6人が本棚に入れています
本棚に追加
次の日、目覚ましより早く起きてしまった。
というより眠れた気がしなかったといった方が合ってると思う。
いや、昨日の出来事の衝撃で眠れるわけがない。
部屋の扉から外の様子を見ると、すでにキッチンに立った女性がトントンと包丁を動かしている。
そっと扉を開けるとみそと油のいい香りが鼻をくすぐった。
耳からは油のはじける音とフライパンとコンロがすれる音が入ってくる。
部屋を出ると僕の足音に気が付いたのか、女性はくるっと振り返った。
「おはよう!って、なにそれあっははは!!!!」
「おはようございます。」
「あんた見事にたれパンダだよ!!」
このしゃべり方と豪華な笑い方は……。
「……影子さん……。」
「ん?」
「顔洗ってきます。」
昨日のリサと名乗った状態とは打って変わった態度に、混乱しつつも演技とも思えない。
僕は顔を何度も洗って鏡を見つめた。
目元にはがっつりとくまが浮き出ていて眠れなかったのは一目瞭然だった。
「“自分が自分でない感覚”……か。」
鏡の前で人相が悪い状態になっても僕にとってはこの鏡の中の僕は僕にしか見えないわけだし。
やっぱりその感覚が分かるわけもない。
「な~に変顔してんの?」
「うわぁ?!」
い、いつの間に僕の背後に立っていたんだろう。
それより視界に入るはずの距離に気が付かなかった自分ににらみを利かせた。
「そんなことしても人格なんて増えないよ。」
「ッ……。」
思わず目を見開いて鏡越しに影子さんを見ると影子さんは壁に背中を預けて少し悲しそうに下唇を噛む仕草をしていた。
「逆に破綻する。資料にも書いてあったでしょ?」
「すみません影子さん……約束守れなくて。」
僕が謝ると、影子さんは『いいよ、仕方ないし。』と単調に答えた。
「昨日、リサに会ったんでしょ?」
「……はい。」
「印象は?」
「え……、違う人みたいでした。」
「……ご飯、温かいうちに食べるよ。」
僕が正直に答えると、鏡に映る影子さんはすくっと壁から背中を離してリビングに戻っていった。
そのわずかな瞬間、少しほっとしたように笑ったのが見えた。
最初のコメントを投稿しよう!