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引越し先のマンションは、レンガ調の外壁で20階建。かろうじてバリアフリーに対応しており、築年数は12年程。3階の南の角部屋は3LDKで部屋数も多く、一室が8畳以上あり空間にゆとりがあった。それは、ペットが多いわたしには願ってもみない好条件で、窓から入り込む自然光が多ければ多いほど、リク達には刺激になるため、魅力的だった。
拓未は物事をぐいぐい進める癖に、住む場所を決めるのには慎重だった。この部屋も即決出来るほどの好条件だったのにも関わらず、オートロックがないことに対して最後まで渋っていた。
ソファに座っていると腰が深く沈み、大きなお腹が胃を圧迫した。
拓未と結婚して、1年が経過した。子供も授かって、引越しもした。緑くんのカメラを持っていても、拓未は何も言わないし、聞かない。大量の動物の写真を持っていても、特にその事については何も言わなかった。
立ち上がり、窓を覗くとオレンジのマフラーを身につけた彼が見えた。冬の夜を切るように颯爽とマンションに向かって来ている。細身のロシアンブルーの髪の毛は目立つからすぐに見つける事ができた。空を見上げると夜空に白い粉雪が舞い降り始めた。どおりで寒いはずだ、とソファに戻って、残りの作業に取り掛かった。
水色の毛糸玉を引き出して、靴下を編む。編み図を見て、見よう見まねで始めたけれど、だいぶ形になって来た。
少し時間が経ち、玄関の扉が開く音がした。シロとチャイロが尻尾を振って出迎えに行った。
2匹の犬を従えて、拓未がリビングの扉を開けた。
「おい、おとは。この家はオートロックじゃないって言っただろ。玄関の鍵を締めろよ。不用心だろ」
彼はわたしを見て、不機嫌そうに声を上げた。
「あ、拓未、おかえり〜。今日、寒いね? 雪降ってたでしょ? マフラー暖かかったでしょ?」
オレンジ色のマフラーが拓未のイメージに合わないのに、丁寧に巻いて、鼻の先が少し赤くなっている。
「うん、マフラーサンキュ。雪は降ってる」
拓未はわたしの前にいたリクを持ち上げて、カーテンの隙間から外を覗いた。そのままリクの甲羅を撫でて、ゲージに入れた。
「調子はどう? 腰痛いって言ってたのマシになった?」
拓未はわたしを見た。
持っていた編み棒を置いて、お腹に触れた。
「うん、拓未が買って来てくれた腹巻きあったかいよ。あんなのどこで買ったの? しかもあれ、産後にも使えるんだね」
わたしが妊娠してから、拓未は自分が妊娠したかのように本を買い、勉強し出した。一体、何を目指しているのかと妊婦本人のわたしより、冷えがどうとか、葉酸がどうとか、つわりでも食べられる物はどうとか、最初はふむふむと聞いていたわたしでも、正直最近は口うるさい小姑のように感じていた。ありがたいんだけど、ちょっと過干渉って言うか、考えすぎと言うか。
そんな風に言ってくれる彼を見て嬉しい自分も居て、想像していなかった生活に少し戸惑っている部分もあるのかもしれない。
「妊婦は冷やしたらダメってちゃんと本に書いてただろ、読んだ? あの本」
拓未はリビングを見回して、ローテーブルの下の雑誌置き場から『妊娠、出産のすべて〜親への一歩〜』を取り出した。
目的のページを開いた彼はわたしに雑誌を差し出した。
「……ほら、ここ見ろ。助産師の人が冷えは大敵、赤ちゃんにもお母さんにもお腹の張りを強めて、出産時にもお産の妨げになりますって書いてるだろ。足首も冷やすなよ」
また、言ってる。
声を出して笑ってしまった。
「拓未が産むんじゃないでしょ」
「いや、そうだけど。妊娠中なんだから、体がしんどいだろ。ちょっとでも快適に子供もおとはも過ごせるように考えるだろ」
「拓未、ありがとう。お陰さまで快適です」
「……なら、いいけど。大事にしろよ。俺たちの子なんだから」
拓未は席を外し洗面所に向かった。
「……触っていい?」
横に座ってわたしを見た。いいよ、と返事をすると拓未は嬉しそうに笑った。
妊娠は8ヶ月のお腹は想像してたより大きい。拓未は恐る恐るお腹に触った。その触った場所に、お腹の中から返事をするように小さな衝撃があった。
「ちょ、い、いま、蹴った。わ、ヤバい、生きてる、すげっ」
拓未の反応に笑ってしまう。この胎動と24時間付き合っているわたしには珍しくともなんともないし、拓未も初めて触った訳ではないのに嬉々とした表情でわたしを見た。
「まだなれないの? 初めて動いたみたいな反応いつまでしてるのよ」
「だって、おとはは24時間一緒だろ? 俺は触った時しか分かんねぇんだから、感動するだろ。元気に大きくなれよ」
拓未はお腹に話しかけた。
「もう、また話しかけてるし。可笑しい」
「……おとはが言ったんだろ。相手が喋らなくても仲良くなりたかったら話しかけろって」
「……それ、いつの話? その本に載ってたの?」
「違う。お前が俺に話しかけたら仲良くなれるっつたんだろ」
そんな事言ったっけ?
