。草食動物は草を食べて生きている。食物連鎖の世界を彼は見ていた。その世界に人間が組み込まれているだけの事。      人が人を襲った。  緑くんはその波に飲まれてしまった。  無情な真実。  獰猛な人間に襲われた、というただそこにあるだけの真実。  乾いた風がわたしの頬をさらう。同じ風が草原を揺らし、波を打ったようにざわっと広がって行った。
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