全自動玄関

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全自動玄関

『本日は四月三十日の金曜日、時刻は午前七時十分です』  玄関に立った瞬間に、天井のスピーカーからそんな音声が響いてくる。  五分の除菌モードが終わると同時に僕はこう口にした。 「今日は仕事だ」 『仕事モードをオンにします』  スピーカーの声を合図にするかのように、靴箱が勝手に開いてピカピカの革靴がマジックハンドで僕の足元にそろえられる。  僕が靴を履けば、自動の靴ベラが入り込んで素早く靴の中の履き心地を良くしてくれた。 「便利だなあ」  僕は感嘆の声を上げた。  昨日の雨で汚れた革靴には、汚れ一つついていない。  つい最近、全自動玄関というものが、話題になった。  靴を用意してくれれるのも、靴ベラもすべて玄関が自動でやってくれるのだ。  玄関にある全身が映る鏡に自分を映せば、ネクタイも専用のマジックハンドが直してくれる。  寝癖も専用のマジックハンドが直してくれる。  忘れ物がないか、と声もかけてくれる。  今日の天気も教えてくれる。  そして、玄関のドアは自動で開け閉めされ、施錠も自働。  ちなみに、家に帰ってきた時も、同じことをしてくれる。  このような時代に、外からウイルスを持ち込まないためにつくられた画期的な玄関だった。  僕は、もともと潔癖症なところがあり、全自動玄関がついているマンションへの引っ越しを決意したのだ。  普通のサラリーマンの僕には、高い買い物だったが、ここに引っ越してきて本当に良かった。  僕が外にいる間に、この玄関すべてのものが自動で除菌される。  そして、家に帰ってきて玄関を通れば、また自動で除菌がされる。  なんてすばらしいのだろう。  僕は健康な生活ときれいな空間、つまり安心をお金で買ったのだ。  しかし、難点が一つだけある。 「あ、書類を忘れた」  僕はそう言うと、またリビングのほうへと戻った。  さすがにリビングの書類までは全自動玄関は持ってきてはくれない。  そして、僕が玄関にまた戻ると、五分の除菌モードから始まる。  その間、靴も履けやしないのだ。  なにせ除菌モードの時は靴箱が外から開かない仕組みになっている。  そして五分待つと、また靴箱から靴が出てきて……と一からやり直しだ。  忘れ物をして一度家の中に引き返した時は、この全自動の仕組みが非常にもどかしい。  全自動モードのオフもできるのだが、そうなると僕が外に出ている間の自動除菌モードも解除されてしまう。  つまり僕は、全自動に身を任せていなければいけないのだ。  除菌は大切だが、人の手でやったほうが早いこともある。  僕は歯がゆい思いをしながら、何とか玄関を出た。  今日は大事な取引先との打ち合わせがある。  だからスーツも革靴もカバンもピカピカに磨き上げた。  しかし、あまり時間がない。 「急がないと」と言いながら、マンションの敷地を出て歩道に出たその瞬間。  視界が茶色に染まる。  車道の水たまりを車がはねて、その水がすべて僕にかかったのだ。  スーツもカバンもびちゃびちゃに濡れてしまった。  ああ、仕事も全自動になれば……いや、何もかもが全自動でできればいいのに。
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