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垂れ幕戦争
「垂れ幕戦争が近いからみんな殺気立ってるのよ」
デパートの女子トイレの洗面所で、真っ赤な口紅を塗り直しながら先輩がそう言った。
従業員トイレのせいか、ここにいるのは私と先輩だけだ。
「垂れ幕戦争、ですか」
私が聞き返すと、「そう」と先輩は言う。
私は先輩を横目でチラリと見てから答える。
「私は新人なんでAデパートのことはよくわからないんです」
「じゃあ、あなたもAデパートの社員になったんならよーく覚えておきなさい」
「はい」
「Aデパートの斜め向かいに、Bデパートがあるでしょう?」
「はい、道を挟んではいるものの、かなり近い位置にありますね」
「AデパートとBデパートはね、ライバル関係なの。Bデパートは三十年前にオープン、その一年後にうちのAデパートがオープン」
先輩は今度は眉毛を描き直しながら続ける。
「まあ、ライバルになるのも運命だったのね」
「ライバル同士、垂れ幕で戦うんですか?」
「そう。ほら、ビルの屋上から吊るすでっかい垂れ幕。あれでお客の入りも変わるからね」
「新聞広告とかじゃないんですね」
「今の若者は新聞をとっていないから。それに垂れ幕は電車から見えたり車から見えたり、もちろん歩いている人から見えるから集客効果が高いらしいのよ」
「なるほど」
私はうんうんと頷く。
先輩は眉毛を熱心に描きながら言う。
「来月――あと一週間でBデパートは創立三十周年を迎えるのよ」
「へえ、来月なんですね」
「もちろん、その時が垂れ幕戦争になるの」
「Bデパートが垂れ幕を出すのはわかりますが、Aデパートも垂れ幕を出すんですか?」
先輩はふんと鼻を鳴らして答える。
「決まってるじゃない! うちのデパートは二十九周年ってことで垂れ幕をつくるそうよ」
「でも、それなら三十周年のBデパートの垂れ幕のほうがキリが良くて目立ちますよね」
「そして、Bデパートは三十周年にちなんで、全品三十パーセントオフにしてくるわ」
「えっ? そうなんですか?」
私が驚いて先輩を見ると、彼女は得意げに言う。
「十年前もそうだったのよ。二十周年記念で二十パーセントオフ」
「確かに、その理屈でいくと、三十周年なら三十パーセントオフにしてきますよね」
「だからうちのデパートは、四十パーセントオフで垂れ幕をつくるそうよ。お客はうちのほうに流れてくるわ」
「二十九周年で四十パーセントオフですか。それは目立ちますね」
「でしょ。どうせBデパートなんか三十周年記念に三十パーセントオフするぐらいしか能がないの」
先輩はそう言って笑いだし、私も笑った。
「さ、仕事仕事」と先輩がトイレを出たので、私は「後で行きます」と答える。
それからすぐに個室へ。
一週間後。
垂れ幕戦争当日。
Aデパートには垂れ幕がかかり、『創立二十九周年! 全品四十パーセントオフ!』の文字が風になびいていた。
一方、Bデパートの垂れ幕にはこう書かれている。
『祝・創立三十周年! 感謝の記念セール全品、五十パーセントオフ!』
Bデパートはその日、大忙しだった。
商品は売れに売れ、おまけに週末に開催する北海道展の宣伝もでき、一石二鳥だったのだ。
仕事を終えた私は更衣室のロッカーを開ける。
それからBデパートの制服を脱ぐ。
私はBデパートの新入社員。
入社早々、早速、このデパートの役に立てたようでうれしい。
「トイレでの会話には気をつけないとね」
私はハンガーにかかったままのAデパートの制服に向かって呟いた。
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