動物に対してじゃなかった?
人も動物も一緒って拓未は受け取ったのかな。そうかもしれない。彼は一緒に住み始めてから、シロとチャイロとシマシマへ話しかけ、リクにも話しかけ、ハムに対しては特別愛情が深いのか、姿が見えないとゲージの中を探していた。
出会った頃の無愛想に鋭い目をしていた彼はもうどこにもいなかった。
「……あ、今日ね、碧斗さんから連絡があった」
「なんて?」
わたしが思い出した様に笑うと、
「何が可笑しいんだよ」と、拓未は不満そうな表情を浮かべた。
「だって、あの日、碧斗さんと緑くんを勘違いして、プロポーズした日の事、また碧斗さんに言われたから」
「………いや、もう、その話はいい」
拓未は軽く手を挙げ、振った。
その反応が面白くてまた笑ってしまった。顔を覗き込む。
「恥ずかしいの? みんな見てたもんね。陽一郎なんか、呆れ顔通り越して、最後は拍手してたもんね」
「だから、もういいって。言わなくて」
「……双子だし、緑くんに確かに雰囲気は似てるもんね。でも、会ったことない人を勝手に本人だと勘違いしたのは拓未だよ?」
「まぁ、一緒に帰ってきた緑くん本人は骨だったもんね………」
そしてカメラと手紙。最後の手紙。
手紙は写真と一緒に仕舞ってある。きっとふとした拍子に見てしまうのだろう。
拓未と結婚した今でも、昔の記憶を懐かしんで、もしかしたら違う未来があったのかもしれないと想いを馳せ、見てしまうと思う。
拓未に探るような瞳で顔を見られ、我に返って名前を呼んだ。
「拓未?」
「あ、で、ソラ野郎はなんて?」
「また変なアダ名で呼んで。緑くんの墓ができたからまた参ってやってって話だった」
「……ふーん。了解」
拓未は立ち上がった。
「拓未」
服の裾を持って、彼を呼び止める。
彼が身を固くしたのが分かった。
「……何?」
彼を真っ直ぐと見つめる。
「拓未、本当に、ありがとう。………それから」
わたしの言葉の続きを忠実に待っている。
彼は決してわたしを急かすことはしない。
静かにじっと待って、受け止めてくれる。そんな人。
歳下なのにわたしをいつも甘えさせてくれる。でも、そればっかりではダメだ。ちゃんと自分の気持ちを言葉にして伝えておきたい。
「それから、…………拓未にちゃんと言ってなかったけど…」
「拓未、大好きだよ。でも、1番じゃなくてーーー」
最後の言葉を言い終わる前に彼に抱きしめられていた。いつもわたしの言葉は彼の行動で遮られる。
嬉しいって感情を隠さずに言葉や行動で示してくれる。
「1番じゃなくて?」
拓未は待ちきれずにわたしの顔を覗き込んだ。
「拓未は1番じゃなくて………わたしの特別ね。ずっと一緒にいてくれるんでしょ?」
「特別………」
拓未は言葉を反芻し、わたしのお腹を圧迫しないように抱きしめて、唇を額と頬と瞼に落とした。
女の人と見紛うぐらいの白い細い器用そうな手でわたしの頭を撫でた。
「ずっと一緒に居て、また寝る前にキスしてね」
「……そんなの何回もしてーって、寝る前にキスしてるの知ってた?」
知ってたよ。ずっとそうやってわたしが安心して寝られるように、優しく見守る愛を注いでいてくれていた事。素直になれないわたしは知らないふりをして拓未にただ甘えていただけ。
「うん、ずっと前にお酒飲んで寝ちゃった時も瞼にキスしてくれたでしょ?
拓未は気づいたら特別だった。愛を教えてくれてありがとう」
恋を醜いままで終わらせずに、さよならもできない恋心ごとわたしを受け止めてくれて、ありがとう。
拓未はわたしを見て、両手で頬を持った。
「ずっと一緒にいような」
促されるように瞳を閉じる。重ねられた唇の温度は、とても冷たかった。でも、包まれた頬は暖かい。
このまま冬が去って、春が来ても。彼はずっとわたしの隣に居てくれる。約束、を疑う余地のない確信へと変化を持たせてくれた彼の為に、もう少しだけ素直になろうと思った。
End.
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