kiss. 10

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◆  1月17日土曜日。日本に帰ってきたのだと実感したのは羽田空港で飛行機から降り、忘れかけていた冬の寒さが肌の熱を奪った瞬間だった。空港で行き交う人々は日本語を話していて、ああ、帰ってきた、と耳でも帰国を実感した。 「送るよ」 碧斗さんはそう言って、タクシーでわたしのマンションまで一緒に来てくれた。  拓未、陽一郎も、両親は怒っているだろうか。戸川さんにも心配をかけたかもしれない。派手なオレンジの包みに入った骨壷を見つめて、目頭が熱くなった。でも、ここでは泣けない。タクシーを降りて、見慣れた大理石調の床を抜け、エレベーターに乗り、碧斗さんと一緒に503号室に帰った。アフリカに行っていた、だなんて夢のように思えたけれど、オレンジ色が現実を突きつける。これは夢ではない、と。  玄関を開けると、陽一郎が部屋から飛び出してきた。 「おとはっ! お前、どこ行ってたんだよ! え、つーか誰? 緑くんに似てるけど……」 「山郷碧斗と言います。緑の双子の弟です。……陽一郎くんかな?」 「そうです、けど、えっと、緑くんは?」 「緑はここ」 碧斗さんは抱えていたオレンジの包みを指差した。 「え」 陽一郎は言葉を失ったように立ち尽くし、困惑した表情でわたしを見た。 「お、とは、いや、行くなら行くって言えよ! みんな心配するだろ。律なんて走り回ってたんだぞ。もっと人の気持ちをだなぁ、って俺も今はおとはの気持ちを考えるべきか……」 我が弟ながら本当に立ち回りが上手い。わたしが苦笑いを浮かべると、彼は碧斗さんをリビングに案内し、どこかに電話を掛け始めた。  碧斗さんは荷物の中から薄汚れたデジタルカメラを取り出した。シャッターは押されすぎて擦れて、銀色がくすみ、白くザラついている。 「これはおとはちゃんのものだから持っていて」  ローテーブルの上に置かれた短いレンズが付いたカメラを手に取る。デジタル一眼レフはずっしりと重い。さよならさえ言えない別れがこの世に存在するなんて、想像もしなかった。  ここでは泣けない。拓未が居ないと泣けない。  廊下で陽一郎の声がボソボソと聞こえた。カメラを置いて立ち上がり、廊下に向かった。 「おとは、帰ってきた」 陽一郎の電話先の相手は直感的に拓未だと分かった。 「………、一緒、……」 陽一郎が渋った声を出した時点で手を伸ばした。 「ちょ、おい、何だよ」 「貸して」 わたしはスマホを陽一郎から奪い取って、耳に当てた。 「おい、陽一郎、どうした、大丈夫か?」 拓未の心配そうな低い声。 「拓未?」 名前を呼んで、その響きに自分がずっとこの名前を呼びたかったのだと気が付いた。 「拓未でしょ?」 もう一度名前を呼んで、馬鹿みたいに名前をもう一度、呼ぼうとした。 「…………そ、う、だよ」 拓未は返事をした。  ……わたしアフリカに行ってきたよ。  ケニア共和国っていう人間が持っている水分を全部奪いそうな乾燥した地域に行ってきたのよ。何も言わずに行ってごめんね。緑くん連れて帰ってきたよ。でも、喋らないんだよ。息もしてないよ。変わり果てた姿になっていた。だけど、サバンナの草原の動物達はただ必死に生きていたよ。  全部聞いてほしい。わたしの感情を、わたしの想いを。さよならさえ言わせてもらえない。大嘘つきとも罵れない、そんな別れがあるんだよ、拓未。 「おとは、好きだ。会いたい」 拓未は絞り出したような声でそう言った。  わたしの居場所はここだと思った。アフリカでも、山郷緑を待つ空虚な場所でもなく、律川拓未という人間の隣。 「………うん、………ズッ」 返事をして、涙が溢れた。ああ、本当に帰ってきた。 「なんで、泣くんだよ。コケ野郎と一緒に帰って来たんだろ? 泣くなよ、笑えよっ!」 スマホの向こうで拓未は大声をあげていた。 「幸せになるんだろっ、約束が守られるんだから笑えって」 笑えないんだよ。 死んじゃったから。だから、拓未早く来て。 「今、どこ」 「………今、家」 「分かった、待ってろ」 電話は切れた。  陽一郎は呆れたような困ったような顔でわたしを見た。 「律には甘えるんだな。良かったな、おとは」 弟のくせに生意気。 「拓未はわたしのだからって言ったでしょ」 わたしの返事に陽一郎は、はいはい、と短く返事をした。表情は見えなかったけど、どんな顔をしているかは分かった。 「親父には俺が電話しとくから。まあ、親父はそこまで驚いてなかったけど、母さんは動揺してた。次期、帰ってくるって俺が言ったら、帰ってこなかったらどうするの、なんてひどい剣幕だったんだぞ。もう、おとはの尻拭いは勘弁」 「……ごめんね」 陽一郎はリビングに入って、驚いたような表情でわたしを見た。 「おとはが素直とか、もう怖いからやめてくれよ。謝ってるのとか生まれて初めて聞いたんだけど。こえーよ」
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