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生きやすい時代
辺りを見回せば、周囲の人はみんなマスクをつけている。
私は自分のマスクの位置を確認してバス停でバスを待った。
生きやすい時代になったなあと思う。
未知のウイルスが蔓延しているので、そんなことは大っぴらには言えないのだけれども。
でも、マスクをしなくちゃダメだという生活って、本当にいいものだな。
手鏡を見て自分の顔を確認していると、後ろにいる男性がこちらを見ているのがわかった。
男性は鏡の中の私と目が合うと、申し訳なさそうに視線を逸らす。
こんなふうに普通の女性として周囲が扱ってくれるようになったのも、この時代のおかげだ。
職場での昼休みは屋上で一人ランチ。
この寒い時期に、屋上に来る人間はいないからだ。
私はマスクを取り、お弁当を食べる。
ピカピカに磨いた自分の革靴に、私の口が映った。
顔の輪郭に近い部分まで口がある。
私は口裂け女だ。
正確に言えば、口裂け女二世。
母が純粋な口裂け女なのだが、母は妖怪ではあっても人を殺したりケガをさせたりはしない。
それはただの都市伝説。
父は妖怪好きなただの人間で、私は人間の血も引いているのだが、顔は完全に母似で。
だからどこへ行くにも何をするにもマスクが欠かせなかった。
子どもの頃も、学生時代も年中マスクをしていると、からかわれたり不気味がられたりする。
そこへいくと、今の時代は私にとってはありがたい。
でも、食事の時はマスクのままでは無理なので、こうして一人になって食べるのだ。
母は『妖怪って結構あちこちいるのよ。あなたのような二世もね。いつか同類に会えるわよ』だなんて呑気なことを言っていた。
しかし、私は今まで同類どころか母以外の妖怪を見たことがない。
「あの、すみません」
次の日、バス停でバスを待っていると、後ろから声をかけられた。
振り返ると、男性が立っていた。
昨日、私を見ていた男性だ。
彼は私にハンカチを差し出してきた。
「これ、落としましたよ」
「ありがとうございます」
私がお礼を言うと、男性はにっこりと微笑んだ。
優しい笑顔に、私は少しだけドキッとした。
好みのタイプの男性だけれど、向こうは口裂け女二世に好かれてもうれしくないだろう。
そんなことを考えていたら、男性がふいにこう聞いてきた。
「最近、よく僕の前にいますよね」
「え、ああ、そうですか?」
「はい。きれいな後ろ姿だなあと思って覚えていたんです」
男性はそこまで言うと、「あ、あの、すみません」と慌てた。
頬を赤らめる男性に、私の胸が高鳴る。
マスクを取れば、逃げ出されてしまう。
そんなのわかりきっている。
どんなに『僕は君の心を見る』と言った男子も、みんな私の口を見て叫んだり、罵声を浴びせてきたり、時には失神したり。
そういう仕打ちには、慣れている。
口裂け女二世に生まれてきたら、恋なんてあきらめなきゃいけない。
すると男性が言う。
「なんだかあなたとは、同じ匂いがして声をかけてしまいました」
男性の優しい口調に、私の心拍数はどんどん上がっていく。
周囲を見回せば、バスを待っているのは幸いにも私とこの男性のみ。
それならば、いっそのことこのマスクを取ってしまおう。
そうしたら、この男性も私も変な期待をしなくて済む。
私は勢いよくマスクを取った。
男性の目がまん丸くなる。
それから男性は、なぜかニコニコして自分のマスクを取った。
彼の口は、くちばしだった。
「僕、河童二世なんです」
「私は口裂け女の二世です」
私たちはお互いに微笑み合い、それからマスクをつけた。
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