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目は口ほどに物を言う
「絶対に黙っていろよ。一言も喋るな」
俺が小声でそう言うと、左目は答える。
「ああ、わかった」
少しだけホッとして、それから小洒落た一軒家へ。
インターフォンを押して名乗ると、玄関を開けてくれたのは六十代くらいの婦人。
婦人は俺をセールスマンだとわかって応対したということは、もしかしたら買う気があるのかもしれない。
よし、営業成績を伸ばすチャンスだ。
俺はうちの会社の美容液がどれだけ肌に潤いを与えて、皺とシミを消し、肌年齢を三十歳は若返らせるのかを説明する。
婦人は真剣に聞いてくれていた。
今日はもしかしたら、契約ができるかもしれない。
そうしたら俺もようやく営業マンとして一人前になれる気がする。
しかし、次の瞬間。
「おいおい。さっきから黙って聞いてりゃ酷い話だぜ」
その声に、婦人が目をまん丸くした。
この渋い声は俺が発したもののように聞こえるが、正確には俺の意思で発したものではない。
俺の左目が喋っているのだ。
「他人を騙しちゃいけない。君たちはそれを教わらなかったのか?」
この渋い声の正体はわからない。
ある満月の晩、ぼんやりと月を眺めていたら突然、左目がちくりと傷んだ。
それ以来、左目が意思を持って喋るようになった。
寄生虫か化け物かそれともエイリアンか。
正体不明だが、こいつは俺の目が居心地が良いと言って、かれこれ一週間ほど居座っているのだ。
「あなた、さっきと声が全然違うじゃない」
婦人が不思議そうな顔でそう言ってから続ける。
「それに、言っていることも違うわね」
俺が口を開く前に左目が答える。
「俺のことは気にしないでください。怪しい者じゃありません」
「いや、怪しいにもほどがあるだろう」
俺が言うと、左目は続ける。
「君のさっきのセールストークの内容に比べりゃ、僕なんか誠実そのものだ」
「ねえ、あなた、さっきから誰と話しているの?」
婦人の言葉に、やっぱり目が先に答える。
「それより、ご婦人。この化粧品、買わないほうがいい」
「おい」
「有害な成分が入っているというわけではないが、大したもんじゃない」
目はよく通る渋い声で続ける。
「そもそも三十歳も若返る化粧品なんか存在すると思うかい?」
「それは主観的な問題だ。三十歳くらい若返ったような気がするという人もいるというだけだ」
俺はそこまで言ってハッとする。
左目につられて、ついつい俺まで本音が出てしまった。
ちらりと婦人を盗み見ると、俯いて肩を小刻みに震わせている。
怒っているのだろうか。
早々に退散をしたほうがいいのかもしれない。
そう思ってドアノブに手をかけたその時。
婦人が笑いだした。
それから俺を見てこう言う。
「あなた、とってもおもしろいのね」
「えっ?」
「最初は驚いたけれど、腹話術みたいなセールストークもありね」
婦人はそう言うと、ご機嫌で契約書にサインをしてくれた。
帰り際に「ぜひまたそのセールストークを見せてね」とまで言われたのだ。
俺は閑静な住宅街を歩きながら、なんだか腑に落ちない気分でいた。
「僕たち二人が組めば最強なんじゃないか」
左目の言葉に、単純な俺は元気が湧いてきた。
「そうだな。これで営業成績も伸びるぞ」
「ああ、そうだ。今日は会社帰りにデートだったよな」
左目がそう言ったので俺は思い出す。
そうだ、今日は彼女にプロポーズをするつもりだったんだ。
やっぱり左目との生活は前途多難だな。
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