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きゅうりと待ってる
地元の直売所に行くのはとても気が重かった。
なぜなら、知り合い会う確率が高いからだ。
四十歳で独身の女というだけで、同世代は腫れものを触るように接してくるし、年齢に関わらず無神経な人たちは『お見合い相手紹介しようか?』だなんて聞いてくる。
しかしスーパーのきゅうりが驚くほどに高かったので、ここならもしかしてと思ってやってきた。
さっさときゅうりを買って帰ろう、 と思って袋を手に取った時。
生産者のラベルが、視界に入る。
【生産者 一一ノ瀬正太郎】
その名前を見た途端、学生時代の思い出がよみがえる。
中学時代、一ノ瀬君の爽やかな笑顔に惚れて、仲良くなった。
『もし、三十過ぎてもお互いに独身だったら、結婚しようよ』
一ノ瀬君がそう言ってくれた時、冗談でもうれしかった。
でも、私はそんな言葉を律儀に待っている女ではなかったのだけど。
「失敗したな」
そう呟いてから、私はきゅうりをカゴに入れる。
この生産者が、私の初恋の彼なのかはわからない。
でも、そうそう似たような名前があるとも思えない。
おまけに、一ノ瀬君の家はハウス農家だと聞いたことがある。
彼が育てたきゅうりかもしれないと思うと、ドキドキした。
次の日も私は直売所へ行った。
きゅうりは今日もあり、一袋を手に取る。
生産者ラベルを手に取れば、そこにはこう書かれてあった。
【生産者 一ノ瀬翼】
名前が違う。
別人……いや、苗字は一緒。
ということは、これは一ノ瀬君の家族。
もしかして彼の息子の名前ではないのだろうか。
たとえば、二十二歳で子どもができ、その息子がもう十八歳で農家を継いでくれている。
ああ、それは可能性がある。
私が二十歳で地元を飛び出し、東京で働いて、どうしようもない男と同棲して別れて実家に戻っている間に、一ノ瀬君は家庭を築いていたのだ。
きっとそうに違いない。
でも、なんで急に息子になったんだろう。
他のきゅうりを見ると、全然別の人の名前のきゅうりしかなかった。
その次の日も、直売所へ行くと一ノ瀬翼のきゅうりしか見当たらない。
私はそこで嫌な想像をする。
もしかして、一ノ瀬君は病気で倒れたとか?
そんな不吉な想像をしていると、後ろのほうで声がした。
「翼のきゅうり美味しかったよ」
振り返ると、落ち着いた雰囲気の男性と、若い男性の二人がいた。
落ち着いた雰囲気の男性は、私と同じ年くらいだろうか。
若い男性のほうは、中学時代の一ノ瀬君に少し似ている。
「正太郎叔父さんが育て方を教えてくれたおかげだよ」
若い男性が、もう一人の男性をそう呼んだ。
正太郎と呼ばれたほうの男性を見ると、確かに中学時代の一ノ瀬君の面影は残っていた。
すると、一ノ瀬君と目が合い、彼がこちらに近づいてきて「もしかして」と言う。
「安藤、さん?」
ふいに苗字を呼ばれ、私は「一ノ瀬君?」と反射的に聞く。
「そう。うわ、何十年ぶりだろうな」
「久しぶりだね。一ノ瀬君は今はきゅうり栽培してないの?」
「ここ最近の俺のメインはトマトなんだ」
ホッと安心したところで、一ノ瀬君がこう聞いてくる。
「そういえば、もしかして安藤さんも、独身貴族ってやつ?」
「そう。なんでわかるの?」
「苗字変わってなかったから」
私が「ああ、そうか」と言って笑うと、一ノ瀬君はまるで独り言のように呟く。
「独り身同志、とりあえず近くの喫茶店でお茶でもしない?」
「うん、買い物した後でね」
私はそう言ってトマトを一袋、手に取った。
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